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学内で、銀塩写真の再現実験が可能となったのは、銀が手に入ったことによる。
地下資源の一大産地であるわが故郷にても銀の鉱脈は発見されておらず、ロウリエル地方の南に小さな鉱源が点在するのみで、操業自体も活発でなく、その入手は困難であった。
理由は、そこで採掘される銀が、規制金属である土鉄を多量に含んでいるためである。
その鉱石から銀を得るには土鉄を除去する必要があり、製錬が困難であったのだ。
加えて、銀は硬度がとても低いため、実用品の活用範囲が狭く、市井における銀の需要が総じて低い点も、市場に出回らない大きな理由だった。
今後、銀鉱石の鉱脈が発見され、民間に渡りやすくなったなら──とりわけ女性の目に留まる機会が増えれば、製錬された銀の高い反射率から装飾品の材料としての需要が高まり、また写真技術の普及と相まって価値も一気に上昇すると思われるが、現時点での鉄銀比価は、およそ一対三〇であった。
鉄よりも価値は低いが入手難度は鉄よりも高い、という状態となっているのが、銀だった。
「サリアタ様が、印画紙を?」
訊ねると、去りかけた足がとまり、振り返った。
「土鉄を探していたときに、わずかだったが、銀も出てきてな。銀さえあれば、あとは魔法でどうにでもなるよ」
銀さえあれば、あとは魔法で──。
棚板の上に、ごたごたと並んでいる硝子瓶に目をやった。
「なるほど」
おれは諸々納得し、頷いた。
塩化銀の生成には、硝酸銀が必要だ。
塩と卵白の混合液を浸した紙に、硝酸銀の溶液を塗布すると、塩との反応で塩化銀が生じ、卵白が塩化銀を紙に固定する。
それが印画紙。
塩は、海水や岩塩から得られる一般的な物質。
卵白は、鶏たちが産んでくれる。
硝酸銀は、銀と硝酸の化合物。
銀は、この部屋から見つかった。
「硝酸は」
思わず口からこぼれると、サリアタ氏は呆れたような顔をして、おれの顔をつくづくと見た。
「なんだ。作り方まで知っとるのか」
硝酸は、まずもって硫酸から作られる。
その二つの物質はきわめて有害であり、ご先祖が記した有用資源の要綱で劇物に指定されているため、規制上は学府及び医療の従事者にしか扱えない。
硫黄と硝石とを燃焼すると硝石が硫黄を酸化し、生じた酸化硫黄と水蒸気とを合成することで硫酸となる。
硫酸の原料である硫黄と硝石は、火薬の原料でもあるため、要綱にて先の二つと同じく危険物に分類されているが、個々の入手は比較的容易であった。
硫黄は、メルスデュール地方の巨大隕石孔から採取でき、硝石は、天然にも産するが排泄物などを含む土中の微生物の酸化作用により製造が可能だった。
硫黄と硝石から得た硫酸に、窒素源として硝石を加熱混合し、蒸留するのが一般的な硝酸の製造手順であったが、この方法で得られる硝酸は不純物が多かった。
そのため、再現実験での硝酸製造の際には、低質の硫酸は使わずに、役場の顧問魔術師の先生方にお出まし頂いたのだった。
空気中に無尽蔵に含まれる窒素酸化物を直接、密閉容器内に魔法で集めてもらい、そこに水蒸気を送り込んで混合し、蒸留によって高純度の硝酸を得たのである。
目の前の人物もそして、魔法使いだった。
「まあ、おまえさんが物識りなお陰で、理屈を説く手間は省けたがの。それでも刻が刻だ。腹が減ったわい」
ぶつぶつ言いながら、サリアタ氏は出ていった。
不親切な教科書の写本は、世界中に散らばっている。
銀を見て、不可視光線を可視化する印画紙を思いつく。
氏には、やはり、先史人類の世界についての造詣が。
地球由来の外来種である鹿の角の知識からも、その点はもう、間違いない。
ルイメレクにしても、サオリなる命名に、古語に対する深い知識を示している。
樹海の魔法使いの師弟には、ご先祖との関わりが、濃厚である。
大小の木箱のあいだに角灯を置いた。
まず、小箱の蓋を開けた。
裏に確かに貼られていた印画紙の色は、全面、乳白色だった。
中を覗くと、小さな丸石が一つ入っていた。
小箱の蓋を戻し、大箱の蓋に手をかける。
この木箱に、先ほど自分で革製の巾着袋を入れた時、蓋の裏に認めた紙も間違いなく乳白色だった。
力を込めて持ちあげて、裏返した。
乳白色の真ん中が、疎らに黒く変じていた。
おれは静かに、蓋を閉じた。
サリアタ氏の主観が導き出した答えの真実が、客観で、確定した。
おまえさんが物識りなお陰でと、氏は言ったが。
それはどちらかと言えば、おれの台詞だ。
吐息をつき、角灯を持った。
灯りを掲げ、薄暗い室内をまわし見る。
彼の魔法使いが、遊び場にしていた小屋。
モハネトク鉱石を封印する土鉄。
その秘めたる力を証明した銀。
いずれも、簡単には手に入らない金属だった。
いずれも、ルイメレクがこの場に残したものだった。
まるで、半世紀後に現れる愚かな男のために、仕込んでくれていたかのように。
おれが旅の宛としたのは、その名前だけであった。
名前しか知らぬ人物が、かつて存在していた実感に確かに触れながら、おれはしばらく瞑目した。
そとに出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。
宵闇に沈んだ魔法使いの隠れ家に、点る明かりは、三つあった。
一つは自分の提げ持つ角灯の火。
一つは畠の向こう側に孤立している一軒家。
そして一つは、東にひろがる果樹らしき植え込みの中だった。
そこでわずかに揺れ動いている明かりにおれは目をとめた。
闇間に浮かぶ木々の枝葉は、ぼんやりと緑掛かっていて、あきらかに火とは色味が異なる。
氏だろうかと思いながら、おれは背嚢を取り、そちらへ近づいた。




