06
「この山坂の掛かり口です」
マルセマルスカス氏が応えた。
「先ほどわたしが、現の森にフロリダス様のお姿を見いだした時。あなたは、この坂下の木陰で、ちょうど今のような体勢でお荷物に寄りかかり、眠っておられました。神座を発ってのち、道先をゆく姫様のおもてなしが、お身体の酷使となったこと、お察しいたします」
思い出した。
二時間は、歩き通しであった。
行く手にあらわれた登り坂を前にして、堪らず地べたに坐り込んだ。
あの時か。
「眠ったと言うよりは、気絶に近かったろうと思います。後追いしていたあなたが、急に動かなくなってしまったために、姫様はやむなく単身で、われわれのところへ参られたようです。それが、昨日の正午前。そうして探知を了られたサリアタ様が、フロリダス様との接見をわたしに申し付けられたのが、先刻です。姫様のご訪問から、まるまる一日が経過しております」
彼女が案内を申し出た刻限と、その事実を彼が知る刻限。
出来事の時間が逆転したように思えたのは。
種を明かされてみれば、なんのことはない。
「まる一日。わたしは、眠りこけているわけですか」
「肉体のほうは、そうです。しかし、意識のほうは、わたしが到着した時点で、すでに覚醒しておられました。ただ、その目醒めは、現ではなく、あなたの頭脳がみせている夢の中でした。その夢中に、姫様が、お心を忍ばせておられるのに気づき、意図にも気づいて迷いましたが。思うところもあり、森の姫君のわがままに、乗っかってみることにしました。それで、わたしの意識も勝手ながら、あなたの夢に、お邪魔を」
おれは顔をあげ、マルセマルスカス氏の姿をあらためて、まじまじと眺めた。
短く刈った黒髪に、彫りの深い滋味ある目元から鼻筋の通った優しげな顔立ち。
歳の頃は四十前後と見受けるが、異能者は往々にして老化の進行が遅いので、実年齢はもっと上かもしれない。
ゆったりとした大きめの寛衣をまとっていた。
考えてみれば、あたりまえとは思うが。
夢をみているおれが今、みている彼のその姿は。
露骨な視線の意味を察したらしい魔法使いが、微笑み、頷いた。
「わたしのこの姿は、あなたの夢に入り込んだわたしの意識が映し出している、幻です。しかし、それはあなたも同様。フロリダス様のそのお姿も、夢に目醒めているあなたの意識が映し出した、ご自身の幻です」
言われてみれば、そういうことになるのか。
おれの肉体も、現実世界の森に、ある。
この丘のたもとで、眠ったままと言うのだから。
だが、それならば。
幻のこの身体に、突然に襲ってきた凄まじい疲労感は。
もはや一歩たりとも歩けない、歩きたくない、くたびれ果てたこの酷い疲れは。
訊ねると、彼が答えた。
「この環境が、現ではなく、夢であることを、あなたが知ったからです。それはとりもなおさず、現を知るということ。その認識によって、現の森と思い込んでいた信念が崩れ、信念が遮断していた現の肉体感覚が、意識に雪崩れ込んだのです。今のあなたに実体はありませんが、その実体と、意識とは、つながっていますから」
朝靄のような、霞み漂う森の坂を、ここまで登ってきた。
軽く感じた足取りは、答えに続く確かな道が眼前にひらけた高揚によるものと思っていたが。
違ったようだ。
そもそもおれは、歩いてなどいなかったのだ。
思わずため息がこぼれた。
稼いだ道程を夢に失い、落胆して、呟いた。
「そういうことですか」
呆然と、虚しくなった足跡を見おろしていると、マルセマルスカス氏が言葉を継いだ。
「別の言い方をすれば。フロリダス様の心に仕掛けられた、姫様の魔法が、解けた」
眉をひそめ、彼を見た。
「姫様の魔法?」
「現のあなたの肉体が今、眠っている場所。この丘のたもとではありません。そこです」
