03
浅い窪地となった火床に、焚き付けの枯れ草を盛る。
その上に集めた枯れ枝を折り重ね、発火石を打って点火し、やがて枝に火が移ると、白煙が立ち昇った。
焚き火の炎がなじむのを見守りながら、思う。
森の野生が、ことごとく、おれから身を遠ざけたのは、あのラズマーフが原因であったろう。
あれを手放して以降、山が消える不可解は起こっていないことからも、すべてはあの杖の仕業だったと考えられる。
しかし、そうであるならば。
苦い実の生る灌木の藪にあらわれた、あの哺乳動物の反応は。
穢れをふりまく人間を前に、逃げもせず、威嚇もせず。
まるで意に介していない、のんきな雰囲気だった。
今となっては、不自然である。
ぱちん、と木の爆ぜる音に、手に持っていた枯れ枝を折って、火に焼べた。
薄暗い空き地に段々と、明るみが増してゆく。
炎によってではなく、太陽が東に傾きはじめたからであり、ちょうど真正面の鬱蒼たる枝葉の空所に、日輪の下端が晃々と射しかかっていた。
もうしばらくのちの黄昏時が、この場所の一日で、もっともあかるくなる刻限のようだった。
目線を下にずらし、獣が去った森を見やる。
進路である東側の探索は、最後に行うつもりでいた。
だが、なんとなく。
東からはじめよう。
そう思った。
拾い集めた枯れ枝は湿気で燃焼が弱く、かけた銅鍋の水が沸騰した頃には、日がすっかり暮れ落ちた。
炎にいったん目が慣れると、周囲の景色は見境のつかぬ闇一色に沈む。
静かになった野鳥たちの宿り木も、寝言のような間々の囀りによってその存在を感じるばかりとなった。
ひっそりとした宵の森に、虫の声が集く。
苔の塩茹でを食べた。
とりたてて、賛美する点は見つからない。
ただ、腹はふくれた。
明日からの行動にそなえ、今晩は早々に休もうと思いながら、ぼんやりするうち、いつのまにか寝てしまい、気づくと焚き火の火が消えていた。
辺りはまるで墨を流したように真っ暗で、手探りでどうにか天幕に入り、寝袋にくるまった。
夜の底に、忍び寄るような物音を微かに聞いた。
まずいなと思いつつも、そのまま眠りに吸い込まれた。
茫漠とした意識の中に、声が響く。
――それは、いったい、なんだ?
女の声だった。
いや、少女の声だった。
はっとして、目を見ひらいた。
すると。
おれは、森の中に立っていた。
背嚢を背負い、左手に自作の杖を握っていた。
朝靄のような、薄白い霞み漂う森だった。
地形の様子から、樹海のようだったが、拠点を発った記憶はない。
というより、まだ、探索は始めていない。
それを控え、眠りに就いた。
「おれは今、寝ているはず」
気づいて、これは夢だと自覚した。
夢の森を見渡すも、声のあるじの姿は、どこにもない。
けれど、気配は感じる。
すぐ近く。
どうやら少女は、目の前にいるようだ。
――おまえ、なにを持ってる。
無遠慮な、幼い声に重ねて問われ、おれは苦笑した。
左手に持つ、不恰好な手ごしらえの長杖を見る。
「一応、これは杖なんだ。自分で削ったものだから、ご覧のとおりの出来映えだがね」
答えると、少女が吐き捨てた。
――そんな木端のことではないわ。おまえが背負っている、茶色の小袋だ。
ずしりと、肩に感じる重み。
革製の巾着袋。
だしぬけに核心を突かれ、おれは息をのんだ。
「どうして。それを」
――まったく邪気がない。なにも感じない。なれど、とてつもなく強い。それがおそろしい。
「わかるのか?」
――わからないから聞いている。なにを持っているのだ。
苛立った口調で少女が問う。
思わず、うつ向いて、言葉をこぼした。
「おれにも、わからん。それを知るために、来たんだよ」
しばしの沈黙ののち、少女が告げた。
――森は、おまえを好まない。
言われ、おれは頷いた。
――おまえの来訪は、歓迎されていない。
「だろうな」
意を決し、顔をあげた。
「もっともだ。承知のうえだ。それでも、わたしは、知りたい」
すると少女が、ふん、と嘲笑するように鼻息を吹いた。
――進むか退くか。もはや枝道は無し。愚かな、綱渡りの果てや、いかに。
ざざっと地面を擦るような音がした。
――旅人よ。おまえの純粋な心、その金色の魂に免じ、案内する。
「案内?」
――ついて来い。
「待ってくれ。ついて行こうにも、わたしには、あなたの姿が」
