03
目を覚ますと、枕元の脇に、床に屈んで手燭から角灯に火を移している女主人の横顔があった。
その視線がおれをちらりと見て、おはようございますと微笑んだ。
今晩も、ぐっすり眠れたようだった。
夜は未だ明けておらず、居間には蝋燭が点されていた。
朝食は、白飯と焼き魚と梅干しだった。
昨晩の海鮮汁が少し残っているけど食べるかと聞かれたので、即座に応じた。
夢中で口に運んでいると、アデルモが言った。
「そういえば、フロリダスさんの杖。だいぶ、くたびれてるわね」
おれは苦笑し、頷いた。
「ラステゴマからずっと支えにしてるので。はい」
長らくの酷使に石突が削れ、支柱の下端も少し割れてしまっているのだった。
使いづらくなってはいたものの、愛着が湧いてしまい、なかなか手放せないでいた。
するとアデルモが、なにを思ったのか階段口の暖簾をおろし、棒から引き抜いた。
「これ、使えないかしら」
言いながら持ってきた暖簾棒を見て、おれは驚いた。
それは一般にラズマーフと呼ばれる高級の長杖だった。
一体の龍の長い胴が螺旋状に巻きつくように浮き彫りされ、上端が頭部という趣向の杖である。
その彫刻の見事な出来映えに、感嘆したのも束の間。
暖簾棒だったそれには、龍頭の部位がなかった。
鋸かなにかで、切断されている。
匙を持ったまま、半ば憮然と眺めた。
「五年くらい前に、がらくた市で買ったのよ。杖がたくさん並んでるの見かけてね。どれもすごい安くて、主人に一つどうかと思って、あれこれ物色する中に、これがあったの」
「この状態で、売ってたんですか?」
「そうよ。確か、折れてしまったとかなんとか言ってたわ。それでも彫物がいいから買ったんだけれど、主人は気に入らなくて。それで暖簾掛けに」
アデルモが階段に顔を向けた。
「すっかり忘れてたけど、これ、杖なのよね」
ラズマーフに、廉価品はない。
中古であっても、相応の値がつく杖なのだ。
それが古物市に流れた理由は、間違いなく。
龍頭の欠損。
意匠とはいえ、頭を失ったラズマーフは不吉の象徴とみなされ、忌避され、価値も失ったのだ。
彼女はきっと、それを知らない。
おれは匙を置いて、無言で手に取った。
思ったよりも軽かった。
素材はおそらくバラナシの木で、目立った瑕はない。
石突に少し磨耗はあったが、ひび割れはなかった。
巻きつく龍体の巧緻な仕上がりからして、龍頭の出来も推して知るべし。
おれは唸った。
いったいどうして、こんな有り様に。
負荷のかかる下部ならまだしも、握りが支柱にある長杖の上端が折れるなんて。
真実はもはや知るよしもないが、それはどうあれ。
この杖は、いかに考えても。
縁起のよい物ではない。
「どう? 使えそう?」
調理場からアデルモが朗らかに言った。
「遠慮なんかしないでね。良かったら、使って頂戴」
これは、ここにないほうがいい。
「上等です。助かりました。ありがとう」
おれは答えた。
藍色に染みる夜空の西が、曙光に淡く滲んでいた。
北の街道につながる、暗に沈んだ石畳に沿って、早立ちの灯りが点々と流れていた。
遠くで、カラチ鳥が鳴いていた。
左腰に短剣を佩き、外套をかぶせた背嚢を背負ったおれの右手には、無頭のラズマーフがあった。
これまでの道連れも、左手に持っていた。
状態も品格も不釣り合いではあったが、行けるところまで、四本足で行ってみようと思う。
いらなくなったらその時に、処分すればよい。
「夜明けだわ」
角灯を手に、半歩ほど先を歩いているアデルモが、西の空を望んだ。
また迷ってはいけないからと、わざわざ見送りに出てくれたのだった。
昼食の握り飯まで持たせてくれた。
肩に感じるその加重は、ありがたかった。
「屋根にあぶれて、よかった。アデルモの宿に泊まれた」
振り返った彼女の、一瞬の翳りがたちまち笑顔にひるがえって、満面にひろがった。
「また、ウルグラドルールに来ることがあったら、うちに寄ってね。あぶれなくても」
声を出しておれは笑った。
そうして頷きかけた。
言葉での応えはしなかった。
この町をふたたびと訪れることは、おそらく、ないだろうから。
「うちのお客さんはみんな顔馴染み。旅の人をお泊めしたのは、本当に久しぶりだったの。だから話しをしていて楽しかったわ。フロリダスさんは、ちょっと、不思議な方よね」
「不思議?」
「浮世離れしてるって言うのかな。あたしらなんかとは、まったく違うものを見ているような。遠くのほうを、じいっと見つめているような。そんな感じ」
おれは自分の表情が、どんな色を映しているのか判じかね、うつ向いてしまった。
心の内を、見透かされているような気がした。
急いでとりなおした笑顔を、必死にもちあげた。
灯りのない家並みが、まばらになってきた。
つれて、拾う夜道が一層に、暗くなった。
町の外周に植樹されている防風林の常緑高木が、道の両脇にあらわれはじめていた。
するとふつりと、石畳が途切れ、そこからは、土の道がまっすぐに、煙る朝靄の彼方に延びていた。
アデルモが立ちどまり、前を見つめた。
「二十海里くらいだったかしら。行ったところに、ホーキ川って言う名前の川があって、その手前に何軒か木賃宿があったはずです。そこから街道が北と東に岐れるところまでは、さらに数日かかるかな」
距離の単位がキロメートルではなく、あたりまえのように海里であるアデルモを、微笑ましく思う。
ホーキ川まで、二十海里。
一海里は、二一六七メートル。
およそ四十三キロ。
観光地図とおおむね一致する。
「お世話になりました」
向きなおり、謝辞を述べるおれに彼女は、うっすらと笑みを湛え、首をかるく左右に振った。
「心から、旅の成就をお祈りします」
「ありがとう。あなたも、どうかお達者で」
おれは前途に踏み出した。
黒々と繁茂する防風林に挟まれた道は、靄に霞んで、先が見えなかった。
白々と夜の明けゆく視界の右側で、枝葉を拡げた常緑樹の隙間にきらきら光りを散らしているのは、昇りはじめた朝陽を浴びる、ホズ・レインジ。
燃えるようなその峰頭が、木々の合間にようやく覗いた時だった。
「きっと来てねえ。フロリダスさあん」
アデルモの大声が背後に響いた。
「あの海鮮汁、そしたら作るからあ。きっと、きっと来てねえ」
遠くなった町の出外れで、立ち尽くしている彼女の小さな姿に、込みあげるものがあった。
優しく、叱られたような気分になった。
おれは精一杯の感謝を込めて、ラズマーフを掲げた。