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噤みの森(つぐみのもり)  作者: べにさし
不可解な機械
32/205

04

 蒸気機関の作動原理は、先史人類からもたらされた。

 その最古の記録は、木簡(もっかん)に描かれていた模式図で、それ自体は個人的な雑記と見なされているが、竹紙(たけがみ)に残された同年代の議事録にもわずかながら記述があり、一部の識者(しきしゃ)は有史以前から蒸気機関の導入を検討していたことが窺える。

 しかし、当時はまだ鉱山開発が行われておらず、入手可能な金属資源は、メルスデュール地方の巨大隕石孔から採取される隕石の含有金属に限られていた。

 なにより冶金(やきん)技術が未熟であり、精巧な形状の金属部品の製作は困難で、設計図は引けても構築は状況的に不可能であった。


 金属の流通。

 それまでの原始生活から文明の濫觴(らんしょう)へ社会を導いた点において、わが故郷ラステゴマが果たした役割は大きい。

 今からおよそ百年前に発見された銅の大鉱脈により活発化した鉱山開発は、大量の銅鉱石を流通網にあげ、人々の生活環境を一変させた。

 それと並走するように進歩した製錬技術は、稀少ながら今や鋼鉄を作り出す。

 永らく横たわっていた障壁を克服したのである。


 だが、実用化は叶っても、新たな動力源に対する世間の反応は消極的だった。

 蒸気機関の供給は、その文明史的重要性と、資本主義的社会還元の枠組みのなかで、非営利で行われている。

 実質の負担は、稼働にかかる燃料のみ。

 その燃料も生活上の廃品でよく、それらを燃やす火室(かしつ)は施設的には焼却炉となんら変わりない。

 にも関わらず、水車との置換に応じる産業従事者は、ほとんどいなかった。

 世界的に著名な空想科学の大作家ヘレンカレンが、作中に描いた蒸気機関を爆発させたことがその主因と言われているが、小説家の影響力とは別に、普及が進まない現状には明確な理由を見いだせる。


 一に、世界各地にて稼働する水車の仕事量は、世界人口の消費を賄い得る程度に高効率化しており、蒸気機関に移行する動機が弱い。

 一に、機械的労働力を必要とする産業従事者は、水車の運用条件である河川近傍に居住する者が大多数であるため、立地を問わない蒸気機関の利点が薄い。

 一に、蒸気機関には稼働に不可欠な付帯設備があり、保守点検に要する手間が増加する。

 一に、蒸気機関の運転には燃料が必要であるが、水車の運転は、水が流れてさえいればよい。


 逆を言えば、これらの問題を念頭から吹き飛ばすほどの性能が、現行の蒸気機関には、ない、ということである。

 青銅製のボイラでは、高圧蒸気を満足に扱えない。

 積年の改良で洗練した水車がもたらす仕事量を、圧倒するに至っていないのだ。

 蒸気機関がその真価を発揮するには、鉄鉱山の開発が待たれる現状であった。


 しかし、仮に将来。

 鉄鉱石の大鉱脈が見いだされ、鋼鉄製のボイラが実用化されたとしても。

 われわれの社会にも、文明開化の新世(あらたよ)が訪れるとは、限らないのだった。

 人々が次代の原動機の導入に積極的でない理由を、先祖学の見地から言及した人物があった。

 誰でもない、わが恩師アポニ・ドレスンである。

 水車という原始的な動力源が労働力の主力として通用しているのは、産業の基盤が長きにわたり、小規模な手工業的生産形態に留まっている点が大きい。

 そしてその背景には、われわれの社会固有の問題が潜んでいると、先生は述べる。


(われらがご先祖は、原始に引き戻されたのではなく、立ち返ったのであり、それは文明の喪失ではなく、決別である。よって社会のこの有り様は、ご先祖の意志を尊守(そんしゅ)する『正しい』社会にほかならず、ゆえに社会そのものが、潜在的に、画期の到来を望んでいない。ご先祖の亡霊が如きその社会に暮らす人々にとって、価値観を転換する真に高度な技術をこそ、墓石に唾を吐く行為に等しく映るのである)


 価値が保証されている革新的な動力源であろうと、それを社会が希求しなければ、どうにも成らない。

 われわれの産業革命は、(はなは)だ遠いのだった。




 ため息を一つ、吐いてから、姫様に声をかけた。


「なにか匂いますか? これは、水蒸気を作るための設備です。ボイラと言います。この圧力容器の中に水を入れ、密閉し、下の火室で熱い煙りを生成する。水を熱すると、液体から気体に変態します。気体となった水――水蒸気は、摩訶不思議なことに、液体の状態よりも体積を増やします。ものすごく大きくなる。その現象を密閉空間の内部で起こすと、動力となります」


