05
振り返った。
くだりの坂に並び立つ、白々と霧がかった森の木々。
その合間に目をやるが、姿は、ちらりとも垣間見えず。
それでもおれは目を凝らし、確かに聞こえた声のあるじを、懸命に視界に探す。
自分の行動が、無意味であることにまもなく気づいて、たちまち混乱したのだった。
「いけませんか?」
魔法使いの穏やかな声に、はっとして振り向くと。
彼はまるで、悪戯をしている愛娘を見るような、なんとも慈愛のこもった眼差しで、おれの右腕を見つめていた。
見つめているように見えたのだったが、よく見ると。
その視線は、おれの右腕から、わずかに脇へ逸れていた。
そうして辿った、先の虚空で。
――ふん。
鼻を鳴らした。
すぐ近く。
目の前だった。
「姫様も、言葉飾りはお嫌いではないのでは?」
――思い違いをするな。われが好まないのは、言葉飾りではない。失敬な魔法使いだ。
「さて。失敬な魔法使いとは。いったい」
真顔で首を傾げながら、まともにおれを見る彼だった。
はっきり聞こえた森の少女の幼い声音。
だが、彼女の姿は、どこにもないのである。
動転しながら訴えるように彼を見返すと、魔法使いは小さく頷きかけてまた、目線を戻した。
なにもない空間に向かって、一礼した。
「ようやく。お声をかけてくださいましたね。心苦しくありました」
――心苦しいだと? どの口が申しておるやら。
「家主に無断で、勝手に上がり込んでいたようなものですから。それは、ほかでもない、姫様こそです。こたびの仕業は、褒められたことではございません」
――ほう。人が、われに道理を説くか。
「説きましょう。女神様と申せども、わがままが過ぎれば」
――わがままとな。甚だ心外である。
「お声をかけられた、ということは。姫様ご自身も、ここらが潮時と見定められたのでは」
――旅人よ。
不意の呼びかけ。
思わず返事が掠れた。
――そこの耳障りな魔法使い。信じてはならんぞ。
「また、そのような。おやめください。いらぬ誤解を招きます」
吐息をついた。
「ともあれ、この状況です。フロリダス様に、ご説明を申しあげて、よろしいですね?」
問いかけに対し、反応はなかった。
気配は、目の前に残ったままである。
彼女のその沈黙を、応答と受け取ったらしいマルセマルスカス氏が、おれに向きなおった。
「フロリダス様。すでに、お気づきとは思いますが」
言いながら、こちらに近づく。
正面に立ち、彼は右腕をもたげると、おれの左の二の腕をつかんだ。
そうして瞳を覗き込み、言い含めるような、ゆっくりとした口調で。
「あなたが今、目醒めておられるこの森は、あなたが今、みておられる、夢の中です」
聞いた瞬間だった。
凄まじい疲労感が、堰を切った流水のごとく、満身を襲った。
おれはその場に崩折れた。
たちまち朦朧となり、深く長い息が、臓腑から絞り出るように口から漏れた。
遠のく意識の彼方で、マルセマルスカスの声がした。
思い出したように勢いよく、おれは息を吸い込んだ。
そうして何度か、深呼吸をするうち、去りかけた意識が徐々に戻り、地べたに尻を据えているおれのふらふらの身体を、マルセマルスカス氏の右手が支えていることに気がついたのだった。
両足が、酷く痛んだ。
力が入らず、ろくに動かせない。
「姫様。神に額づく人の子に、どうか。暫くの休息を、いただきたく存じます」
魔法使いが厳かに言う。
すると森の少女が応えた。
――サリアタは、教えてくれなかった。
心なしか、駄々を含んだ口調だった。
「それは、当然です。姫様に、当て推量で、お答えするわけにはまいりません。実物を検めるまで、断定と発言を控えるのは、当然のことです」
どん、と、聞き憶えのある打音が、足下で鳴った。
小さくため息をつく魔法使い。
背負ったままの背嚢に、おれの上半身を預けると、横に移動し、曇った顔を覗かせた。
「かく申すわたしとて、片棒を担いでいたようなものです。姫様のわがままと、わかっていながら。フロリダス様のお身体に、一層のご無理を強いてしまいました。申しわけありません」
「あの神木のたもとで、彼女と話しをした時の夢と、状況が、同じです。姿は見えず、声だけが。しかし、これは。なにごとでしょうか」
どこまでが現実で、どこからが夢だったのか。
まるでわからなかった。
いったいおれは、いつ、夢の森に迷い込んだのだ。




