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噤みの森(つぐみのもり)  作者: べにさし
神さびる庭
13/205

01

 樹海と呼ばれてはいるにせよ、裾野の森林地帯に明確な区切りはなく、その様相は西側と大差なかろうと考えていた。

 大間違いだった。

 そろそろ山麓の南に入ったはずだと思えた頃、まもなく気づいたのは、地勢の変化だった。

 常緑樹の過密に立ち並ぶ、苔のはびこる森の底が、大きくうねりはじめたのだった。

 それはまさに、森の別名の字義(じぎ)どおり。

 高波のつらなる海原(うなばら)のごとく、南麓の大地は、荒々しい様相を呈していたのだった。


 あるいはそれこそが、この地域を樹海と言わしめた由縁であって、魔法使いの噂は関係なかったのかもしれない。

 あちらこちらにホーキ川の岸壁に見られたような黒い岩盤の露出があり、それらがだしぬけに傾斜角四十五度以上の壁となって立ちはだかったりする。

 逆も然りで、急にあらわれる(くだ)り坂に、何度も肝を冷やした。

 西側一帯も浮き沈みはあったが、ここまで酷くはなかった。

 鮮やかな黄緑の不気味にひろがる林床(りんしょう)で、頻繁に迂回と昇降を強いられた。

 油断がならないだけでなく、起伏に従って身体が大きく揺さぶられるので、方向感覚も狂いやすく、まったくもって閉口した。

 しかしながら。

 土地の高低差そのものが、心強い道連れを、おれにもたらしてくれていた。

 陽光である。

 植生(しょくせい)はこれまでとほとんど変わりなかったが、大地の激しい起伏が樹高(じゅこう)を不揃いにしているため、林冠(りんかん)()()いていたのだ。

 南麓の森には、わずかながら、空が覗いていた。

 充分な明度とは言えないまでも、視界の確保に問題のない程度には、保たれていたのだった。

 またその点は、方位の確認にも好都合であった。

 心配していた山の喪失は今のところ杞憂であり、森の天窓の位置によっては、目前に迫る山肌の褐色が見えた。

 そのわずかの空隙(くうげき)にホズ・レインジを見失わぬかぎり、木登りはしないで済みそうだった。

 それらによって、地形の難儀はおおむね、帳消しとなった。




 ついに、樹海に到達した。

 (たかぶ)っていた気分はすでに疲労で消沈していたが、この森のどこかに、わが尋ね人が在るはずであった。

 なんの保証もない、われながら無謀なその思いだけが、重くなった両足を、前へ前へと運んでいた。


 先生が、息を引きとられる、前日だった。


(マテワト。よく聞きなさい)


 長らくの病床で、たどたどしく、申された。


(難事に際して、不明が生じたならば、ホズ・レインジへ向かえ。遥か、ネルテサスに聳える山だ)


 部屋には、先生とおれ以外には、いなかった。


(裾野の南は、樹海と呼ばれる森。そこに、賢者を訪ねよ。魔法使い。名は、ルイメレク)


 唐突だった。

 まごつきながら、その人物についてすぐにお訊ねしたのだったが、しかし先生ご自身も、どう答えたらよいのやらといったご様子で、ただ、おれの目をまっすぐに見据え、頷かれただけだった。