 灯火をじっと凝視する瞳。

 濡れた鼻先で、角灯を突っついた。


「逆に、水蒸気を冷やすと、液体の水になりながら、体積も凝縮する。大きくなっていた物質が、今度はものすごく小さくなるので、密閉空間の内部は、物質の密度が低い状態になります。すかすかになってしまう。そのため、外部空間の空気すなわち、大気の密度とのあいだに差が生じる。その差――大気圧も、動力となります。それを作り出すコデサと呼ばれる装置が、組み込まれていたはずなんですが、見当たりません」


 唐突にあらわれた蒸気機関の原理をお(さら)いする、半ば独り言だった。

 姫様が、おれの言葉をどこまで理解しているか、わからなかったが、ただ。

 その瞳の耀(かがや)きが、教壇から見渡す学生たちのまっすぐな眼差しと、重なった。


「つまり、蒸気機関とは、圧力の均衡を、水という物質を使って崩すことによって、動力を得る機械なのです」


 振り返り、対面に横たわる円筒体を照らす。

 灯りに釣られるように、彼女も首をめぐらせた。


「これが、蒸気機関の本体です。シリダと言います。この中には、円柱の形をした金属の物体が一個、入っているはずです。それを、ピストと言います。シリダの内部は、そのピストを挟んで空間が区切られています。シリダの両端に作られるその二つの密閉空間に、ボイラが作り出した高圧と、コデサが作り出した低圧を、送り込むのです。すると、どうなるか」


 灯りの映えた瞳が、おれをちらりと見た。

 時の(まにま)に朽ち果てた蒸気機関が、おのれの脳内で、息を吹き返す。


「まず、内部のピストが、シリダの左側に寄っているとしましょう。その状態で、左側の空間に、ボイラから水蒸気を注入して、圧力を上げます。同時に右側の空間を、コデサとつないで、圧力を下げる。するとピストには、蒸気圧と大気圧とが重なった圧力が加わります。その二つの圧力が、左側に寄っているピストを、右側へ押します。そこで今度は、左側の空間をコデサとつないで、水蒸気を排気しながら圧力も下げる。右側の空間にはボイラから水蒸気を送り込む。するとピストは、寄っていた右側から左側へと押されます。この流れを、交互に、連続して行うと、シリダの内部でピストが、繰り返し、右往左往することになります。こんなふうに」


 シリダの上で、拳を左右に振ってみせた。


「ピストのこの往復運動が、蒸気機関が作り出す労働力です。そしてその速度が、蒸気機関の仕事量となります。仕事量を高めるには、往復運動の速度を高める。速度を高めるには、ピストを動かす圧力を高める。圧力を高めるには、ボイラの強度を高める」


 口許をひき結び、独り頷く。


「作動音は、こんな感じです。かん、かん、かん、かん、かん、かん、かんかんかんかんかんかん、か、か、か、か、か、か、かかかかかかかか」


 かかかか言いながら姫様に目をやると、不思議そうにおれを見ていた。


「出ましょう」


 言って灯りを吹き消した。

 (ひづめ)の音が、洞窟の門口に垂れさがる(つた)をくぐっていく。

 陽射しの目映(まば)川縁(かわべり)へ、そそくさと出ていくそのうしろ姿に、苦笑した。




 暗闇から一転、陽の当たる景観に、目が(くら)んだ。

 手を見ると、隅々まで赤錆色に染まっていた。

 渓川(たにがわ)の水を飲んでいる姫様の下手(しもて)(かが)み、冷たい流れに両手を浸す。

 微塵の粉が手のひらの筋にこびりつき、きれいに落とせなかったが仕方ない。


 背嚢(はいのう)の脇に角灯を縛りつけ、坐ったまま背に負った。

 目の前に、褐色のまだらな大きな車輪。

 ひと筋の傷。

 明暗をわかつ洞窟の口元で、暗にのまれかけていた。

 いずれ折をみて、謝らねばなるまいが。


 踏ん張って立ちあがり、返り見ると、姫様の姿は早くも遠くなっていた。

 深い緑の狭間に、透き徹った水の上に、高らかに響く。

 上流の荒々しい岩場にて、左脚を叩いていた。


「参ります」


 去り際、洞窟のなめらかな壁に触れた。

 岩盤に()いたこの横穴が、熔岩流の凝固の過程で生成された、熔岩洞窟――だったとしたら。

 その生成時期は、短くとも、千年は(さかのぼ)る。

 有史以来、ホズ・レインジ噴火の記録は、ないのだ。

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