01
ウルグラドルールの防風林を抜けると、視界は一気にひらけ、見晴かす大平原に入った。
一面の緑に散らばるパルティパやジアルアネスなどの淑やかな草花と一緒に、初夏の風に吹かれた。
ホズ・レインジはその全貌をあらわし、北東の蒼空にどんと聳えた。
標高およそ五千メートルの独峰は、なだらかな懸垂曲線をひっくり返したような、左右対称の稜線を有する美しい山であった。
その山容から古くより火山である可能性が指摘されているが、有史以来、噴火の記録はない。
大森林を従えた山の四周は、南側の一帯のみが、樹海と呼ばれる。
理由は不明だが、樹海なる言葉には広域にわたる大森林という語意だけでなく、漠然と負の意味合いも含まれているため、おそらくは南の森にまつわる俗伝が、その呼称を与えたのだろう。
山麓の黒々とした森の影と、荒々しい褐色の山肌と、澄んだ冠雪とを遥かに眺めながら、アデルモが作ってくれた握り飯を頬張った。
遮るもののなかった平原に点々と木立が見えはじめた頃、日が暮れて、路辺の枯れ木に天幕を吊り、夜をめくった。
朝未きに出てまもなく、それまでゆるやかに波打つ程度だった大地の起伏が次第に強くなり、やがて丘のつらなりとなった。
地勢は平野を脱し、山沿いに入った。
ホズ・レインジはまだ遠かったが、裾野は広大であり、いよいよその西端に差しかかったかと思いつつ、丘の谷に沿ってうねりはじめた街道を進んでいくと行く手に唐突に森があらわれた。
丘陵にひろがるこの森林は、種々の落葉樹で構成されていて、ネルテシアンオークやヒンギ、バラナシなどの並び立つ林床に雑草はほとんどなく、その様相は自然植生には見えなかった。
いずれも木材や燃料に適した有用樹種であり、人の手が入った人工の森のように思われた。
それでも、森林の空気につつまれ、樹海に近づいている実感に急く心が速める手足をもてあました。
無理をせず、ゆっくりと進んでいたつもりだったが、早足になってしまっていたらしい。
薄暗い森のひらけた先に、木造の橋板が見えたのは、太陽が天心にかかった頃だった。
真昼の強い陽射しに、赫々と明らんでいた。
ホーキ川。
欄干のない橋板に立ち、川上を眺めた。
丘の谷間を這うように流れる川だった。
光りの微塵にくだける川面は、橋から二メートルほど下にあった。
川幅は三メートルあるかないか。
流れる水は清らかで、粗い砂利の堆積する深くない川底に、水面の波打つ影が落ちるのが見える。
申しぶんのない水質である。
両岸は浸食によって土が削れ、川底と同じ粗い砂利のひろがる川辺になっていた。
その川筋がゆるやかに左へ湾曲しており、森の奥に隠れていた。
目線をあげると、奥の木立の林冠の上に、ホズ・レインジの白い峰がわずかに覗いた。
彼の山が、この川の水源であれば。
それが南麓の森へ流れ出ていれば、遡上することで迷わずに、樹海に近づける。
はずである。
もとより、とりつく島のなかったおれだ。
当てがはずれたとしても、水場を把握して踏み込めるだけで心強い。
過去、何人もの探検家が、樹海踏破を目的に旅立っているという話しだ。
その中には、おれと同じ算段で、この川をのぼった者もいただろう。
不帰となった彼らは、この先に、なにを見たか。
振り返り、川下へ目をやった。
西側の川筋は、わずかに蛇行しながらも直線的で、遠くまで見とおせた。
橋から少し離れた北側の丘の一画はひらかれていて、切妻屋根の住居が何軒か建っていた。
うち一軒の家屋の壁に看板があり、アデルモの言葉のとおり、宿の文字が見えた。
それらのたたずまいには、確かな生活の気配があった。
人の姿はなかった。
二か月あまりの旅中、似たような環境の家屋群を何度か目にしていた。
いずれも居住者は杣人であった。
おそらく、この一帯は、ウルグラドルールの管理下にある造林地区。
そして住人は、嘱託の林業従事者。
だとすれば、彼らはきっと、一円の地理にあかるい。
ホーキ川の上流域についても、知見があるかもしれない。
それは、おれが得られる、最後の情報となるだろう。
陽はまだ高かった。
立ち寄ってみるか。
どうするか。
とん、ぎい、ととん。
清流のせせらぎの狭間に、断続的な拍子の機械音を微かに聞く。
風に乗って運ばれてくるその音源は、どうやら西にあるようだった。
この位置からでは見えない川下の端に、水車が設けられているのだろう。