 他言無用と、念を押されたようなその眼差しに、魔法使いを通じて真意を問いかけることは、(はばか)られた。


 十三年が経っていた。

 お言葉を受けてから。

 当時、先生とご昵懇(じっこん)であった方々に、先生の過去を訊ねてまわったが、裏打ちする情報は得られなかった。

 結局、なに一つ知れぬまま、十三年。

 素性もなにもわからない、生死すらも定かでない魔法使いの名を、求めて。

 二か月前。

 おれは故郷を旅立ったのだった。




 記憶の断片が、日常の隙間に見え隠れするたび、金縛りにかかったように、固まった。

 ()れ果てたはずだった。

 涙が、とめどなく流れ、白々(しらじら)しくなった世界の片隅で、呆然と立ち尽くす日々。


 すでに自分でも、感づいていた。

 おのれの心が、正気でないことを。

 あの日から、おれは心の置きどころを、失っていた。

 (うつ)ろなその心が、あるいは居場所を求めて。

 遺言とも言える先生のお言葉に、すがりついただけなのかもしれない。


 それでも、信じていたことだけは確かだ。

 誰でもない、恩師が告げた言葉だった。

 樹海に住まう魔法使いと、どのようなつながりを持たれていたのかは、ついぞわからずじまいであったが、泰斗(たいと)である大人物が、賢者と評した相手ならば。

 答えてくれる。

 信じて、遠くネルテサスの地を踏んだ。

 そこで初めて、森の噂に触れたときは、思わず、天を仰いだ。

 ルイメレクは実在する。

 おれは確信していた。


 問題は、その住所を、いかにして見いだすかだった。

 初めて立ち入る森の中で、特定の場所を探し当てる困難は、容易に想像がつく。

 自力では見つけられない確率が高かった。

 となれば、見つけてもらう確率のほうを高めるしかない。

 浅知恵であり、はた迷惑は重々承知だった。

 おれは竹笛を持参した。

 楽器ではなく、一つの音階しか鳴らない、耳障りな小型の笛である。


 森の野生は、賑やかなままだった。

 たまに見かける獣の死骸に捕食の(あと)はなく、それは肉食動物の縄張りが遠いことを意味したが、あくまで遠いだけであろう。

 彼らの注意を引く確率も同時に高めてしまうが、この場においてはやむを得ない。

 魔法使いの耳に、早々に笛の()が届くことを、祈るしかない。


 もとより約束のない訪問だった。

 玄関の前に立つこと叶わないとなれば、そのまま樹海を東に抜けるだけだった。

 山麓の東側にひろがる森の先は、ポトス湖に接する険峻なパガン台地。

 その岸際(きしぎわ)にビルヴァという名の農村があり、そこからさらに北東に進むと、メイバドルの町がある。

 今では多くの人口密集地域が点在するこの地方で、もっとも古い歴史をもつ宿場町だった。

 聞くところでは、町の中心に巨大な塔が建っていて、その塔を(かなめ)に、家並みの沿う街路が、(おうぎ)骨子(こっし)のように、放射状に延びているのだという。

 すなわち、町全体が、日時計の構造になっていると。

 独特なその町割りによって世界的に知られた文化名所でもあり、買った観光地図にも案内が書かれてあった。

 一度、この目で見てからと、思っていた町であった。




 先行きをぼんやりと照らしていた木間(このま)の光りが見えなくなると、急に辺りが暗くなった。

 樹海に入って二日目の太陽が沈みはじめていた。


 そろそろ深部に踏み込んでいるはずであり、さしあたっての目標は、探索の拠点となる場所だった。

 短くとも十日は滞在する心算で、適した環境が望まれた。

 焚き火をしたいので、それなりにひらけた空間を要する。

 密林で火を(おこ)すのは危険極まりなく、これまで避けていたのだが、長時日(ちょうじじつ)、天幕を固定していると獣に気づかれやすくなる。

 迷子になったときのためにも夜間の炎は欲しかった。

 さらに理想は、沢の近くであったが今のところ、それらしい水音は聞いていない。

 ただ、あちらこちらの谷の底に雨水の溜まりがあり、森の様子からして妥協するのは水場になりそうだった。


 足場の悪い、長い坂をようやく登りきったところで、またもや黒い岩盤の壁にぶち当たった。

 絶壁ではなかったが、急角度で五メートルはある。

 左右を見渡してもまわり込めそうな地形はなく、ため息がこぼれた。

 裾野の所々(しょしょ)で露出しているこれらの岩盤は、熔岩ではないかと思う。

 積年の風化によって岩肌は卸器(おろしき)のようにごつごつとしており、(くぼ)みに目を凝らして見るとわずかながら赤黒く、なんらかの金属成分の酸化が認められた。

 その様相は、メルスデュール地方の隕石孔(いんせきこう)から採取された、火成岩と推定される鉱物標本に酷似していた。

 真偽はどうあれ、間違いがないのは、踏みはずしたら擦り傷だらけになる。

 それでも登るほかないのだが、時刻と体力を考慮し、今晩は壁の下に天幕を張ることにした。

 くたびれた足を投げだしたとたん、食事を摂るまもなく、気絶するように眠りに落ちた。




 朝陽にほんのりと(あか)らみはじめた壁の前で、残り少なくなった干乾し大豆を口に運びながら、手がかり足がかりの段取りをあれこれ考えていた時だった。

 不意に、岩盤の上に続く森の一画から、野鳥の群れの(さえず)りが聞こえた。

 あとずさって壁から離れ、森の先をつくづくと観察すると、盛んな声のする方向に、ひときわ大きな(かげ)りが覗いているのに気づいた。

 垣間見えるその影は、木々の合間を垂直に高々と伸びていた。

 どうやら、大木(たいぼく)の幹のようである。

 それも、(けた)はずれの巨木(きょぼく)

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