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02

 駆け登る。

 やがて彼方の白光に、浮きあがるように徐々に像を結んだのは、ホズ・レインジの荒涼とした褐色の山肌であった。

 天空にそびえるような巨体が迫り、冠雪の白い尾根と澄み渡る青空とをへだてる稜線がはっきりと見えた時、足がとまった。


 叩きつけるような重い水音を発て、谷底に堆積した無数の丸石を洗うようにして絶えなく、白い飛沫しぶきをあげている。

 渓流に出た。

 眼下の様子を窺う姫様の横で、呼吸を調ととのえながらおれも眺望を確かめる。

 北東から南西へと、緩急をまじえ傾斜する荒々しい谷間に沿い、蓊鬱おううつたる森林の狭間をほとばるひと筋の川。

 幅はならして、およそ二メートル。

 遠目にも水深の浅い様子が見て取れたが、流れは速く、激しい。

 勾配のゆるやかな対岸は剥き出しになった岩盤らしく、その黒い壁面を漏れなく緑色に塗り替える勢いで、羊歯しだ植物が這うようにひろがっていた。

 目測で、川面かわもまでの落差は十メートル程度と見込んだが、同様に繁茂している此方岸こちらぎしの勾配は急であり、絶壁に近い箇所かしょも散見された。

 この位置からのくだりは容易でなく、適当な地形はないものかと周辺を探ってみたが、腹をくくるほかないようだった。

 下流のかなり離れたところで川筋が途絶え、その付近に立ちのぼる水煙みずけむりの先に、続く流れが遠く見えた。

 そこはどうやら傾斜が急落していて、小さな滝になっているようであった。


 深呼吸をした。

 何日かぶりに、陽の光りをまともに浴する。

 中天に架かった初夏の陽射しは、無常の流れにきらめいて、目に痛いほどだった。

 清々(すがすが)しい渓流の空気を浴びながら、対岸の丘にりあがる鬱然たる森を、うち仰いだ。

 緑々(あおあお)とひろがる林冠りんかんの彼方。

 視野一杯の壮大な山肌をなぞるように、白い翼の野鳥の群れが飛んでいく。

 おれには一瞬その様が、森からたなびく白煙のように見え、ぶるりと身体がふるえた。

 火のないところに煙りは立たぬ。

 あともう数刻ののちには、おれは、その火元に辿り着くのだ。

 活力がみなぎった。


 ずしりとくる背嚢はいのうを背負い直した。

 長杖はどうするか、迷ったが、登りの行路はまだ続く。

 転がして谷底に落とした。


「さあ、参りましょう」


 険峻けんしゅんな谷をくだる行程において、姫様の足運びはなんの参考にもならなかった。

 岩盤のわずかの出っ張りを器用に伝い、身も軽やかにどんどん降りていく。

 おれは急角度の岩壁いわかべに身を伏せるようにして、爪先で足()かりを探りながら、うしろ向きで恐る恐る降りはじめた。

 足の置きどころさえ誤らなければ、問題ない。

 問題はその足場がなかなか見つからないことだ。

 岩盤の中途に張りついて往生している人間に対し、降り立った川辺の岩棚いわだなで高らかにひづめを鳴らされても、あいにく深山幽谷しんざんゆうこくこだまするだけである。

 助けてほしいと切に思う。

 神通力じんつうりきの発揮されんことを今や遅しと期待しながら。

 残りの数メートルは、降下と言うよりほとんど落下であった。


 姫様と一緒に渓川(たにがわ)の水を飲んだ。

 水温はホーキ川よりも高いようだったが、高地の源泉からの清らかな水は喉ごしよく、実にうまかった。

 手早く身だしなみを整え、靴を脱ぎ、裾を膝上ひざうえまでめくりあげた。

 渓流を渡る際にはさすがの姫様も慎重だった。

 その選択と杖を頼りに、ぬめる川底を足裏でしっかり捕らえながら、なんとか無事に対岸に到達した。


 さっきまで自分がへばりついていた、切り立つような岩盤を向こう岸に返り見て、遅れせに頭をよぎる疑問があった。

 マルセマルスカス氏の谷越えの手段である。

 夢に現れたのは意識のみの彼であったが、その意識は現実世界の実体を伴って当地に参じたに違いなく。

