01
荒波のような地形に沿って縦横に進路を振りながらも、林床を踏むその蹄の向かう方角は、北であった。
山に近づいているため、登り坂の連続であり、緩急の勾配を彼女は馴れた脚運びでひょいひょい進んでいく。
足跡をたどることで引割を抜く心配はなかったが、自分の歩調ではないゆえに、体力の消耗は大きかった。
ここに至って、疲労の蓄積が地力にひびいてくる。
情けなくも声をかけ、立ちどまるたび、振り返ってその場で待ってくれるのだが、少しすると、ぐずぐずするなと言わんばかりに前脚を踏み鳴らす。
その流れを幾度も繰り返すうち、気づいた点が一つ。
彼女の利き脚は、おそらく左である。
容赦のない先導者であったが、少女の選択に従おうと、おれは決めた。
前情報なしに、見抜いたのだった。
茶色の小袋。
原因までは、わからないようだったが。
(まったく邪気がない。なにも感じない。なれど、とてつもなく強い。それがおそろしい)
その見立ては、故郷においての顧問魔術師たちの見立てと異口同音であった。
しかし、魔法使いのそれは、状況を踏まえたうえでの発言であり、その考慮がなければ事実上、彼らの異能をもってしても探知不能であったのだ。
こちらの状況など、彼女は知らぬはずである。
にも関わらず、それに規格外のなにかが潜んでいることを看破したのだった。
われわれが感じた恐怖と、同じなにかを、彼女も感じたのだ。
森の出外れのあの藪に、ふらりと姿をあらわし、人間の前に立ったのは、偶然ではきっとない。
気づいたからに違いない。
正体不明のなにかが、近づいてくることに。
あるいは無頭の杖の曰くを先に、感知したのかもしれないが、いずれにしろ、初対面したあの場所で、彼女はそれに気づいて、強く興味を持った。
神秘のちからを行使してまで、おのれの好奇心を問うたのは、声音が示す幼さゆえか。
もしかすると、出会した藪で思わず、おれが口にした言葉。
直後に食事をはじめた理由は、わからないが。
理解していたのではなかろうか。
樹海に用があると、おれはそこで告げているのだ。
謎の力を背負った人間が、追い追いあらわれるのを、この樹海で、彼女は待っていたのだろうか。
もしくは、この樹海に至るまで、おれの道程を尾行していたか。
獣に追跡されているなど露ほども考えず、そんな気配もまったく感じなかったが、雑念だらけの意識では、もとより気づくまい。
あの森の墓場にて、わが身に起こった九死一生の顛末。
彼女は知っているのだろうか。
早朝の木陰の暗がりは、徐々に昇りはじめた太陽で、だいぶん薄らいでいた。
体感と、日時計の影の推移を見るに、もう早、二時間近く歩き通しである。
森の天窓に覗く山肌はいよいよ迫り、それに続く密林の急な斜面を前にしたところで、とうとう足がとまってしまった。
その場にへたり込み、背嚢の重みにすら踏んばりが効かず、どてんと尻餅を搗く。
いったん腰を落としてしまうと、立ちあがる気力がなかなか湧かず、張った筋肉をほぐしながら坂の木々に目を配った。
姿は見当たらなかったが、その中途で地団駄を踏んでいるであろう存在に、訴えた。
「すまんが、しばらく休ませてくれ。気持ちは急いても、足が追いつかん」
肩紐をはずし、荷をおろした。
「日も、まだ、登り坂だ」
正午前の頭上を一瞥してから、両膝のあいだに首を垂れた。
深々と息を吐いて、両目をつむる。
「森に、迷われましたか?」
不意に男の声がした。
はっとして顔をあげると、斜面のなかほどの木間に、人影が。
人影が、狭い樹間を縫って、おりて来る。
突然のことに目を剥いた。
木々に見え隠れするその姿は、黒い短髪で、ゆったりとした寛衣をまとい、包みのような物を持っている。
身ごなしの印象からも、男性。
器用に足をすべらせながら、まもなく坂をくだり切ると、ふわりと向きなおった。
穏やかに笑みを浮かべている。
年格好は、四十絡み。
彫り深い、滋味を湛える優しげな目元に鼻筋の通った面立ちで、その顔貌をまともに認めた瞬間、ぎくりとなった。
男の額――眉間の真ん中やや上に、円形の小さな陥没がある。
おれはとび跳ねるように立ちあがった。
「かような土地です。無理もありません。それとも」
こちらへ歩み寄りながら、首をかるく傾けた。
「宛が、お有りですか?」
茫然となった。
樹海に唐突にあらわれた、魔法使いに違いない男が、目の前に立っていた。
心の準備もないままに、向かい合っている状況に、おれはしばし、固まった。
そして、答えた。
「宛は、有ります。おそらく、あなたです」
男の両目が訝しげに細まった。
「あなたが。あなたは、ルイメレク――様ですね?」
問いかけると、表情から笑みが、すっと消え、真顔でおれをまじまじと見た。
「ほう。その名をご存じとは。失礼ながら」
知り得た経緯を問い返され、簡潔に説明する。
「十三年ほど前になります。わたしの恩師に当たる人物が、臨終の間際に、わたしに、言い残したのです。難事に際し、不明が生じたら、ホズ・レインジへ行け。樹海に賢者を訪ねよ。名を、ルイメレクと」
「して、恩師のお名前は?」
「アポニ・ドレスン」
告げた先生の姓名を、魔法使いは鸚鵡返しに呟いた。
そうして思案するように目線をわずかに彷徨わせる。
やがて言った。
「お答えの氏名、わたしは存じあげませんが、心当たりが、あるやもしれません。しかし、なるほど。道理で」
なにかに合点したように頷くと、ご無礼しました、と居住まいをただした。
「違います。わたしは、お尋ねの宛では、ありません」
「え?」
「わたしの名前は、マルセマルスカスと言います。かつて、ルイメレク様がおられた地所に、逗留している者です」
かつて――。
耳に入ったその言葉に、頭がぐらりとなった。
魔法使いが声の調子を落とし、言う。
「確かに、ルイメレク様は、この樹海にお住まいでした。ですが、すでに、お役目を終えられております」
「それは、どういう意味でしょうか」
「天上へ昇がられました。彼の魂は、もはや、この天下には、在りません」
なけなしの力がことごとく、森の底へと抜けそうになった。
気張りでどうにか、踏みとどまった。
天上に昇がられた。
わが尋ね人は、すでに、他界。
おれは絶句し、棒立ちとなった。




