01
岩盤を穿つ穴はその口元付近で、明暗がくっきりとわかれていた。
背後の激しい水音が、洞内でわずかに反響している。
音の返りが短い。
どうやらこの洞窟は、あまり深くはないようだ。
垂れている蔦を暖簾のごとく押しわけ、光と闇の境に身を屈めた。
褐色の半円は、やはり、円の片割れのようだった。
日照に当たっているのは三割くらいで、円の大部分は濃い影に隠れ、うっすらとした輪郭しかわからない。
推測する直径は、二メートル弱。
横幅は、約二十センチ。
だが、盤面の厚みは薄く、そこに複数の円い穴が等間隔に空いている。
円の外周には歯も溝もないので歯車でも滑車でもない。
全体を覆う色味の質感は、思ったとおり木ではないようだが、銅とも思えなかった。
不均一な茶の濃淡で、酷くざらついており、びっしりと繁殖した黴のように見え、触れるのをためらった。
しかし、性分である。
確かめずにはおれず、恐る恐る、手をのばす。
硬質で冷たい感触と、指先に付着した褐色の粉。
匂いを嗅いだ。
「嘘だろう」
黴のような、黒みを帯びた、この茶色は。
赤錆?
ならばこの大きな円体の材料は。
「鉄? いや、嘘だろ?」
優良鉱源が少なく、供給の絶対的に足りない、第一等の貴金属。
その鉄が、これほどまでに酸化している状態を、おれは初めて見た。
湿度の高い水辺にあってはさもありなんと唸りつつも、自分の見立てが信じられず、しばらく矯めつ眇めつしていると、姫様が来た。
のんびりとした歩調ながら、鼻息は荒い。
承知しているが、このままでは、立ち去れない。
今度は、影に隠れている円体の中心部に手をのばした。
するとその両側に、台形をした柱のようなものが立っているのがわかった。
車輪の中心軸を支える回転構造。
そのまま手を下に移すと、二基の支柱は地面に据えられた分厚い土台の上に設置されていて、その土台は、洞窟の底に固定されているようだった。
可搬用途の車輪ではなく、車輪そのものを目的とした物体。
円の回転運動は、動力をつくり出す装置に多くみられる機構だが。
試しに、回るかどうか車輪を上下に押してみたが、ぴくりとも動かなかった。
それらの情報を引き出した手のひらを見ると、湿りを帯びた褐色の粉がべっとりと付着していた。
車輪だけでなく支柱も土台も、貴金属で造られている?
洞窟の闇を見澄ました。
渓谷にそそぐ陽の光りが、微かに象るその全体像は、近間でも判然としなかった
だが、闇を見つめるおれの念頭には、一つの構造体が浮かんでいた。
何年前になるだろう。
授業が終わった昼下がり。
先生の研究室の前庭で、散らばった金物の真ん中にうずくまるおれに、声をかけてきたのは。
(あなた、なにをしているの?)
髪をおろしていたから、一瞬、誰だかわからなかった。
蔵書館の閲覧室で、たびたび合わせる顔だった。
名前は知らない。
けれど、眼鏡の奥の知的な眼差しは、知っていた。
書類の束を両腕に抱え込んで。
その時は、おれをまともに見つめていた。
そうなのだ。
回転機構を備え、かつ構成材料が金属である必然性を有する構造体。
実際に、自分で作ったことがあったのである。
ずっと小さな模型だが、材料も当然ながら銅であったが、その一部となる車輪がなにを意味し、いかなる役割を担ったか。
直径二メートルほどのこの円体は、やはり、弾車だ。
それは自体の質量がもたらす慣性力によって、回転運動の速度を安定化する機械要素の一つ。
中心軸を支持した車輪に回転動力を与えると、その動力に強弱の乱れがあっても自身の重みで回転運動を持続する。
それを利用したものだ。
弾車は、回転運動を擬似的な動力として蓄積するので単体でも動力源となり得る。
紡績の糸車を、独楽のごとく回す大車輪のように。
けれども、人の手であれ、原動機であれ、動力を伝えなければ、弾車は回らない。
外部の動力源と、不可分である。
ゆっくり、背嚢をおろした。
有史以来、われわれの社会が実用化した機械的な動力源は、三種あった。
風車。
水車。
蒸気機関。
風を労働力に変換する風車は、その複雑な機構と管理の煩雑さから初期の段階で敬遠され、今では忘却されている。
立地に条件はあるものの、運用の簡便だった水車は経験の蓄積を反映し様々の改良を加えられ、広範な産業分野に対応したことで、世界中に普及するに至った。
その水車に取って代わる価値が見込まれている蒸気機関は、五十年ほど前にようやく実用化に漕ぎ着けた次代の原動機である。
先史人類の歴史にあきらかな船舶や貨車への搭載も期されるが、それは今日においても理論上の話しであり、稼働した定置式すらおもに費用対効果の問題から普及は遅々として進んでおらず、運用は鉱山や干拓など水車が使えない場所に留まっていた。
実際、各地の宿場町に立ち寄ったこの二か月あまり、その喧しい作動音を耳にすることは、いっぺんもなかった。
社会の営みを支える機械的労働力の主力は今なお、連綿と続く水車なのだった。
振り返り、渓川を見渡した。
水車の主軸に組み込まれる弾車が、単体で設置されるのは、擬似的な動力源としての役割もしくは、伝えられる動力の回転以外の運動を回転運動に変換する役割をも兼ねる場合である。
これが弾車であるならば、その外観から推察し得る暗中の全体像は、おれにはやはり、一つしか思い浮かばない。
(こんなに散らかして。ドレスン教授に怒られるわよ)
子供を叱るような口調だった。
でも、先生の了解は得ていたのだ。
自宅より、学校のほうが鍛冶屋にずっと近いから。
腰までとどく金髪に、蒸気機関を作ってるんだと、おれは答えた。
(ふうん。それにしても、本日も見事な寝癖です。マテワト・フロリダス博士)
茫然とした冴えない書生に、太陽よりも輝く笑顔で、君は答えた。
弾車の効果は質量に依存する。
その寸法と重量は、原動機の出力の度合いから算定されるが、材料として適しているのは比重の大きい金属だ。
求められるのは重さであって、強さではない。
よってその製造に使われるのは、もっぱら銅である。
入手が容易な点だけでなく、銅は、鉄よりも重い。
思わず唸った。
回転の動力源がなんであれ、鉄製の弾車など、無駄遣いも甚だしい。
どころか支柱や土台ともなると、論外である。
だからおれは、自分自身を疑った。
この褐色は、本当に赤錆なのか?
見立て違いではないか?
なにより大量の貴金属を、こんなところに打ち捨てる道理はない。
これは鉄ではない。
左腰から短剣を引き抜いた。
銅の酸化は緑青。
白み掛かった碧色であり、この洞窟の直上には魔法使いの住む家がある。
すなわち、眼前の物体はサリアタ氏の所有物とみるべきであろう。
それを無断で詮索することは、非礼な行為である。
あるじとの面会を控える身なれば、なおさらだ。
残念だが、ここまでだ。
いくらなんでも、これ以上は。
ごめんなさい。
柄を握る手に力を込め、柄頭を円体の一画に擦りつけた。
がりがりがりがり。
表面の褐色を、削り取る。
予想よりも頑固で手こずったが、やがて。
露となった地金の筋。
光沢のある灰色だった。
鉄であった。
「いましばらく」
短剣を鞘に納めながら、声をかける。
背嚢から角灯を出し、発火石を手に取った。
おれの手元に、姫様が顔を近づける。
ぱちくりしている瞳の前で、まもなく灯った火を、掲げた。




