02
洞窟の影に、手のみを差し入れた時は気づかなかったのだが、灯りを持って身体ごと入り込んでみると、光と闇の境に、見えない帳が張ってあるような、薄い暗幕をくぐり抜けたかのような、妙な感覚があった。
それで思わず、すぐに振り返ってしまい、岩場の強い陽当たりがまともに瞳に飛び込んで、目がしばらく使い物にならなくなった。
やがて、闇に染み入るようにひろがった明かりが、心細い視野の左端にうっすらと、朧な輪郭を浮かびあがらせた。
おのずと角灯がそちらへ傾く。
弾車とおぼしき車輪から数歩、離れたその場所に見えたのは、おれの目の高さの位置で、洞窟の奥に向かって伸びている、大きな筒だった。
外径は一メートルくらい。
厚みは二十センチほどで、その正円面の外周には複数の小さな穴が等間隔に穿たれている。
筒の外面も内面も、どこもかしこも暗褐色に染まっており、ひんやりとざらついて、車輪と同じ様相を呈していた。
横たわる円筒は、大きな方形の物体の上に載っており、共に奥へと伸びていた。
沿って辿った歩数からそれらの全長は三メートル以上。
筒の奥側の外周にも複数の穴があり、蓋を取り付けるためのねじ穴と思われるが、一巡しても付近に円盤状の物体はなかった。
同時に観察していた下部の直方体は、洞窟の底に直に据えられ、上に載る円筒とは色味が異なっていた。
全体的に黒ずんだ灰色であり、汚れ具合は黴に見えた。
金属の腐蝕も黴に見えるが、これは黴そのものと思う。
繁殖した黴の粗密で、格子状の継ぎ目がうっすらと浮きあがっている。
おそらくは煉瓦を組んだもので、焼成した粘土の主成分は、たぶん貝殻だ。
その正面側――洞窟の入口側の下端に、四角い口が一つ、空いていた。
内部は空洞であり、なんぞ生き物でも住んでるかと構えたが、灯りを近づけてもなにも飛び出てこなかった。
四角い口の縁にもねじ穴のような窪みが複数あり、ここには本来、扉が取り付けられていた。
そこでおれは角灯を、力なく、だらりとおろした。
呆然となった。
たった今、自分の目が確かめたものを、どう受けとめたらよいのか、とても困っていた。
いくつもの疑問が、頭の中を飛び交っていたが、答えに至らず、混乱するばかりだった。
灯火の淡い光りがみせた、二種の物体は。
もはやそれだけで、推測は的中したと言ってよかった。
横向きに置かれた筒は、間違いなく、ボイラである。
煉瓦組みの直方体は、その火室だ。
本当に、考えなければならない問題が、山ほどあったが、半ば思考停止の状態で、弾車の奥にわだかまる闇に向かい、角灯を持ちあげた。
しかし、なにも見えず、腰を屈めて足元の土台を照らしながら、ゆっくり、辿っていく。
そうしてそれは、あらわれた。
洞窟の暗闇に、蒼然と横たわる、円筒体。
全長約一メートル、直径約五十センチの筒が、暗褐色に覆われ、弾車の土台とつながる台枠の上に載っていた。
筒の入口側の正円面に、外周より一回り大きい厚めの円盤が蓋としてねじ止めされており、その盤面の中央にあいた穴から先端が環状に加工された円柱形の棒が突き出ていた。
奥側にも蓋があったが、口はない。
正面からみて左側の曲面に、筒の全長と同寸法の箱状の物体が接合されていた。
熔接であり、その三面に一つずつ円い口があいている。
正面と天面と側面。
覗いて見たが、中の様子はよくわからなかった。
おおよそ見て取ったそうした外観の円筒体が、腐蝕しきった状態で、沈んでいた。
それはまぎれもなく、シリダであった。
「どういうことだ」
呟くと、捧げ持った明かりの下に姫様の顔がぬうっとあらわれ、驚く。
「驚きました」
有って然るべき部品類は、ほとんどない。
形骸のような有り様だが、しかし、疑うべくもない。
これは。
「蒸気機関です」
ぼそりと告げた言葉に、姫様が小首を傾げた。
「鉄で、造られています。もはや朽ち果てていますが、なにもかも、鉄で」
おれはその場に立ち尽くした。
陽射しが暗中に象っていた輪郭の正体は、鉄製の蒸気機関であった。
洞窟の闇の底で、地金のわずかも覗く余地なく、赤錆にまみれた……。
散らかってしまった頭の中を、片づけねばならない。
