04
「彼女が珍かに、サリアタ様の住地へお見えになったのです。妙な物を持った人間が、樹海に入ったと。わざわざ報せに参られたのです」
驚いた。
口が、ぽかんとあいてしまった。
「この森に人間が立ち入ること自体は、稀にですが、あります。その場合、われわれもすぐに気づきます。穢れを負った魂の移ろいに、森が、ざわめくからです。素性まではわからずとも、人間が闖入したことだけは容易に知れる。すなわち、フロリダス様の存在も、察しておりました。ただ、森に踏み込む人間の目的は、十中八九が、おのれの名声であり、われわれとの交差点は、まず皆無です。よって存在に気づいても、当方からは一切、干渉しません。先方の状況に関わらず、放置します。しかしながら、こたびは事情を異にしました。彼女が、みずから、参上した。無視はできません。しかも聞けば、持ち込まれた荷物に、ずいぶんと興味を示されているご様子。それを受けて、サリアタ様が動かれたのです」
ああ、と思わず、声が漏れた。
道理であった。
よもや、彼女がひと足先に、宛の玄関を叩いてくれていたとは。
その事前の打診によって、サリアタ魔法使いは封じを段取りし、マルセマルスカス魔法使いが、おれの誰何にあらわれた。
迷惑は承知のうえとは言え、現状にただただ、恐縮するばかりである。
昨日の正午前。
焚き付けを探しに出た戻り、巨木に寄り添う凛然たる姿を見た、あの頃か。
そこでおれは、固まった。
またもや、違和感があったのだ。
夢の森で少女から、案内の申し出を受けたのは、今日の朝方ではなかったか。
その事実を彼が知る彼女の訪問は、しかし、昨日の正午前。
出来事の時間が、逆転してはいないか?
「彼女の存在感に接するたび、つくづく思います。この子はいったい、なにを目的に、この天下に生まれたものかと。われわれのような人種でも、彼女とは、意思のやりとりが叶います。その魂を覆い隠す、牝鹿という帳のお陰です」
「牝鹿……」
おれは呆然と呟いた。
「彼女は、鹿なのですね。不勉強ゆえ、わたしには判りませんでした」
すると、魔法使いは応えた。
「彼女ご自身が、そう申されたのです。いつだったか。訊ねてみたのですよ。しましたら、自分は鹿との返答が。ものすごく不機嫌な口調で言われました」
振り返り、苦笑した。
「ですが、サリアタ様は、彼女は鹿ではないのではと、お疑いです。角があると」
「角? ああ、確かに。ありますね。二本の鋭い」
「ええ。ところが、鹿の牝には、角は、生えないそうなのです。仮に、雌雄が角をもつ種だったとしても、形状が異なるようで。鹿の角は、円錐形には伸びず、樹木のように枝分かれするらしいのです。しかし、彼女は……。それでも一種の奇形もしくは突然変異の見込みも充分にあり、そこは彼女の意思を尊重して、牝鹿と」
「わかりました。では、わたしも。彼女の意思を尊重します」
先ほど聞いたサオリなる単語と同じく。
鹿の角の知識も、おれにはないのだった。
樹海に住んだ魔法使いの師弟に、そこはかとなく漂う、先生との接点。
先史人類の世界に関する造詣。
もっとも、外来種についての知識も、古語についての知識も、そのほかの知識であっても。
学ぼうと思えば、自由に学べる知識であるが。
「彼女はもうすぐ、人の例えで、八歳になります。しかし、魂の年輪は、われわれよりも」
「やはり。衆に紛れる獣では、ないのですね」
マルセマルスカス氏の口ぶりには、森の少女への敬愛と、畏怖があった。
おれ自身もわずかながら、彼女の雰囲気に触れているので、なんとなく解る。
深みを感じた精神性と、自主独立した孤高のたたずまい。
拠りどころであると言う、その樹木に宿るのは。
彼らが、そう呼ぶ、神。
「もしや、彼女は」
木が、大地にそそり立つ理と、由縁を同じくする存在。
「あの神木に、縁が?」
静かに問うと、魔法使いは深々と肯首した。
「彼女は、サオリの子です」
「サオリの子? それは――」
沈黙があった。
その背に思考が窺えたので、無言で待った。
やがて、向き直り、答えた。
「魂という言葉が、一般に与えている意味は、存在の根源としての観念ですが、それだけでは片手落ちです。生きとし生けるもの、それぞれに宿る魂は、母体となる存在から生じ、個体となった存在。その意味も含めた存在の根源をあらわす言葉を、分魂と言います。フロリダス様の魂、サリアタ様の魂、わたしの魂、そして彼女の魂。皆、その分魂です。ただ、彼女の場合、その牝鹿をまとう分魂の母体となった存在が、われわれとは異なる、ということ。それが、サオリである、ということです」
森の少女の訪れに、樹海の魔法使いが例外の判断をくだした理由。
おれは、唸った。
「お察しのとおり。彼女は、神の化身です。その分魂は言うなれば、あの御神木の梢から零れ落ちた、ひと雫」
その時だった。
――マルセマルスカスよ。おまえは時に、詩人のような物言いをする。
おれの背後で、幼い声が響いた。