おれの腰元を指差した。
「あなたが今、坐っておられる、その場所です」
「え?」
「夢に目醒めたあなたの意識が、現の森で眠り続けるご自身の肉体を、ここまで、引っ張ってこられたのです。実際に、歩いて、今、そこに坐っておられる」
唖然となった。
「それは……。つまり……。眠りながら?」
「眠りながらです」
魔法使いは微苦笑し、頷いた。
「フロリダス様が、この山坂の掛かり口に辿り着いたところで、喪心してしまわれたのは、極度の疲労が原因です。長い路程の旅疲れ等々も、重なったのでしょう。わたしの判断では、数日間の休養を取られるのが望ましい状態。だったのですが」
そこで、つと顔を寄せると、小声で言った。
「人間の体力が万事回復するのを、わずかも待ってはおれない、せっかちな方が、おられまして」
梅干しを含んだような表情で、ゆっくりと身を離した。
――あえて問う。
だしぬけに真横で声がし、びくりとなった。
――それは誰のことか。
魔法使いが即座に応じ、声に向かって慇懃に頭をさげた。
「フロリダス様の意識が、夢にみておられる、この森。この情景は、フロリダス様の記憶ではありません。フロリダス様の頭脳が、直接にみている現の森です。これでは、夢を現と思い込んでしまうのも、無理はない。むしろ当然です」
静々と顔を上げ、空を見据えた。
「夢に目醒めた意識が、睡眠中の肉体を牽いて歩く条件が、整っています。その状況下で、フロリダス様の覚醒が夢の中であったのは、偶然でしょうか」
おれに向きなおった。
「あなたは、夢に目醒め、頭脳がとらえている現の森の情景を、現の延長線上と認知されたのです。ごく自然の大前提として。これは夢かもしれないと、夢にも思わずに。疑念のもたげる余地のないその純粋な思い込みは、現に眠るご自身の肉体に対し、充分な牽引力を有します。存在の主体は意識であり、物質は意識に従うのみ。その道理が、姫様の思惑です」
――心得違いをするな。
ざざっと数歩、地面を擦る音。
――この山は、猛獣どもの縄張りの内である。早々に嗅ぎつけられよう。なんの手立ても講じずに、ただ寝ておっては、命を危ぶむ。
威厳の滲みる少女の声音が、夢の森に響き渡る。
――旅人よ。われの思いを受けとめよ。おまえの心身を案じてのことと。
「わたしが到着するまでの時間。眠り込んでいるフロリダス様に、踏んだり蹴ったり悪態をつかれていたお方は。さて、どなたでしたか」
踏んだり蹴ったり?
――まったくおまえは、余言が多いのだ。
「お言葉ではありますが、肉食動物の棲処。これよりだいぶん、東に寄っております。お忘れですか?」
――マルセマルスカス。
「はい」
――われはおまえを好まない。
「存じております」
魔法使いが、しかつめらしく礼をした。
のしかかるような疲労の度合いが、増したような気がする。
思考の鈍った自覚があったが、両者の話しを聞いてようやく、おれにも絵が見えてきた。
昨日の正午前。
気絶したおれを捨て置き、樹海の魔法使いを訪ねた彼女は、訊ねたようだ。
興味をいだいた、茶色い小袋の中身について。
だが、サオリを由縁とする彼女の問いかけは、賢者をして慎重ならしめた。
サリアタ氏は答えず、肝心の現物を携えている人間は、丘のたもとで伸びている。
踏んだり蹴ったり、なにをしても無反応だったに違いない。
それで彼女は、一計を巡らせた。
茶色い小袋を背負うおれを、眠ったまま、樹海の魔法使いに近づける方策を。
なるほど要は。
マルセマルスカス氏の言ったとおりなのだろう。
あの神木の地から追った蹄と、そのふるまい。
腑に落ちる。
やっていることは当に神業だが、その作意の出どころは至って単純。
森の小さな姫様は、気が短いのだ。




