01
光りがあった。
君の宝石箱を、ひっくり返してしまった、あの時のような。
満天に散らばった微塵の光りの粒。
それが次第にひろがって、爛々と照り映える、広袤果てない氷原のように、強くなる。
次いで、音があった。
老いた水車のまわす石臼に似た、雄大な草原を渡りゆく風のようにも聞こえる、重い音が。
なによりも真っ先に考えたことは。
意識の目醒めたこの森が、現実なのか、夢なのか。
枝葉の隙からそそぐ陽光が、瞳にまともに射し込んで、しばたたく。
現実だろうとは思う。
思うのだったが、夢の記憶が、判断をおおいに鈍らせた。
しばらく、森をあやふやに横たえたまま、緑々とした木々の香りに微睡んでいると、やがて、たゆたう靄の向こうから、まるで誕生するようにあらわれた姿に、おれはようやく解答を得た。
苔の散らばる林床に深々と、蹄の沈む四本の脚はすらりと細く、黒褐色の体毛はその首許だけが白く、そして長い。
渦巻くような二本の鋭角。
そのあいだの頭頂に、どういうわけだか葉っぱを一枚、載せている。
彼女の姿を、おれは見た。
どれほどの時間、眠っていたのやら。
現実の森は、不日の太陽を高らかに掲げていた。
それが山麓にて昇った何度目の太陽か。
正確な日数は、もはやわからなくなっていた。
二週間は、経っていないと思われるが。
背負ったままの背嚢が枕代わりになっていた。
肩紐を抜くのに手間取った。
ゆっくりと起こした身の節々に、若干の痛みがあったが、無難に動く。
右肩の芯に残る痛みは、炎症が原因だろう。
これは仕方ない。
両足の筋肉を張ってみると、力がこもった。
安堵の息が漏れる。
傍らに、手製の長杖が転がっていた。
雨の降った様子はなかった。
ほぼ山中にあって、幸いなことである。
あるいは姫様が、サオリに掛け合ってくれたのだろうか。
思いながら、近づく気配に目を向けた。
二メートルほどの距離を残して、彼女は歩みをとめていた。
黒目がちの円らな瞳が、おれをじいっと見つめている。
鼻息が荒い。
気短な相手を、ずいぶんと待たせてしまったようである。
左の前脚は、おとなしかったが。
文句を言われているような気がしてならない。
きっと、言われているのだろう。
いや、絶対に言われている。
「申しわけありません」
起きぬけに、とりあえずおれは謝った。
いくらか意識が明瞭となって、夢での始終がよみがえり、あわてて背嚢に取りついた。
手こずりながら、袋口をひらく。
あった。
薄汚れた小さな布包み。
土鉄の板でみずから覆った、革製の巾着袋。
確かにあった。
おそらくはこれも──物質は存在に付き従う。
魔法使いが語ったその道理の一つの結果なのだろう。
そういえば、あの時、気づいた違和感。
外套の懐に入れたはずの巾着袋が、背嚢の底から出てきた。
出来事の時間が逆転する違和感は、話しの流れで判明したが、こちらの理由は聞いていない。
ただ、状況が状況であり、なんとも言えないと今は思う。
姫様からの申し出を受け、出立するまで大慌てで、思い返してみても記憶があやふやだった。
自分では外套に入れたつもりが、実際は背嚢に仕舞っていただけかもしれない。
胃の腑も目醒め、強い空腹感に指先がふるえはじめた。
その時なにかの擦れる音がした。
顔をあげると姫様が、左の前脚で地面を蹴りながら、首を上下に揺らしていた。
おれを見つめる双眸から感情は読み取れないが、おおよそ察する。
のんびりしてはいられない。
背嚢に手を入れ、いよいよ底の露となった干乾し大豆を二十粒ほど一度に握り、まとめて口に放り込んだ。
音を発てて噛み砕く。
