02
やがて、明るい瞳をすっと覗かせ、吐息をついた。
「見つかりませんね。まだ森に居てくださればと、捜してみましたが、去ってしまわれたようです。しかし、お話しを聞く限り、死の淵に立ち至ったフロリダス様を、生の汀に引き戻したその屈強な男性は、死者でしょう。ご判断のとおりかと」
おれは頷いた。
「死者が生者に干渉する。起こり得ることです。様々な要因が複雑に絡み、言葉でご説明すると真実から遠ざかってしまう葛藤があるのですが、意識的なちからが物質の構成要素に作用することは、普通に起こり得ます。それとは反対に、生者が死者に干渉する。起こり、得るか得ないかで申しあげれば、やはり得るわけですが。こちらも当然ながら、万事が意識的な干渉となります。ご質問の意図は、死者が差しのべた手を、ご自身の手がつかめたのは、どうしてか。たとえば」
言いながら、指先で顎をなでた。
「フロリダス様と、わたし。先ほど、握手をしました。その際に、あなたは、わたしのことを、生きている人間と思っていましたか? それとも、死んでいる人間と思っていましたか?」
「もちろん、それは。生きている人間と」
「それです」
「え?」
「実は、わたしが、死んでいる人間だったとしたら」
マルセマルスカス氏が、悪戯っぽい表情で、にやりと笑った。
「そのことを、握手をする前に、あなたに告げていたら。あの握手は、成立しなかったでしょう。なぜなら、わたしの告白によって、目の前の人間が生者なのか死者なのか、肉体が有るのか無いのか、あなたの心に疑念が湧くからです。しかし、わたしは自分が死者であることをあなたに告げませんでした。そしてあなたは、わたしが生者であることを当然と認識したまま、握手をした。だから成立したのです。つまり」
胸元に手をあてた。
「死者への干渉は、生者の側の信念の深さが、成否に影響するということです。常人の方々の場合ですと、その信念を深める簡単な方法は、接触する相手がすでに死んでいる事実を知らないことです。生きている人間であると、あたりまえに思っていることです。先ほど、葬儀の際のお話しが少しありましたが、故人の幽霊と、ご遺族とのあいだで干渉が成立しないのは、そのためです。死者であることを知っている相手との接触は、難しくなるのです」
「と、言うことは。わたしがあの時、幽霊の手を、つかめたのは」
「亡者が差しのべた手を、生きている人間の手であると、信じ込んだからです」
「信じ込んだ……。え。それだけですか?」
「それだけです。しかし、それこそが、存在の本質です」
「では、あの手応えは」
「錯覚です。その時、あなたがつかんだのは、差しのべられた救い手ではなく、亡者の魂です」
たましい、と、気抜けたような声が漏れた。
「救い手を差しのべた亡者が、つかんだのも、あなたの魂です。ただ、亡者はその際、あなたの肉体も同時につかんでいたと思います。肩関節脱臼の整復。拝見したところ、上手に治してありました。それは亡者が、物質に働きかける要領を心得ていた証拠です。あなたが手応えを感じたのは、それゆえでしょう。肉体への意識的な干渉を感受した頭脳が、生身の手に触れたと錯誤した。脳みそのその錯誤は、しかし、正常な反応ですのでご心配には及びません」
ひと呼吸おき、言葉を継いだ。
「その律儀な亡者は、おそらく。一方的な干渉では、厳しいと判断したのです。今にも落下しかねないあなたを確実に捕らえるには、あなたの側からも、こちらを捕らえてもらう必要があると。それで、みずからの幻の手を差しのべたのでしょう。絶望的状況下、人間の手を見たあなたは、自分自身が救われる可能性を認識しました。その瞬間、あなたの意識は一点に集束、信念のみに凝結した。目の前にあらわれた幽霊の手を、生きている人間の手であると完全に思い込んだのです。お互いの意識的な干渉が成り、双方の結びつきは強固になりました。それをもって亡者は、宙吊りの心身を引っ張り揚げた。あなたは、生死の間から脱したのです」
突っ立って、おのれの左手を、見おろしていた。
魔法使いのその返答。
万事に休したおれが、からがら生き延びたのは、おれの単なる思い込み。
その結果だと。
引割を踏み抜き、絶体絶命の状況に陥ったのは、事実。
窮地から脱け出し、負傷した右肩が回復したのも、事実だった。
おれを救わんとする意思に、可能性を思い込んだおれの意思が応え、現実に反映された。
アデルモのご主人が、フロリダスを助けた。
と、言うより。
フロリダスが、助かることを求めた。
けれども、あの時おれが、心から強く望んだのは。
自分の終わり。
君が待っていてくれているはずの世界へ。
炭火のように心底を灯し続けていたその虚ろな火種から、しかし、あの刹那に爆ぜたのは。
真逆の願望――わが命への執着だったと。
息を深々と吐いてのち、決然と顔をあげた。
信じようが信じまいが、時は、過ぎゆく。
往生際に、未練がましくこの世にしがみついたのなら、その理由はもう早、一つだけだ。
おのずと足が前に出て、長杖を突いた。
力強く。
すると、坂の上から言葉が落ちた。
「この天下は、虚実の転倒した世界と言えましょう。無理からぬことですが、もどかしく思うことも、多々」
静やかな声音だったが、断乎とした響きがあった。
横に並んで、歩きはじめる。
「ではその虚実とはなにか。すなわち、物質と霊魂。物質は虚です。霊魂が実。これが真です。しかしながら、社会通念を、建前とすれば、本音となる現実的な価値観は、逆転しています。物質こそが実であり、霊魂は虚に過ぎぬと。その根本的な解釈の転倒が、この天下に起こる様々の事象を、見誤る理由です」
なんとなく、叱られているような気分になった。
「物質という言葉の二元論的対語として、霊魂という言葉を用いましたが、これは、意識、想念、精神といった言葉と、同義です。それらを包括し、意味するものこそが、存在であり、天下を捉える主体です。あなたの混乱の原因は、物質である頭脳が担う、理性。その理性を主体として、天下を捉えているがゆえに発生する、矛盾。理性はあくまで、肉体をまとった存在が、下界に生きて在ることを満喫するための、道具に過ぎません」
彼が自嘲気味に微笑んだ。
「存在が思うこと、願うこと、望むことに、物質は、従属するのみです。それがたとえ、頭脳であってもです。死者であろうが生者であろうが、肉体が有ろうが無かろうが、事象を左右するのは、存在の純然たる思念のちから。想像力。あれかしと思う。思い込む。信じる。一切の疑いなく。それだけです。それがすべてです。いかがでしょう。充分に、合理的とは思われませんか?」
訊ねたことを後悔した。
軽率だった。
これは、道すがらに聞くような話しではない。
「想像力に限界はありません。無限大です。よってこの世は、可能性に溢れています。しかしながら、それがゆえに、思念のちからの方途を違えると、厄介なことにもなります。あなたを死地に追い込んだ、害意を孕んだ龍の纏繞。それが一つの、わかりやすい例です。皮肉なことですが」
おれは素直に頷いた。
頷くほかなかった。