 谷間のこの峨々(がが)たる様は、彼の登攀とうはん技術の高さを示しているのか。

 それともあるいは、本領たる魔法でも使ったのか。

 再会したらば聞いてみるかと思いながら、ふと下流に目を移すと、先ほど上から見定めた、滝の付近。

 対岸の森のひろがりが、奥まるにつれ、ゆるやかな勾配で持ちあがっていた。

 なんとも形容しがたい感情に、ため息がこぼれた。

 あの地形は間違いなかった。

 坂である。

 ただちに下流を指差して、恨めしげな視線を彼女にくれた。

 すると、森の小さな女神様は、人間を無視した。


 絶対に見て見ぬふりをした姫様が、上流に向かって川辺を踏み出した。

 このまま岩盤を上がって樹海の魔法使いにのぞむ森に入ると思っていたのだが、渓流沿いの斜面を登っていく。

 あとに続いた。

 川岸には大小の岩石が流れに寄って集まっており、いちいち苔生こけむしているため大変すべりやすく、不用意に踏むと転倒のおそれがあった。

 それでもひづめすみやかで、わかっていながら何度か転んだ。

 そうして手ごしらえの長杖が折れた。

 体勢を崩しかけ、咄嗟とっさ岩間いわまを突いてしまったのだった。

 木の裂ける音が、轟々(ごうごう)たる流れの中に聞こえたらしく、脚をとめ、振り返った。

 もう早、どの角度から見ても単なる二本の枝でしかないそれらを姫様に示し、放り捨てようと周囲の地面を見まわした。

 その時だった。


 左手側の岩盤の上にひろがる薄暗い丘の森が、ふわっとあからんだ。

 ように感じ、すぐに目を向けるも、森の内は変わらず暗いままだった。

 川辺へ押し寄せるように密生している木々の狭間に、光源になるような対象は見当たらない。

 太陽か?

 思って空を見あげた。

 だが、蒼く抜けるような渓谷の空に、陽をかげらせる雲はなかった。

 木の精だったかと、首をかたむけながら姫様を見た。

 するとその顔が、森に向いていた。

 両耳をしきりに動かして、窺うような様子だった。

 注意の先が同じであり、自分の勘違いではないと確信し、早足に近づいた。

 たずねたところで詮無せんないことではあったが、思わず声をかける。


「今、森が一瞬、光りませんでしたか?」


 すると姫様が、ゆっくりこちらへ顔を向けた。

 そうしてわずかにあごをあげ、つんと澄ましたような顔つきをする。

 その素振りは、なんらかの意思表示のように思われたが、なにを申されているのやら。

 不意にその場でぐるりと首を巡らすと、上流を指して歩きはじめた。

 なんだかよくわからなかったが、関心が失われたのは間違いない。

 その程度のことだったかと、ふたたび森を見た。

 絶境の丘にひろがるこの森は、樹海の魔法使いをいただく森。

 さればこそ、木々がひらめく不思議とて、特段の問題とはならんのだろう。

 思いつつ、森を見渡す視野の端に、焦点を向けた。

 木下闇このしたやみで、人影が奥へ向かって振り返り、溶けるように森に消えた。

 一瞬の出来事。

 あわてて目を凝らすも、人影はもはや見当たらず、周囲には神妙な森が鬱蒼とひろがるばかりであった。

 岩場を進んでいく姫様に、森を気にする様子は、ない。

 見事に無関心だったが、今しがたの森の閃き。

 場所柄を考慮しても、やはり、誰か居たのだ。

 姫様の薄い反応からみて、サリアタ氏ではないと思う。

 マルセマルスカス氏だったなら、声をかけてくれるはず。

 となれば、考えられるのは、彼が話していた、弟子入り志願の魔法使い。

 まあ、いずれにしても、正式な迎えではなかったようだ。

 われわれの気配を察して、様子見に出て来たか。

 一瞬だったので、なんとも言えないところだが、人影の印象は。

 女性だったような気がする。

 去り際のうしろ髪──束ねて垂らした長い黒髪が、大きく揺れたように感じた。

 もっとも、髪の長短で性別を見定めることはできないが、もし、そうならば。

 魔女である。

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