ぴたり、姫様の動きがとまった。
おれの口許を、凝視している。
そのまま一歩、また一歩と、近づいてくる。
完全に興味を示された。
腹が空いているわけではなかろうし、口に合うとも思えないが、やむを得ない。
神前に供物を捧ぐ心持ちで、数粒を地面に置いた。
耀く瞳は一点を見つめ、好奇心まるだしの雰囲気で寄ってくる。
そうして眼下に大豆を捕らえた。
しまったと思った。
彼女のような存在に人間の食べ物を差し出してよかったのか。
穢れを負った人間がこしらえた食物は聖性にとって不浄の餐。
それを彼女が摂ることで神の気質をも穢すことになりはしまいか。
この対応はまずい。
無思慮が招いた重大な局面に、しかし、制止する間もなく──。
食べなかった。
興味深げに匂いを嗅ぎ、鼻先で転がすのみで、一つも食べない。
思わず強張った全身が、吐息とともに弛緩する。
なんとも、おれの懸念こそが不敬であったか。
姫様のその振る舞いには、食欲に先んじ、意思的な制動が働いているように感じられた。
みずからの尊厳を示すような所作に、畏れ入っていると、やがて関心を失って、人間の前からゆっくりと離れた。
幽かに漂う霧の森に、木漏れ日が垂直に強く射し込んで、幾条かの光芒の柱が立っていた。
その彼方で脚をとめ、泰然と振り返った。
おれは目を瞠った。
なんという光景であろうか。
夢幻のごとくに現出した、光りの神殿の上座に佇み、人間を見つめるその姿。
輝いていた。
本性の尊さが、小柄な体躯から溢れ出るかのように。
美しい。
ただひたすらに美しい。
自然は最高の演出家と謂われるが、真骨頂である。
しばらくおれは、まさに見蕩れた。
天上に近じて気高く、生まれ持った存在感。
マルセマルスカス氏は、なにを目的にこの天下に生まれたかと、問いかけていたが、その口から出る彼女への敬称は、姫であった。
今はまだ、稚いだけなのだ。
彼女はきっと、いずれ、この森の女王となる。
孤高の牝鹿の現身をもって、この森に君臨する。
滅びも、栄えも、なにもかも。
高みから、見守るような。
そんな姿を想像した。
気品は未だ、背伸びをするかのような彼女の様に、思わず頬がゆるむ。
おれが眠っているあいだ、時の潰しに、好奇心のおもむくまま、あちらこちらの叢の奥を覗き込んでいたのだろう。
どうやらお気づきでないご様子なので、理解するものと見込んで、言葉で告げた。
すると彼女は小首を傾げ、片耳をぴくんとふるわせた。
前脚をわずかにひらいて踏ん張りながら、頭を大きく左右に振った。
神の戴きから、一葉がひらり、舞い落ちた。
背嚢を背負った。
左腰の短剣の位置を直しつつ、様子を窺う。
澄ましたような居住まいで、森の天井を見あげている。
そこで、ふと思った。
彼女に、名は、ないのだろうか。
マルセマルスカス氏の呼びかけは、いずれも代名詞であった。
彼も、知らなかったのだろうか。
聞きそびれてしまったな。
不格好な長杖を拾い、石突の泥を除く。
整って、声をかけた。
「姫様。ご機嫌は、いかがでしょうか」
お元気でなによりな、これまでの出来事など一切慮る気配のない、むしろ待たされたぶん、より早足になった気さえする蹄を涙目に追って。
悪質な斜面を踏み登るおれの耳に、まもなく水音が届いた。
底に響くような重々しい流れの音に、近いことを感じつつ、うつ向き加減に進むうち、薄暗がりの林床に散らばる苔の黄緑色が、不意に明るく鮮やかに映え、はっとなって顔をあげると、森の輪郭をぼやかしていた霧がすっかり晴れていた。
そして木々の狭間に、白日のまばゆい逆光にたたずむ彼女の黒い陰を見たのだった。




