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03

「あの顔面に叱られるのは、もう懲り懲り。なんだけど」


 自嘲の笑みを含んだ声で、呟いた。


「でも、気づいたからには、黙ってはいられない。それで、すべてを話したの。肝心があやふやなままでは、説得力に欠けるから。あなたの自殺願望について」


「セナ様」


 制止するように言葉が口をついて出た。


外套(がいとう)の下は、ご覧のとおりの七分丈で、肌寒い。夜風が身に障りそうです。そろそろ、小屋に戻って休みたいのですが」


 すると、緑の淡い光りが闇間(やみま)を流れ、近づいた。


「願望と言うほど、強い指向では、ないのだとしても」


 目の前に立った魔女の細い両腕が、外套(がいとう)に伸びた。

 そうして、だらしのない(えり)をただすと、ひらいたままの前(ぼたん)を、留めはじめた。

 息遣い。


「あなたは、命にかかわる危険を避けようとする意思が、とても弱い。死ぬかもしれないと思いつつ、そうなったらなったで仕方がないとも思ってる。むしろ、そうなるように行動してる。その点で明確なのは、あの実物の杖。親切な魔法使いさんが、わざわざ教えてくれたのに、あなたはそれを捨てなかった。信じながらも持っていた。杖に山を奪われた。あげくに殺されかけた。被害をこうむったような顔してますけど、その被害を呼び込んでいるのは、どなたかしらね」


 おのれの両手が、震え出す。

 上から順に(ぼたん)が一つ、留まるたび。

 震えが身を伝うようにひろがって、最下の(ぼたん)を魔女が留め終えた時には、おれの両足は硬直し、場から動けなくなっていた。


「それに。まともな人は、飢えてるわけでもないのに、なんだかわからない木の実を口に入れたりなんかしないわよ。なんで食べるのよ」


 ため息をつき、外套の汚れをかるく払ってから、彼女は離れた。


「あなたはみずから、死に寄っていく。近づいていこうとする。その不自然な行動に対して、自問が一切みられないのは、三年前の秋。スベラルタヤの魂が(のこ)した最後の言葉。待ってる」


 耳を塞げと、おれが思った。

 続く言葉を、聞いてはならないと、おれが思った。

 聞きたくないと、おれ自身が。


 心が、血を流すことになるからだと、おれが思った。

 痛みから、逃げてはならないと、おれが思った。

 耳を傾けろと、おれ自身が。


 弱々しく口からこぼれる。


「それは。セナ様には、関係のない、ことです」


「あなたは、彼女のその言葉を、天に(かえ)った恋人が、自分の来るのを、待っている、と受け取った。それが自答だったから。あなたの中で、考えるまでもない理由だったから。でもね。本当にそうかしら。それが真実?」


「もう結構です」


「確かに。わたしには、彼女の本意はわからない。想像でしかないけれど。その言葉には」


「やめろ」


 自分の意思ではないような、妙な感覚だったが間違いなく、おれが言ったのだった。


「あなたの死を、スベラルタヤが望んでいると?」


「だまれ」


「黙りません。おまえこそ黙りなさいっ」


 突然に魔女の口から一喝がほとばしった。

 すると記憶をみられた直後の怒りが、不意によみがえり。

 煮え立つような激しい感情に呑み込まれ、息差しが乱れ。

 激昂しかけた、その時だった。


 旅人よ。

 と、誰かが思った。

 そこの小生意気な魔女の声音(こわね)に、(あらが)うなと、誰かが思った。

 耳を澄ませと、誰かが。


 吐いた息から抜けていくように怒りが鎮まり、おれは呆然となった。

 気づくと動かない両足が、(おのの)いていた。


 セナ魔法使いは小声で、おちから()え恐れ入りますと呟いて、おもちゃ箱に顔を向けた。


「あの人形(かたち)に注がれていた、あなたの感情は、悲しみだけだった。悲しい、悲しい、悲しい。それしかなかった。あれは、とても綺麗な、負の感情。悲しみの(かたまり)だった」


