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07

 なんとなく、悪戯がばれて叱られた童子のような、ふて腐れた雰囲気の神の子が、そばに居る。

 幽霊同然の魔法使いは事の次第を語り終え、胸のつかえがりたかのような晴れ晴れとした顔である。

 その両者のあいだにあって、状況を理解し、もはや冷静にのみ込んでいる自分自身を可笑しく思った。


 おれは斜面を見おろした。

 夢をみている意識がみているこの森は、現実の森であるらしい。

 現実のおれの肉体が、どんな状態なのかわからんが、眠っていながらおそらくは、まぶたをひらいているのだろう。

 それも姫様の仕業か。

 ともあれ、夢に歩いた道程を、現実にも、おれは歩いていたのだった。

 稼いだ距離は、失われていなかった。


 ――旅人よ。


 幼い声が呼びかけた。

 聞こえた宙空ちゅうくうに、おれは顔を向けた。


「はい」


 ――失敬な魔法使いが申した、時の流れを、坂下で無為に見送る。それをおまえは望むのか?


 無謀なこの旅路に就いて、旅人が、なにより落胆する出来事は、道を誤り、きびすを返すことと知った。


 ――望みは、おまえもわれと、同じはず。


 答えを目前にしての足どめは、一刻とて、望むところではない。

 構わない。

 一度は死んだ、わが身と思えば。


「マルセマルスカス様。わたしも、姫様のお考えに、乗っかってみたいと思います。この疲労感を、遮断していただくことは可能ですか」


 魔法使いに目をやると、彼は少し考えてから、首を左右に振った。


「姫様の魔法は、すでに解けています。あなたはこの環境を、ご自身の夢と自覚されています。ひとたび得たその自覚を、なかったことにするのは、難しいです。たとえ、これはうつつと思い込もうとしても、もはや、肉体は従いません。あまつさえ、そのお身体は、休息を欲しています。これ以上のご無理は、命に関わる。片棒を担いだ者として、その点の配慮は怠らずにおりました。心ならず姫様も、背後におられた御身おんみの存在を明かされたのは、あなたの限界を見定められたからです。すなわち、フロリダス様が今、すわっておられるその場所が、眠れる旅人の辿りうる、夢の果て」


 ふん、と吐き捨てるような鼻息が、うしろで聞こえた。

 その反応に魔法使いが目元を細める。


渓川(たにがわ)は、もう目と鼻の先です」


 言いながら自身の背後――行く手の森を一瞥いちべつした。


「サリアタ様のお住まいまで、半日とかからないでしょう。ひとまたぎです。しかし、そのひとまたぎが、今のあなたには難儀かと。ですが、ご安心を。あなたがうつつに目醒めたあとも、われわれは、そこに居ます」


 にこりと微笑んだ。


「それでは。わたしはこれにて、ひとまず去ります。役目はとうに済んでおりますので、ひと足先に参ることにいたします。これよりは、ふたたび、姫様とともに。地理のうえでは近いと言えど、お一人では、迷子になるはずですから。お手柔らかに、お頼みいたします」


 おれの肩越しの空間に、一礼した。


「早々おいでになられること、サリアタ様にお伝えします。お食事のご用意もしておきましょう」


 表裏のみえない笑顔に釣られ、恐縮しつつも、おれは素直に頷いた。

 気怠けだるい背筋をなんとか伸ばし、辞儀をした。


「ご面倒をおかけします。暫時ざんじ、お世話になります」


「歓迎します」


 応じて彼は、すっと右手を差し出した。

 一瞬の戸惑いののち、おれも右手を差し出し、握った。

 握ろうとしたのだが、握れなかった。

 おれの右手は、彼の右手を、すり抜けた。


「ああ、そうでした。薬種やくしゅの吟味もしなければ」


 悪戯いたずらっぽい顔をして、にやり、笑ったのだった。


 名乗りの失念に気づいた時、みずから彼に握手を求めた。

 間違いなく、手応えは生身のそれであった。


(死者であろうが生者であろうが、肉体が有ろうが無かろうが、事象を左右するのは、存在の純然たる思念のちから)


 マルセマルスカス魔法使いは、自分の語った言辞を、おのれの存在をもってすでに体現していたというわけか。

 右のてのひらを見おろし、おれは苦笑した。


 つかめなかった幻の右手を、彼はおもむろに持ちあげた。

 そうして、かるく払った。

 まといつく羽虫でも遠ざけたかのような、それはなに気ない素振りであったが、場が、にわかに変じた。

 辺りにわだかまっていた薄白い霧が。

 見るに、濃くなっていく。

 けぶりはじめたそのもやに、すっかり視界がのまれた瞬間、おれの中でなにかが、ぐらりとかしいだ。

 もやの彼方で、魔法使いの声がする。

 妙に、耳朶じだに響く。


「では、フロリダス様。かつて、ルイメレク様がひらかれた地にて、お待ちしております。おやすみなさい」


 それきり。

 聞こえなくなった。

 マルセマルスカス氏が、おれの夢から去ったのか。

 それともおれが、おのれの夢から遠のいたのか。

 もはや、なにも見えはしない。

 夢の森は、視界からまったく消え去った。

 雲のような白のただなかに、間違いのない自分が在り、そして。

 揺蕩ようとうする頭で茫然と、周囲の気配を窺った、その時。

 力なく垂らしていた右手の甲に、なにかが触れた。

 固い筆先のような、ざらついた感触のそれが、おれの右手を遠慮がちに。

 撫でる。

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