02
急いで天幕をたたむと、自作の杖を段上に放り投げ、背嚢を背負い、壁にとりついた。
一挙手一投足に注意を配って慎重に這いあがる。
どうにかこうにかよじ登り、杖を拾って林床を突っつきながら巨大な影にとっとと近づく。
やがてたどり着いたその場所で、うつ向けていた視線が、上向いた。
大地をがっちりと咬んだ根方から、真上にまっすぐ伸びあがる幹周りは、目算でも五メートルはくだらない。
まるで天蓋のように蒼々と葉を繁らせる樹冠も、いちばん低い枝分かれが頭上およそ十メートルの彼方にあり、全貌はもはや窺い知れなかった。
一帯の木々を睥睨するかのようなその姿は、樹海の主然とした風格で、おれはとにかく圧倒された。
神木。
言葉が頭にひらりと浮かぶ。
それは、神の依代となった樹木のこと。
この天下に在って、天上に架かる尊樹である。
人は、安易に触れるなかれ。
神と人との気位の格差に、やられてしまう。
以前に魔法使いから聞いた話しが思い出され、その神木であるかも知れない巨樹を前に、おのずと頭が垂れた。
木肌を観察してみると、樹種はどうやら山麓の森を構成する常緑樹と同一のようだった。
どうしてこの一本だけ、これほどの成長を遂げたのか。
神様が宿ったからか、それともご先祖の仕掛けた趣向であろうか。
わからないが、しかしそのお陰で、拠点が定まった。
傘のように拡がった枝葉によって多時日陰となるそのたもとには、木が育っておらず、雑草の生い繁る空き地になっていた。
辺りはゆえに薄暗かったが、同心円状の鬱蒼とした枝葉と、その外縁に並び立つ森の林冠とが錯綜する間隙に、ひろびろと空が覗いていて、北側には荒々しい山肌が間近にあった。
焚き火をするにも充分な広さであり、土壌の黒土を少し掘ってみると茶色い赭土の層が出た。
おびただしい野鳥の糞にさえ目をつむれば、申しぶんのない場所であった。
背嚢をおろし、角灯に火を入れた。
灯りを提げ持って、大木のぐるりを歩いてまわる。
やはりこの木は目立つのだろう。
野鳥の高鳴きが、引きも切らずに聞こえてくる。
鳥類の排泄物は臭いが強くないのが救いだった。
地形の状態を調べながら、同時に人跡も探す。
この頭抜けた存在感である。
樹海に住まう魔法使いが、気づかない、知らないわけがないと思った。
立ち寄っている過去が、場に残されているのではと考えたのだが。
おぼしい痕跡は、どこにも見いだせなかった。
おれは一握の干乾し大豆を、巨木に献じた。
根方に膝を突き、瞑目する。
そうして心で、しばしの滞在の許しを乞うた。
その瞬間だった。
唸るような風音が頭上に迫り、ひるんで目を見ひらくと、野鳥の大群が一斉に舞い降りて、あっという間にとりかこまれた。
少なく見積もっても三百はおり、捧げたばかりのわずかの大豆を、競って啄みはじめる。
その争奪からあぶれた大勢が、てんでに周りをうろつきながら、物欲しげにちらちらと、おれを見る。
空き地にぽつんと孤立していた小ぶりの木――と言ってもそれが標準の寸法なのだが、膝下にかしづくようなその木のたもとに天幕を張った。
さっそく、火床の造成にとりかかる。
あきらめきれないような数羽の居残りに謝りながら、二時間ほどを費やして、雑草のはびこる一画の黒土を掘りひろげた。
森の土壌の表層にあらわれる黒土は、堆積した落ち葉が腐熟して土状になったものであり、可燃性である。
よって黒土ごと除草し、下地である赭土の層を剥き出しにした。
ひと休みしたのち、空にした背嚢を持って、燃料を集めに森に入った。
途中、水の跳ねる音が微かに耳に届いて、期待しながら近づくと、それは谷底の水溜まりの池で、小鳥の群れがはしゃぐように水浴びをする音だった。
ともあれ、水場も見つけた。
その辺りに繁殖していた苔は肉厚で艶があり、足元に注意しながら少し採る。
二袋用意した干乾し大豆の底がそろそろ見えはじめていたので、栄養源の節約のためである。
苔類には総じて毒がなく、ここでは無尽蔵に手に入る。
銅鍋で湯がいて、塩飴で味つけをすれば、食べられないことはないだろう。
思いながら、枯れ枝のつまった背嚢を背負った。
森に踏み入ってすぐの頃、林床にひろがる貴重な蘚苔植物を目にして採取の衝動に駆られたが、今ではもはや腹を満たす食料としか見ていない自分にも苦笑いだった。
耳を澄ますまでもなく、かまびすしい野鳥の声。
木々の向こうに、やがて大木の影が覗く。
おれはぴたり、足をとめた。
視界に入った太い幹の裏側で、物影が動いた。
ように見えたのだ。
太陽は中天にさしかかり、空き地は一層に暗かった。
木陰に身を隠し、目を凝らす。
すると今度ははっきりと、奥から黒い影がちらりと出た。
間違いない。
なにかいる。
右手をゆっくりと、左腰に当てた。
まずもって、獣であろうとは思う。
いまだ遭遇していないが、肉食動物の可能性もあり、油断はならない。
短剣の柄を、握りかけた、その時。
大木の彼方から、影がぬうっと姿をあらわした。
吐息が漏れた。
認めたのは、やはり、四つ脚だった。
中型の哺乳動物。
だが――。
すらりとした長い脚。
円錐形をした鋭い二本の角。
暗がりに映える胸元の、白髯と見まがう白い長毛。
年古た幹の傍らに、体躯を曝した、その立ち姿。
見憶えがあった。
山麓の森に踏み込む直前、藪にあらわれた鹿だか山羊だかの哺乳動物の、それだった。
おれは目をしばたたいた。
よもや同じ個体ではあるまいが。
同種であるのは疑いない。
神寂びる巨樹の木下闇。
凜として、こちらに瞳を向けている。
たたずまいに迷いがなく、視線が合ったと直感した。
すでに、ばれている。
気づいてなお、隠れている自分がなんだか滑稽に思え、わが身を曝す番かと考えたが、出方に逡巡しているうちに、不意に向こうが、すっと身をひるがえした。
そうして、堂々たる並足で、森の東へ去って行った。




