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04

(あんたらがもっと早くに気づいていれば、うちの旦那は死なずに済んだ。どうしてよ。あんたらが殺したようなもんだ。あんたらは)


 時に言葉は、人の心を切り刻む。


(ああっ、許してください。なんてことを。本当に。酷いことを言ってしまった。許してください。ああ、なんてことを。わたしは、ああっ)


 葬儀の門を何度もくぐり、所々(しょしょ)で漏れ聞く慟哭どうこくは、次第に遠ざかった。

 わざわいの余韻でしばらく浮き足立っていたが、それもまもなく落ち着いて、世間は日常を取り戻した。

 に服していた学校が再開され、おれも教壇に戻った。

 校長から暫時ざんじの休養を勧められたが、生徒を前にしている時だけだった。

 だからおれは立ち続けた。

 ロヴリアンスへの訪問も継続した。

 得られるものはなにもなくとも、アポニ・ドレスンの薫陶くんとうを受けた者として、先祖学者の責務として、自分だけは、思考を停止するわけにはいかなかった。

 この星の片隅で、一瞬間、姿をあらわし、牙をいたその正体を、なんとしても突き止めたい。

 わざとわれを忘れるように、日々を走りまわった。


 だが──。


 日日薬ひにちぐすりに託すには、傷が深過ぎた。

 掛け替えのない、よすがを失い、すべての色が、褪せてしまった。

 在りし日にひたっていた、楽しかった思い出が。

 幸せだった思い出が、ことごとく、悲しみを呼び起こすだけの記憶にり替わってしまっていた。

 わけもなく卒然と、涙を流す自分の姿を、呆然と見おろしている自分がいた。

 静かに狂っていく心のきしみが、耳障りに感じるたび、日常に染み込む記憶から、おのれの記憶から、逃げ出したい衝動に駆られた。

 ロヴリアンスへの出張は、そんなむなしい衝動の代替行動でもあった。


 そしておれは、待っていた。

 間違いなく、死病を発症する可能性が、おれにもあった。

 それを求めている自分に気づいて、気づいた。

 マテワト・フロリダスは、終わったのだと。


 鉱山封鎖から一年後。

 おれは校長に呼び出された。

 そうして、無期限の休職を言い渡された。


(誤解しないでください。当校は、ラステゴマの宝を手放す気は毛頭ありません。ただ、取り戻していただきたいのです。先生。あなたはあの日から、ご自身の扱いが雑になった。わたしは今でも納得していません。あなたが閉山処置の陣頭に立ったことです。なにもあなたが、現場で作業に当たる必要はなかった。それからも今日こんにちまで、必要以上にご自身を酷使されている。痛々しくて見ていられない。生徒たちも心配しています。実は、複数人の保護者から、問い合わせがありました。あなたの精神状態についてです。わたしは彼らに、問題はありませんと、言えませんでした)


 自分では、仕事のうえでは正気を保っているつもりだったが、公文書館の窓口で、顔見知りの司書に挨拶をし、書架室に入った瞬間だった。

 おれはその場に立ち尽くした。

 眼前にひろがる書架室は、もはや見慣れた光景だった。

 なのに、漂う雰囲気が、よそよそしかった。

 分野ごとに仕分けが為された原本が、本棚に納まり、ずらりと並んでいる。

 その配置にも、なに一つ、違いはないのに、初見のような感覚があった。

 学生の頃、先生に連れられ、初めて足を踏み入れたときの感覚とも違う。

 知っているのに、知らないのだ。

 その時の書架室は、おれの知らない書架室だった。

 まるで、多次元宇宙論のような。

 別の宇宙に有る公文書館に、迷い込んでしまったような。


 館内は薄暗い。

 日焼けによる原本の劣化を最小限に抑えるため、明かり取りの窓が小さいのだ。

 斜陽の薄明が一層に暗く、重く感じた。


 やがて、青波あおなみともに打ち込むように、現実が心を叩きつけ。

 泣き崩れた。

 思い知ったのだった。

 この宇宙のどこを探しても、君にはもう、会えないのだということを。

 この世界のどこに身を置いても、おのれの記憶からは、逃げられない。

 この命が、この天下に在る限りは。

 この手に、この一つの石が、有る限りは。


 書架室のひろびろとした通路を、ただ、歩いた。

 一万年に及ぶ先史人類の歴史が、おれの視界を流れていく。

 流れていく──。




 その瀟洒しょうしゃな別荘は、明媚な高原に建てられた、緩和医療施設だった。

 三年前の秋。

 冬支度をした落葉樹の、鮮やかな葉のひろがる道の先に、君はいた。

 小首を傾げ、片目をちょっとだけ閉じ、葉を踏んで近づくおれを、睨むのだ。

 それから少しも変わらない、太陽よりも輝く笑顔で。

 ずっと手をつないでいた。

 弱々しくも、離すまいとする指先に、残り火のわずかを知り、言葉を尽くした。

 確か、ひと月くらいだったと思う。

 君のいないその場所へ、日課のように、足を向けた。

 葬送のわだちが、降り積もった純白の雪で、すっかり消えてしまっていた。


(どうぞ落ち着いて、聞いてください。昨日の夜更け過ぎ、スベラルタヤ・トカーチの霊魂が、旅立たれました。言い残すことはなにかありますかと、お訊ねしましたら、一言ひとことだけ、あなたに伝えてほしいと。フロリダス先生。今生こんじょうの彼女からの、最後のお言葉です)


 待ってる。




 いくらぬぐっても、前がまともに見えなかった。

 姫様の背でくつろぐ小鳥たちのさえずりが、おれの手を引いてくれた。

 ささやかな森の演出に、心から感謝した。

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