蒸気機関の構成要素は、シリダやボイラなどの気密性を要する圧力容器と、動力伝達系に大別される。
圧力容器の強度が、蒸気機関の性能を決定づけるため、動力伝達系の部材がなんであれ、圧力容器の材質がその蒸気機関をあらわすと言ってよい。
五十年前の実用化当初より、圧力容器の製造に用いられるのは、青銅であった。
錫を添加した青銅は単一元素の銅よりも格段に強度が増すためで、適当な強度があれば充分な動力伝達系にはそのまま銅が使われる。
圧力容器の材料として理想的なのは、青銅よりも強靭な鉄であるのは自明だったが、蒸気機関の安定した供給を図るうえで、開発の停滞した鉄鉱山からの稀少な産物をその生産に投入することは、現実的に難しい選択であった。
ただ、今からおよそ八十年前――われわれの史上に初めて蒸気機関が登場した黎明期の個体には、鋼鉄の圧力容器を備えた例がわずかながら存在する。
けれども、おれの知る限り、当時の個体で現存するのは、銅製のみ。
鋼鉄製の個体は、記録によれば鉄鉱石の産出量の減少にともない一台残らず解体され、精錬されてしまっている。
以降、現在に至るまで、圧力容器の製造に鉄が投入された事例はない。
もちろんそれは記録上の話しであるが、しかし、そのような事実がもし、いずれかの学府にあったなら、遠からず、先生の耳に入ったはず。
おれ自身も、鉄造個体の現存など、噂すら聞いたことがなかった。
いや、それどころか。
鉄鉱石の流通が今より多かった八十年前でも、鉄の稀少性の認識はあった。
大量の金属を必要とする蒸気機関の製造に際し、貴重な鉄があてられたのは、性能に直結する圧力容器に対してのみである。
動力伝達系の一部であり、鉄より銅が最適な、弾車。
あまつさえ台枠までもが、貴金属で造られるなど。
おれの価値基準では、いっかな理解し難いものだ。
構成材料は、まるきり理に反しているが、ただ――。
角灯の灯りを暗褐色に近づけた。
八十年前の個体との共通点。
今や虚しい形骸に、いくつか見いだせる。
実用の蒸気機関の基本構造は、黎明期の後半に主流となった形式が原型となっている。
機関の本体であるシリダを、横向きの中央で支持し、両端が上下に揺動する構造で、シリダ自体の可動によって水蒸気の給排気も制御する。
弁機構がなく、小型で出力は低いが安全、保守の容易な仕様であった。
そして、眼下の蒸気機関。
初期型は例外なく、台枠に固定されたシリダに、弁装置を備える。
弾車と連結し、回転運動で弁の開閉を自動制御する機構が組み込まれている。
その連結機構は跡形もないが、シリダに接合されている箱状の付属物が、弁装置だ。
現行の形式が登場するまで、黎明期のほとんどの蒸気機関に用いられた複雑な仕組みであった。
後期型の設計図には多かれ少なかれ、実用化を念頭に置いた勘案が窺えるが、初期型にはそれがまったくない。
再現実験が目的だからである。
貴重な鉄が投入されたのも、すべて、初期型であった。
精錬を免れた、黎明期の鉄造個体。
記録に残されず、系譜から抹消された蒸気機関が当時、仮にあったと考えて、それがこの樹海に存在する理由とは。
巷間と隔絶した、木深いこの奥地に……。
立っているのがつらくなり、洞窟の底に坐り込んだ。
蒸気機関は、人間の道具である。
その道具が形を成してある以上、そこには必ず人間の目的がある。
しかし。
「こいつの役目は、とうに終わっているようだな」
手を伸ばせば、硬く冷たい感触が伝わり、湿りを帯びた褐色の粉がへばりつく。
多湿な川辺であることと、おれ自身が測る尺度を持たないため、どれほどの時間を経てこの有り様と成り果てたか、見当をつけることはできなかった。
それでも、一年や二年そこらで、こんなにも腐蝕が進むとは思えない。
何十年という単位で、本来の美しい黒鉄を、時の流れに曝していたに違いない。
この洞窟の直上には、魔法使いの住む家がある。
マルセマルスカス氏の話しでは、ルイメレクの他界は、六十七年前とのこと。
享年は不明ながら、存命年代は黎明期と重なっている。
状態からして、管理者を失っていることはあきらか。
それをルイメレクの死去と、関連づけることは、短絡に過ぎるだろうか。