――言わずもがなを。
「え」
――現身の眼をひらけ。己が身を起こせ。
そうだった。
これは、やはり夢なのだ。
と、言うことは、この少女は、いったい。
――目醒めよ。
おれは両目を閉じた。
睡眠状態を意識的に終える、という経験は、初めてだった。
ゆえにか身体はやたらと重く、しばらくそのまま微睡んだ。
それからゆっくりと、まぶたをひらいた。
暗い天幕の内に、微かに光りがにじんでいた。
夜明けを告げているような、甲高い野鳥の鳴き声が耳に届く。
そして、頭頂に位置する布扉の、外に。
気配があった。
草地で足踏みするような、物音が。
夢の森にあらわれた少女とたちまち結びつき、おれは完全に覚醒した。
まだ幾分、身体が重かったが、なんとか寝袋から脱し、躊躇なく、布扉をめくりあげた。
仄暗い、烟る靄の彼方に見えたのは。
四つ脚だった。
黒光りのする円らな瞳が、おれをじっと見つめていた。
唖然とし、固まった身をようやく動かす。
天幕から這って出て、立ちあがり、周囲を見渡した。
霧がかり、薄暗がりに染みていく、明らみはじめた払暁が、そこにあった。
だが、少女らしき人影は、見当たらない。
ただ、目の前に、獣が一頭、在るだけだった。
これでおそらくは、三度目の遭遇となる。
そこにいたのは、まぎれもない。
鹿だか山羊だかの、あの哺乳動物だった。
「おまえ、なのか?」
動物の個体差は素人目に、よほど個性的な特徴でもないかぎり見分けはつかないが。
今、相対する存在と、昼間この場にあらわれた存在そして、森の門前にあらわれた存在は、同一の個体。
違いないと思った。
「あの女の子の声。おまえなんだな?」
信じ難くも問いかけながら、一歩、踏み込むと。
一歩、獣はあとずさり、片耳をぶるんとふるわせた。
返事はなかったが、しかし、それ以上は離れない。
近づくことも、遠ざかることも、望んでいない様子だった。
その素振りは、夢の森に響いた声のぬしが誰であるかの、答えのように感じられた。
どうやらおれは、夢を介して、獣と会話をしたようだ。
魔法使いの中には動物の意思を感受するちからを持つ者がいると、聞いたことはあったが。
よもや常人のおれが、似たような体験をしようとは。
驚いたが、とても驚いていたが、特段の動揺も混乱もなかった。
冷静だった。
奇異な出来事に、慣れてきているのかもしれない。
問題はそれよりも、彼が――いや、彼女が、おれに告げた言葉だった。
案内する。
会話を思い返してみるが、主語が明確でない。
どこへ導くつもりで言ったのか。
しかし、茶色い小袋。
おれの核心をまともに突いた。
脈絡から推察すれば、魔法使いの居どころを指していると捉えてよいように思えるが。
そうであるなら、願ってもない申し出だが。
迷いがあり、腹を決めかねていると、ふんと獣が鼻息を吹いて、どんと地べたを蹄で叩いた。
人の夢で、人の言葉で、人と疎通するちから。
ただ者ではない。
言葉遣いに感じたのは、感情よりも、理性だった。
孤高の気概をまとうような、凛然たるその立ち姿。
夢に聞いた少女の声音は、頑是ないようでありながら、威厳の響しがあった。
精神性に深みが窺えた。
正体はわからないが、存在としての優劣に、獣も人もない。
信ずるに価する者かどうか、天秤皿に載ったのは、自分のほうである。
おれは天幕にとび込んだ。
しばらく腰を据えるつもりでいたので、勝手よく並べていた荷物を大急ぎで背嚢に詰め込む。
まとった外套の懐から引きだした手には、革製の巾着袋。
それをふたたび押し込んで、外に出ると彼女の姿は、大木の傍らに移っていた。
北の方角に向けた前脚で地団駄を踏みながら、振り返るようにしてこちらを窺っている。
もたもたするな。
言われたような気がし、乱暴に折りたたんだ天幕を小脇にかかえ、火床にかけたままであった銅鍋をひっつかんで、駆け寄った。
すると彼女が、もたげた前脚を、踏み出した。
忘れ物はないかと、空き地をまわし見る。
天幕を吊っていた木立のそばに、みすぼらしい棒切れが転がっていた。
自作の長杖だった。
あわてて取って返す。
太い幹の横を通りしな、ふと足をとめ、向きなおった。
神木――だったかもしれない巨樹に、低頭し、心で辞去を告げるとおれは、彼女のあとを追った。




