02
両岸の砂利は粗く、川辺を歩くのは難儀そうだった。
いったん戻った南の橋詰から、街道を東へはずれた。
ホーキ川を左に、樹間の疎らな森の中を小走りに進む。
背後に人の気配はなく、先ほどまで自分が立っていた橋が木々の合間に見え隠れした。
しばらく谷間に沿って進んだところで、街道からの視界が完全に途切れたのを確認すると、おれは川辺におりた。
思ったとおり、川の水は清冽だった。
ただ、水温がとても低い。
汲んですぐに腹に流し込むのは、控えたほうがよさそうだった。
丘の斜面に腰をおろし、乾燥パンを食べた。
齧りながら、谷底にひろがる粗い砂利を眺める。
足元の小石をいくつか手に取って見ると、どれもこれも角が立っていた。
これでは、歩きづらいだけでなく、転んだだけで裂傷を負いかねない。
やはり、丘を歩いたほうがよい。
石を放り投げ、腰をあげた。
陽射しに照り映える無色透明の川面を覗き込み、川底を観察する。
水面下にあるどの小石も、角張っていた。
上流から運ばれてくる砂利は、水流に揉まれるうちに破断面を失い、丸みを帯びる。
川の流れが穏やかである点を差し引いても、川底に沈む砂利までもが、ほとんど摩滅していないのは……。
水車。
そこで、おれはようやく気づいた。
この川はホーキ川ではない。
立ちあがり、足元に注意しながら川縁を北に進んだ。
杣人たちにとって、ホーキ川の水は生活用水。
制御しようと考えて当然だ。
水車の運転には常時、一定の水量が求められる。
これは自然河川ではない。
自然の地形を利用して造られた用水路。
果たして……川辺の先は、行きどまりであった。
丘の谷間を遮って灰色の構造物が立ちはだかっていた。
近づくにつれ、水の跳ねる音が大きくなり、せせらぎをかき消していく。
そうしてほどなく迫ったそれは。
石造の水門であった。
高さ約四メートル。
隙間なく組みあげられた石壁の真ん中に、三十センチ四方の口が一つだけ空いており、そこから定量の水が流れ出ている。
腰をかがめて水口を覗いて見ると、石壁の厚みは二メートル以上ありそうだった。
堅牢な、まるで城壁のようであり、あらためて見あげて、おれは感嘆した。
ホーキ川と思った流れが用水路だったことは、予想のとおりであったが、その用水路を制御する水門の規模は予想外だった。
これほどの水門を構築するのに、どれだけの労力を要したか。
相当の骨折りが察せられた。
ウルグラドルールの造林場開発事業の、その一部として築かれたに違いない。
杣人の生活と、水車の稼働を保障するため。
つまり、この一帯の自然環境は、それだけ植林に適していたということだ。
そして、ホーキ川からの導水には、これほどの水門が必要だったということだ。
傍らの川辺に、丸木が数本、転がっていた。
おれはそれらを踏み越え、丘を駆けあがった。
水門の向こう側――森を南北に分断している谷間。
「これが、ホーキ川か」
東から西へと、ほぼまっすぐに、滔々と流れていた。
川幅はおよそ五メートル、流れは思いのほか速く、水嵩は用水路よりも一メートル以上高い。
川面の接する丘の斜面の両岸は黒炭色の岩盤が露出し、瀬戸際まで樹木がそばだって、梢を川の上にのばしていた。
切り立った川岸に木々が太い根を張ってはいたが、端は土壌が脆くなっている危険があった。
おれはすぐに水門のてっぺんに足場を移した。
水門上部の中央に、五十センチ四方の穴が空いており、そこから二本の丸木が突き出ていた。
穴に挿入した丸木の太さと本数で、水量を調節する仕組みのようだ。
上に立ってみて、奥行きは三メートル近くもあることがわかった。
ホーキ川の直線的な南岸に、平行して築かれている。
この位置ならば流れによる負荷はほとんどかからない。
水門の厚く頑丈に造られた理由は、流速ではなく水位。
背嚢をその場におろすと、うつ伏せになって、ホーキ川に面している石壁を見おろした。
取水口は完全に水没し、その水際では流れが乱れ、絶えず飛沫があがっていた。
少しだけ身体を前に出し、水面上の石壁に目を凝らす。
すると、川面からだいぶ上の壁面のみが、日焼けしたように微かに黒ずんでいた。
確信した。
石壁に残るこの色味の違いが、水門の堅牢である理由。
やはりホーキ川は、増水するのだ。
上昇した水位――その水圧に耐え得る強固さが、水門に求められた。
これは、見込みどおりかもしれない。
身体を起こした。
おそらく、川は現在、増水の直中にある。
これからさらに、増えるはずだ。
河川増水の主因となるのは、大雨か、雪解け。
雨ではない。
人工とは言え、一帯は広大な森林を形成している。
森は、雨水を地中に吸収し、地下に溜め込んだ水をゆっくりと川に流していくから急激な水位上昇は起こりにくい。
この川の増水の原因は、まずもって雪解け。
だが、季節はすでに初夏であり、丘陵地帯に雪はもはや残っていない。
残っているとすれば、それは。
「冠雪」
ホーキ川には、ホズ・レインジからの大量の雪解水が流れ込んでいる。
水温が非常に低いことも、それを裏付ける。
通常、雪解水は、地表面の土を含んで川に流れ込むため、増水した川の水は濁る。
しかし、この川は、綺麗な水質を維持したままだ。
考えられるのは、春先より山肌に染み込んだ雪水を吐きだす湧水の口が、上流域のどこかにあり、濁りを落として流れ出るのが、この時期である可能性。
空の狭い川上を、遠く眺めた。
ホーキ川を遡れば、樹海に近づける。
その見込みが極めて高い。
思った時だった。
「そ……。…………い」
びくりとし、とっさに周囲を見まわした。
人の声が聞こえた気がしたが、辺りには誰もいない。
対岸の森を窺う。
すると、西の川下の木々の向こうに、欄干のついた大きな橋の一部が見えた。
欄干のない、用水路のあの橋の、さらに先。
ホーキ川に分断された北の街道をつなぐ橋に、それは違いなく、あわてて水門の上から木陰に移動した。
今、おれは誰かに、姿を見られたのではないか。
単なる通行人ならば問題なかろうが、それが杣人だったらば、大切な水門に不審者を見たのだ。
様子を見に来るかもしれない。
ここで、引きとめられるのは面倒だ。
すぐにこの場を離れよう。
先を急ごう。
背嚢を背負った。