02
鬱蒼と立ち並んでいた木々が消え、拓かれた土地に陽射しの照った屋根が見えたのである。
板葺の急勾配の切妻屋根で、軒が地面に接するほどに長い木造の平屋だった。
似た造りの家屋が、その右手奥にも何軒か建っている。
「え? ええ?」
突然のことに、混乱していると、眼前の虚空から。
──見えたか? 見えたな。
もはや聞きなれた少女の声。
姿はなく、言葉のみが聞こえる。
「姫様」
──やむを得ん。おまえの現身の眼には、あれが見えなんだか。
陽の当たる住居群。
樹海の深奥に築かれた、人里。
間違いない。
着いたのだ。
着いていたのだ。
それを姫様は、伝えようとしていたのか。
しかし。
「いったい、これは。どういうことですか」
おれの意識が目醒めているのは、まごうかたなき夢である。
現実の肉眼では、見えなかった情景が、夢の中では、見える。
夢でしか、この情景は、見えない?
樹海の魔法使いの住み処には、夢の森でなければ、辿り着けない?
すると、姫様が言った。
──案ずるな。今やおまえは、あれに気づいた。現に醒めても、まるで見えるであろう。
返答に戸惑った。
「い、いくらなんでも。気づく気づかないの話しでは、ないように思うのですが」
──小癪なことに、十重二十重にこしらえおった。崩してやってもよいのだが、面倒でな。
「崩す?」
──サリアタが、みずから張った隠りの魔法だ。魂の気づきを、欺くためだ。魂が気づかねば、それは無きも同然だからな。現のおまえの盲目は、それが仕業よ。
魂が気づかなければ、無いも同然。
「つまり。この場所は」
──知られたくないようだな。余所から参った人間に。おのれの縄張りを。
「なぜでしょうか」
──のみならず、あの門からしか、埒があかない。周到なことよ。
門? と思って目を向けると、空き地の手前に、粗雑に立て並べられた木造の柵があり、ちょうど正面のその柵に、簡素な枝折戸が設けられているのに気づいた。
──あの門。あれが一つなる間道だ。よいか。あれを通って進むのだ。よいな?
その言い方に、おれは訊ねた。
「もしや、わたし一人で?」
──無論。われは立ち入らん。埒外にて、耳を傾けよう。
「なぜです? せっかくここまで」
──あれは人の住処ぞ。穢れた魂の溜まり場ぞ。虫酸が走る。滅入る。われは立ち入らん。
ふん、と鼻を鳴らした。
なるほど。
「ごもっとも」
おれは首を垂れた。
「ならば、なおのこと。お導き、感謝いたします。ほかでもないわたしこそが、魂の汚れた人間ですのに」
──思い違いをするな。われが心に留めたは、おまえが持つ荷だ。おまえではない。
聞いて、苦笑し、頷いた。
「はい」
──なれど。
やや間を置いてから、言葉を継いだ。
──愉快であったぞ。
「え?」
──おまえが語った天下の一理は、神の計画である。それを人が、人の言葉で語ると、さように煩わしくなるものかと、つくづく知った。
意味が、わからなかった。
だがすぐに、洞窟で述べた蒸気機関の原理と気づいて、息をのんだ。
──同じく現身を持つわれが、人の口から、神の計画を学ぶのも、一興かと思う。ふたたびの機会あらば、われは愉快である。
なんと、理解されていたのか。
おれの話しを、姫様は。
その場でおのずと、片膝が屈した。
「畏れ入りました」
すると。
──おやおや。
目の前の雑草が揺れ動いた。
──おまえを招じ入れる者が参ったぞ。
その言葉に、はっとして顔をあげると柵の外にいつのまにか、人が立っていた。
ゆっくり枝折戸を開いていく、麦藁帽子をかぶった、小柄な老夫。
よれよれの作務衣を着て、土で汚れた手ぬぐいを首にかけている。
今の今まで畠仕事をしていたかのような出で立ちであった。
日に焼けた健康的な肌をしており、肉づきのよい丸顔。
だが、その面貌は、異相だった。
厚ぼったい両目のまぶたが、目尻に深い皺を刻んでいる。
その皺が、怒気のようにつり上がっているのだった。
重たげなまぶたの下の双眸は眼窩にくぼみ、細く、剣閃のように鋭い。
大きな団子鼻も、肉厚の唇も、愛嬌の役には立っていない。
おれは思わず一歩、あとずさった。
「あの方は」
──因果な男よ。
麦藁帽子の陰りで、額の状態は、わからないが。
──生まれ持ったちからの強さが、面に表れておる。闇間に盛る業火のようなものだからな。
「よもや。あの方が」
樹海の魔法使いサリアタ。
その人と思われる老人が、枝折戸の脇に立ち、片手をひらいて、訪問者を促した。
──旅人よ。いざ。
姫様の声を耳にした瞬間だった。
視界に映じる夢の森が、ぐにゃりと歪んだ。
と思うまもなく、頭のてっぺんがぐいっとつまみ上げられたような感じがし、たちまち真上にものすごい勢いで引っ張られる感覚に襲われた。
まるで溺れるような浮遊感に、呼吸が乱れ、意識が遠のく。
だが、途切れはしなかった。
思いきり息を吸い込みながら見ひらいた目が、眼前に立つ獣の脚を捉えた。
見あげると、姫様の黒い瞳が、見おろしていた。
背嚢の重みで尻餅を搗いたような格好で、おれは地べたにへたり込んでいた。
すらりと細い四本の脚の狭間。
認めた光景に、立ちあがる。
疎らになった木々の彼方。
姫様の言われたとおりだった。
間違いのない現実を捉えているこの肉眼にも、それは確かに見えたのだった。
軒が地面に接するほどに、長い屋根の平屋建てが、日の暮れはじめた林床に、長い影を落としていた。
左側には果樹のような喬木の植え込みがあり、右側には数軒の家屋の並びがあり、その路地に遠く畠らしき土地が見えた。
正面の柵に設けられた枝折戸の傍らに、しかし、夢にあらわれた姿がない。
醒めるまでに、時は経っていないはずだった。
一瞬で消えたように感じる老人の姿を、視界に探す。
見つからなかった。
ただ、枝折戸は、開かれていた。
人物が手ずから開いた門は、そのままであった。
おれは大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
振り返ると、姫様の姿もすでになかった。
咄嗟に辺りを見まわして、左手側の植え込みに目をやった時、柵の外の木間にちらり、尾っぽが覗いたが、追わなかった。
いずれまた、会えると信じ、心のなかで謝辞を告げ、見送った。
姫様の名を。
今度も聞きそびれてしまったが、楽しみを残したと、思うことにしよう。
五感に届くのは、切れ間のない川流れの遠い音。
鈴の転がるような囀り。
山を渡りゆく風が、枝葉を揺らす涼やかな音。
そして、わが心臓の鼓動。




