01
妖しい翠の光りに映える、血の気の失せたような白い肌。
長い睫毛の際立つその横顔は、この世のものとは思えない、美しさだった。
月下の魔女が、ふり向く前に、おれはこの場を離れたい。
だが、彼女の目線が気になった。
セナ魔法使いは、凝然とおもちゃ箱を――おれの心の繊細を、見つめていた。
(おまえの今日は、まだ、終わらぬ)
声をかけるか立ち去るか、迷ったのは束の間だった。
「来て」
淡い光りがたおやかに、桶をかかえた七分丈の男を、手招いた。
鼓動の速まるのを感じながら、応じた。
「はい。なにか」
彼女と目を合わさぬよう、すらりとした貫頭衣の裾に焦点を固定し、歩み寄る。
輝くような白皙が、こちらに向くのが、視野にわかった。
「今さっき、気づいたの。昨日までは、いなかったのに」
「いなかった? どなたが、ですか?」
「知らない」
抑揚なく答え、夜空よりも暗く沈んだおもちゃ箱を指差した。
「女がいるのよ」
「え? 女?」
「あの中に」
もう一度、聞き返すと、こくんと頷いた。
「昨日まではいなかったの。フロリダス。あなたも昨日は、いなかった」
その言葉に、金縛りにかかったように、固まった。
搾り出すような声になった。
「中に、女が、いる?」
すると彼女は、おもちゃ箱へ顔を向け。
探るように、ゆっくりと。
「金髪。だけど少し、くすんだ色かな。腰くらいまでありそう。とても長い髪してる。あの目は。ああ、眼鏡をかけてるのね」
手足が小刻みに震えはじめた。
まさか、そんな。
「ちょっと目付きが、艶っぽい。口許に、小さなほくろ。笑顔が素敵」
おれは駆け出していた。
放った桶の転がる音。
セナ魔法使いが口にしたその特徴は、間違いなかった。
彼女は確かに姿を見ている。
どういうことかはわからない。
だが会えるものなら、会えるものなら。
扉を開け、勢いよく飛び込んだ――。
「スベラルタヤッ」
――暗闇。
突き落とすような暗闇だった。
姿はおろか、なにも見えない。
「どこだ? スベラルタヤ? どこにいる? どこにいるんです?」
振り返り、走り寄った。
視線が重なり、全身がぶわりと粟立った。
大きな瞳が、見ひらかれていく。
「どこですかっ」
おのれが放った尖り声を、おのれの耳が聞いた瞬間。
自分の両手がつかんでいる両肩――小さく華奢なその感触に、おれはたちまち我に返り、はっと手を離した。
「失礼。失礼しました」
あわてて身を引き、すぐさまおもちゃ箱を返り見た。
あの中に、スベラルタヤが?
(昨日の夜更け過ぎ、スベラルタヤ・トカーチの霊魂が、旅立たれました)
どういうことだ。
もう二度と、二度とは会えない君の姿を、魔女は見た。
どうしてだ。
なにが起こってる。
「あの女がお化けなら、見せようも、あるんだけど」
険を含んだ冷たい声が、真横で聞こえた。
混乱しつつ視野にとらえると、彼女はおれを、凝視していた。
くずれた襟元を見よがしに、なおしながら。
「あれは、霊じゃない。なんだか、お化けの脱け殻みたい」
「脱け殻」
呟くと、小さく頷いた。
「魂が、ないのよ。捜してみたけど、どこにもないの。忘れもののように、姿だけが、そこに残って見える。いくらわたしでも、相手がただの脱け殻では、思いは読めない。あの女が何者か。その答えは、今のあなたの取り乱し様」
おれの正面に向き直った。
「フロリダス。びっくりしたわ。わたしを驚かすのは、やめて」
そこで急に、やわらかな口調に転じ。
「あの女は、誰?」
優しく問われた。
答えなければ、ならないだろう。
だが、何人にも知られたくない、という気持ちが不意に湧き立って、返事につまった。
口ごもり、視線が地べたを這って彷徨う。
すると、細い右腕がゆっくりと、眼下に伸びてきた。
その人差し指の先が、おれの顎に触れた。
そうして男の伏せた顔を、持ちあげる。
「あなたの恋人? 奥様? ご姉妹かしら」
余韻のような微笑の上に、鋭く尖った――。
氷柱のような眼差しが、おれの双眸を射抜いた。
「だとしても、このまま居座られたら、目障りなのよね」
がん。
心に鳴り乱れる不協和音。
それは一瞬だった。
尋常ではない鳥肌が遅れて満身にほとばしり、反射的に跳びのいた。
とっさにはずした目線の端で、衣がひらりと翻る。
「ふうん。そうゆうこと」
離れた魔女が、呟いた。
「かなしいひと」
聞いて、茫然となった。
その短い言葉を発した声音には、知悉の響きがあった。
おもちゃ箱に向いた貫頭衣の裾が、夜風にはためく。
やがて、囁くような口調で。
「スベラルタヤ・トカーチの魂は、あなたのそばにはもういない。とうに天に昇がってる。あなたの恋人だった女は、とても意思の強いひと。だから、あなたのそばにはもういない」
覚った。
彼女は今の一瞬で、おれの記憶を読んだのだ。
他人の脳に感応し、五臓六腑に残る記憶を読み取るちからを持つ魔法使いが、稀にいると聞いたことが。
知的生物の眼球は、露出した頭脳――。
「あなたの学識と、公人としての履歴は、尊敬に価します。心からそう思う。けど、私事となると、てんでだめね」
うつ向けている顔面が、かっと熱くなった。
覗き見られた羞恥と、無礼の憤怒に、頭がくらくらした。
先に無礼をはたらいたのは、確かにおれのほうだが。
その返しの行動だったとしても、これは、甘受し難い。
ポハンカ・セナの魔法の本領は、記憶透視。
この女は、他人の思い出に、無断で土足で踏み込んだ。
煮えるような激しい感情に顔をあげ魔女を睨みつけ、喉まで出かけた怒りの言葉を、しかし。
おれはすんでで、のみ込んだ。
淡い緑の光りが照らす、セナの幽かな横顔は。
苦しげだった。
秀麗な眉目をゆがめ、今にも泣き出しそうな表情で、おもちゃ箱を見つめていた。
支えていないと崩折れそうな、その切ない立ち姿に。
怒りはたちまち鎮静し、なにも言えなくなった。
不思議な感覚だった。
そこに佇んでいる人間は、同じ記憶を共有する、もう一人のおれだった。