杣人たちは皆、仕事中のようだった。
とん、ぎい、ととん。
長閑やかなその拍子から水車に組み込まれている機構を想像していると、不意に、いちばん遠い家屋の影から少年がとび出した。
桶を持って、かけ足で川辺におりた。
そうして川の水を汲み、こちらに気づかぬまま、丘をあがって家屋の向こうに消えた時、橋の先――対岸の森に続く北の街道の奥から、足音が聞こえた。
まもなく、旅行者然とした風貌の男が一人、暗がりに姿を見せた。
段袋を肩に負い、左手に長杖を持ったその男は、銀色の長い髪をうなじのあたりで束ね、切れ長の目をしていた。
涼しげな目元からその額を認めた瞬間、おれは、はっとなった。
眉間のやや上の皮膚が、わずかに円く凹んでいる。
額の皮膚のその円形の陥没は、先天的に頭蓋骨にひらいている穴によるもので、それは魔法使いの資質を持って生まれた人間特有の身体的特徴であった。
二十代半ばの青年に見えた。
ただ、彼らの外見は、往々にして実年齢よりもすこぶる若い。
口元に微笑を湛えながら、青年は橋板を踏んで、横を通りしな、無言で会釈をした。
おれも辞儀を返した。
「ご機嫌よう」
かけた声が揺れてしまった。
初めてだった。
ラステゴマを発ってから、道中において、魔法使いとすれ違ったのは。
立ち寄った宿場町では何度も見かけていたが。
思わず、うしろ姿を見送っていると、不意にその足がとまり、振り返った。
視線はまっすぐ、おれの右手に注がれている。
微笑は消えていた。
「さてさて。どうしたものかな」
発したその声は若い男のそれであったが、口調からは年季を経た老人のような印象を受けた。
「よもやあなたが、それを為したとは思えぬが」
すっと目を細め、小首を傾げた。
「すべてを承知で、無頭の龍を、道連れに?」
人物からの問いかけを受け、おれは少しまごつきながら答えた。
「い、いえ。事情は、わたしにも、わからないのです」
即座に経緯をつけ足した。
「これは先日、いただいたものなのですが、前の持ち主は、ウルグラドルールのがらくた市で買われたそうです。ただの杖として。なにもご存じではなく」
「なるほど。流れ物か」
青年の長杖の石突が、橋板を鳴らした。
「どうやら、捨て値に釣られ、実物を購われてしまったようだな」
「実物?」
か細く鋭くなった目が、おれの右手をちらりと見やった。
「その杖は、首を刎ねられているぞ。願立てに使われたのだ。呪詛のな」
「呪詛」
呟いて、おれは相槌を打った。
やはり、意図的に切断されたものであったか。
不自然だったのだ。
長杖の上端が折れる、というのは。
忌まわしい理由ではあるが、おれは納得した。
「いかなる由で流れたものか。杖としてはな。確かに、上物だ。それでも、手放されたほうがよろしい。それがまとう悪意の残滓は、あなたの旅路の禍根となろう。すでに」
一声、唸って、品定めするようにおれの全身をまわし見た。
「いや、わたしもまだまだ、精進が足りんということだな。けだし、そのラズマーフが不祥である謂れは、間違いなかろう。なにもあなたが、それに引きずられることはない。あなたには、あなたの進むべき道がある。焚き火に焼べておしまいなさい。灰塵に帰すが最善」
言って、低頭した。
「不躾な口出し、ご容赦を。では、ご機嫌よう」
「ご忠告、感謝します」
青年は微笑し、街道に去った。
橋の上で、頭のないラズマーフを眺めた。
呪詛のために、首を刎ねられた、杖。
思いがけず、内幕を知るところとなった。
おぞましい事実だ。
アデルモの宿から持ちだして正解だった。
吐息が漏れた。
魔法使いの告げた言葉を、おれはまったく信じる。
信じるからこそ、このラズマーフは、最期まで捨てずにおこう。
本物をまとう不吉な杖なら、なおのこと。
おれの道連れにふさわしい。
本物をまとう不吉なおれに、ふさわしい。
とん、ぎい、ととん。
川下に目をやった。
遠くの川端に、先ほど見かけた少年が立っていた。
桶をかかえ、こちらに顔を向けていた。
さらにその奥にも、洗濯物らしきを持った女性の姿があって、こちらを見ていた。
やはり、訪ねるのは、やめよう。
このまま出発だ。
安寧の日々を過ごしている彼らに対し、おれの存在は、禍々しすぎる。
左手を掲げ、くたびれている長杖を数度、振った。
すると女性は片手を振って、少年は溌剌と両手を振って、応えてくれた。