03
森にうっすらと、霧が立ちはじめていた。
水音はまだ耳に届いていなかったが、この先にあると言う谷間の渓流が、いよいよ近づいているのかもしれなかった。
たゆたうような白をかき乱す気配に、たびたび、気づいたが。
いずれも違う獣であった。
彼女はどうやら、去ってしまったようだった。
けれども、妙に確信めいた予感があった。
森の少女との縁は、終わっていない。
遠からず、夢で会えるような気がした。
急な斜面を踏み登るわが二本足に、疲労はなかった。
マルセマルスカス氏の語った内容を、しばらく黙々と反芻するうち、似た要旨の話しをだいぶ以前に、顧問魔術師から聞いていたことを卒然と思い出した。
思いのちからは、物事を良くにも悪くにも転ばせる。
長い年月、浸かりきった日常が、彼らの言葉をいつしか、脳裏へと追いやってしまっていた。
おのれの愚かしさを独白するように喋ると、彼は柔和な笑みを返しながら、なにごとも平衡感覚が肝要ですと言った。
「事象を正しく捉える視点をもったうえで、物質の世界として広がるこの天下を、存分に楽しむ。それが健全な価値観であるというお話しです。物質に固執することは愚かと言ってよいですが、物質を軽んじることもまた、愚かです。肉体をもって学び、肉体をもって働き、肉体をもって愛し合う。いずれも、快感を味わえる行為です。肉体をまとわねば、感得できないそれらの愉悦を堪能するために、そのために存在は、この宇宙の車輪となるのですから」
そんなことを衒いもなく語る初老の魔法使いを、おれはサリアタ魔法使いの弟子と察していたのだが、違うと聞いて、理由にとても驚いた。
立場上は、おれと同じ、客なのだそうだ。
サリアタ氏に弟子はないらしい。
当地を訪れた経緯までは語られなかったが、樹海の魔法使いを無二の人物と判じ、教えを乞うたものの、そんな暇はないと言下に断られたと。
だが滞在の許しは得られたので、以来、逗留し、客分のまま勝手に師事しているとのことだった。
身を寄せて、そろそろ二十年が経つと聞き、おれは二度驚いた。
その年数はもはや定住と言ってよいように思えたが、彼のなかではあくまで、仮寓のようであった。
当時すでに、ルイメレクの魂は昇天しており、彼自身も面識はなく、まつわる事柄はすべてその後継者から伝え聞いた話しであると言う。
だからご先代様の名をおれに告げたドレスン氏について、サリアタ様ならばご存じかもしれないと、彼は言った。
住所には、ほかにも何人か、帰らない客が居るとのことだった。
いずれも弟子入りを断られた魔法使いなのだそうだ。
自分と同じく勝手に居着いて気ままに学んでいると言う。
宛は思いがけず、にぎやかそうな様子であった。
小さいながらも畠や菜園があり、野菜や果物を栽培しているらしく、たいした料理は出せないが面会の前にまずはお食事をと勧めてくれた。
腹が鳴ってしまった。
陸の孤島の隠遁者然たるサリアタ魔法使いの住環境に、自給の基盤が整っているのは当然か。
しかし、その人物の師が、そもそも樹海に居を構えたのは、なぜだろう。
理由を訊ねてみると、マルセマルスカス氏は案外にも、歯切れ悪く言葉を濁した。
直後に間を置かず、どこで牝鹿と出会ったかと問い返された。
意図的に話題を変えた印象もあったが、彼が言った牝鹿とは、おれを導いた森の少女のことに相違なく、その点すでに把握しているらしい口ぶりを、怪訝に思い、おれは応じた。
「初めて目にしたのは、ホーキ川沿いの藪でした。そのあと、再会したのは樹海にて、偶然に発見した巨大な木の立つ空き地です。三度目もそこで。しかし、彼女は」
いったい何者なのかと口にしかけたところで、斜め前を歩く彼が半身を向けた。
「ああ。あの場所に立ち寄られていましたか。なるほど。だからでしょうか」
独り言のように小声で言い、続けた。
「われわれは、あの巨木を、サオリと呼んでいます」
「サオリ?」
「ええ。なんでも、女性に付けられる古い名前の一つで、降臨という意味を持つ言葉だとか。ご先代様の命名だそうです」
女性に付けられる古い名前の一つ?
サ・オ・リ。
言われてみれば、その語感。
先史人類の一言語圏の表音文字の発音に似ていた。
それも語源まで――。
サオリ。
降臨。
え?
「降臨? と、言うことは」
「はい。あの巨木は、神座です。神なる存在の依代です」
ああ、やはり。
あの木は神木であったか。
「そのため、われわれはまず、近づきません。近づけない」
「近づけない。確かに、人の立ち入った形跡は見当たりませんでしたが。なぜです?」
「サオリに限ったことではないのですが。われわれのような人種が、御神体と化した自然物に近づくと、その存在感にもろに中られてしまうのです。神と、人。気質にそれこそ天地の隔たりがあるため、なじませられない。わたしなどは未熟者ですから、サオリに近づいただけで意識を持っていかれる恐慌に襲われます。ご先代様が生前、あの場所にサオリをお祀り奉る社を張る心積もりで、お伺いを立てるべく接触を試みられたそうなのですが、断念されたと聞きました。触らぬ神に祟りなしと、サリアタ様に申されたそうです」
聞いて、血の気が引いていくような気分になった。
あの場所で、おれが注意を払っていたのは、神木と見なした一本の樹木に対してのみである。
だが、考えてみれば。
神木と見なせる対象が、有ったのならば。
土地もすべからく、相応の場と見なすべきであったのだ。
あの空間は、神様の領域だった。
神社だったのだ。
「実は」
かけた声が少し震えた。
「あの場所を、少しばかり、荒らしてしまいました。地面を一部、掘り返して、焚き火をしてしまったのです。しかも、あと始末をしていません。大丈夫でしょうか?」
すると、魔法使いはぴたり、足をとめ、振り向いた。
「あの場で、焚き火を?」
目を見ひらいていたが、表情には、微笑があった。
「むしろ炎は、神への供物となります。意図せずとは言え、神前において人が為すべきことを、あなたは為されたことになる。その際に、なにか問題は起こりましたか? たとえば、体調が悪くなったとか、大雨が降りはじめたとか、作業の滞るような問題が」
問われ、記憶を思い返して、とくにはなかったと答えた。
「ならば大丈夫です。そうですか。火を焚かれましたか。なるほど」
なにかに合点したように、小さく何度も頷いた。
魔法使いの返答には、おおいに安堵したものの、しかし。
神様へのお供えとなったらしいその炎で、おれは、苔の塩茹でをこしらえているのだった。
その点についても、告げるべきかどうか悩んでいると、彼が言った。
「フロリダス様が、神座に寄られたのは偶然かもしれませんが、そこに彼女があらわれたのは、偶然ではないと思います。あの場所は、彼女の拠りどころなのです。穢れを嫌う存在が、みずから人と接触をはかったのも、その場でのあなたの行動と、おそらく無関係ではないでしょう」
間違いない。
マルセマルスカス氏は、知っている。
おれが、森の少女に導かれていたこと。
その旨を問いかけると、はっきり彼は頷いた。
そうして不意に、おれの右腕に目をやった。
視線に釣られ、見おろすが、別段なにもない。
「幼く、未知が多い。好奇心に溢れたその瞳に、重荷を背負われたフロリダス様のお姿。興味を惹かれたのも、当然かもしれません。昨日の正午前のことです」
微笑んで、彼は歩行を促し、おれも踏み出した。