 うしろ髪を揺らし、おれを見ながら語気強く言った。


「わたしの目には、あなたが自分でつくり出したあの人形(かたち)が――スベラルタヤの偽物が、あなたを死へと、手招いているように見えるのよ」


 ここから見上げる夜空には、星がなかった。

 北天の一角が、聳える山の陰に隠れ、漆黒に抜けていた。

 果ての知れない闇が、おれの頭上にひろがっていた。


 吸い込まれそうな、その暗黒の端に、一点の光りがあった。

 黄金(こがね)色をした、(まる)い光りだった。


 月は、私の指先に触れた瞬間に、はかなく遠去かろうとしたのだった。

 私は、精いっぱい指をのばし、去りかけた月をそっとつかんだ。

 ほとばしる想いに応えるように、月は私と、熱くからまり、その幸福を失うまいと、さらに指をのばした刹那。

 月は強い意思とともに、私の指先を離れ、そして。

 永遠に戻ってこなかった。


 確か、そんな文章だったと記憶する。

 吟遊詩人ダルシュヴィーユの代表作ではない、埋もれた小さな散文詩。

 君が教えてくれたのは、あの高原の花咲く庭だった。

 お気に入りの膝掛けを持って、長椅子に、ふたり。

 月の声と泪っていう題名の詩よと、読んでくれたのだった。

 (ちまた)によくある恋愛詩と思い、わかったような顔をして、頷いたが。

 どうして月は私から去ったと思うかと問われ、わかったような顔をしていたことが、すぐにばれた。

 あたしにもそれが、ずっとわからなかったのだけれど、今は、わかるような気がするのと、(さみ)しげに微笑んで。

 月は、私になりたかったのよと、君は言った。


(月は月として在ると同時に、私でも在りたいと思ったの。愛していたから。でも、どれだけ愛を確かめても、月は月でしか在り得ず、私では在り得なかった。それがとても悲しかったのよ。だから去った。叶わないから、去ったのよ)


 おれの手のひらを、握り返した。


(こんなに、大好きなのに。どうしてあたしは)


「あなたではないのだろう」


 つうーっと、涙が。

 頬を伝い、口に滲んだ。


 スベラルタヤ。

 どこにいるのですか。

 今、君は。

 たった一つの願いなのです。

 貴女を、この手で抱き締めたい。

 それだけなのです。


 おれは、たちまち包まれたのだった。

 なにもかもを、(ゆる)してくれる、温もりに。


「ああ、スベラルタヤ……」


 滂沱(ぼうだ)と落ちる涙のまま、おれは、しがみついた。


(わざわい)をもたらした忌まわしき石を、想い人の記憶が染み込む首飾りの石座(いしざ)から、(はず)さずに、置いた。それがなにを意味するか。混同してはならん。少なからずの(ゆかり)は有ろうが、この石にまで、深く想いを込めてはならん。それがなにを意味するか)


 なにかの千切れるような音を、聞いた気がした。

 宇宙の向こう側から聞こえたような気がするが、心の内側で聞いたような気もした。

 ものすごく遠いところは、ものすごく近いところでも、あるのかもしれない。


(想像力に限界はありません。無限大です。よってこの世は、可能性に満ち満ちています。しかしながら、それがゆえに、思念のちからの方途(ほうと)(たが)えると、厄介なことにもなります。あなたを死地に追い込んだ、害意を(はら)んだ龍の纏繞(てんじょう)。それが一つの、わかりやすい例です)


「だからあなたは死にたがる」


 張り裂けるような鋭い痛みに、意識がぐらりと(かし)いだ。

 支えを失い、倒れ込む。

 が、固まった両足は、操ることを放棄した意識をよそに、立ち続けていた。

 苦痛に顔をしかめ、立ったまま気絶しかけている男に、潤んで耀(かがや)く大きな瞳の女が言った。


「ルイメレク様の名を追って、あなたは遥々(はるばる)やって来た。でも、その旅の目的は、樹海の魔法使いに会うことでは、ないわね。あなたにとってこの場所は、ただの寄り道。そうでしょ? モハネトク鉱石の正体を知った今、これから、どこへ行くつもり? 得た知識を手土産に、石を納めた木箱もろとも、この世から消え去る気?」


 遠くに。

 どこか遠くに。

 この世の誰の手にも届かない、ずっとずっと遠くに。


「これからあなたが、どこへ、向かうにしても。生きている限りは、手遅れにならない。あなたが世から消える前に、あの悲しい人形(かたち)を、消してあげて」


 がくんと、膝から崩れ落ちた。

 よろめいた左の二の腕に、セナ魔法使いが右手を添えていた。

 そうして窯跡(かまあと)と思われる煉瓦積みに促した。

 腰をかけ、うなだれる。

 解き放たれた両足だったが、震えはなかなかとまらなかった。

 残遺(ざんい)ではなく、気づいたからだった。

 いったいなにを、おれはやらかしてしまっているのか。

 愕然としていた。

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