03
がばりとおれはとび起きた。
天幕の内に、籠る夜。
なんだ、今のは。
悪夢のような闇を、一閃につらぬくような、心象のような光。
辺りを窺った。
森に漂う雰囲気に、変わりはなかった。
ただ、寝袋の周りをうろついていた小さなお客さんの気配は、消えていた。
どうやら、眠っていたようだが。
夢――だったのか。
その時、思い出した。
「違う。この森の声ではない」
あの声。
あの堅牢な水門の上。
そこでもおれは、妙な声を聞いている。
ホーキ川にかかる橋が見え、自分の姿を見られたのかと、あわててその場を離れた。
山麓の森に、立ち入る前から。
「声が、あった」
精霊の声かと、あれこれ想像を膨らませてしまったが、おそらく森は関係ない。
少なくとも、あの声の出どころ――。
(その杖は、首を刎ねられているぞ。願立てに使われたのだ。呪詛のな)
用水路の橋の上。
通りすがりの魔法使いが告げた言葉。
「ラズマーフ」
搾り出すように、こぼれた。
あれ、か?
妙な声の正体は。
山の認知の不可解も、あれが原因?
(杖としてはな。確かに、上物だ。それでも、手放されたほうがよろしい。それがまとう悪意の残滓は、あなたの旅路の禍根となろう)
見失っていたホズ・レインジの姿が、ようやく視界にあらわれた時。
おれの手から、ラズマーフは、失せていた。
いっかな見つからなかった森の野生が、だしぬけに姿を見せはじめたのも。
「あれを失った、直後だ」
鳥獣たちのふるまい。
それこそが、あの杖に。
なんらかの濃度勾配があった証左と言えないか。
邪気のようなものを、放散していたのだと。
森の動物たちは、それを鋭敏に感知した。
清潔な森の空気が、穢されていくその様を。
不浄をふりまく人間から、逃げた。
おれは唸って、うずくまった。
なんで気づかないんだ。
こんなわかりやすい符合に。
なによりも真っ先に、疑うべき胡乱な杖を手にしていながら。
完全に思考の外に置いてしまうとは。
(なにもあなたが、それに引きずられることはない。あなたには、あなたの進むべき道がある)
おれの手が、杖を操っていたのでは、なかった。
杖が、おれの手を、引っ張っていた。
右手に握った無頭の龍。
あの妙な声は、杖の邪念が、おれを誘い込む声だったか。
死の潜む、この場所へ。
森の蜘蛛手に迷うよう、座標推定の対象物を。
おれの認知を狂わせた。
森の作為かと想像した、手段と結果は同じでも、その意思は真逆だ。
森が導く死は善意だが、杖が導く死は悪意である。
何者かが仮託した、おぞましい害意の残り滓が、持ち主であるおれを、殺そうと――。
「持ち主?」
ごくり、生唾をのみ込んだ。
呪詛のために、首を刈られた、杖。
そんな代物が、流れに流れ、小さな宿屋の暖簾掛けになっていた。
機縁がなければ、あのままずっと、垂布をぶらさげていたに違いない、剣呑な杖を。
おれは持ち出した。
あの宿から。
いや。
持ち主だった女性から、引き離した。
(ありがとうよ、フロリダスさん)
ぶわっと全身が粟立った。
痛みが突くほどの鳥肌に、思わず二の腕をさする。
まさか。
万事に窮したおれを救った、あの男は。
(これで、貸し借り無しだぜ)
立派な体躯の丈夫だった。
嗄れた声だった。
脱臼の整復が、手慣れた動きだった。
もしかして、あの男。
まさか。
「アデルモの――ご主人?」
甲板の上では、おのずと膂力が養われる。
操帆操舵の合図を大声でかけ合うから、のどの潰れている者が多い。
怪我を負いやすい職場であり、医学知識も多少なりと、学んでいる。
彼女の夫は、元、船乗り。
(でも、主人はもういないのよ。三年前に病気でね)
頭をかかえた。
死の期限を迎えた人間は、天下の物具たる肉体から離れ、存在の根源である魂に回帰する。
その状態で、天下を罷り出ることなく、留まり在るのが、いわゆる、幽霊である。
しばらくおれは、懊悩した。
葬儀の場に立ち会うのは、僧侶ではなく、魔法使いだった。
教養ならびに通念として、超自然的存在の実存を受け入れているため、先史人類の歴史に散見する意味合いでの宗教は存在しない。
彼の世界に頻々と勃興した宗教組織は、超自然的存在の科学的証明以後、次第に形骸化し、教祖なる人種は立つ瀬を失い宗教は篩にかけられ、骨格のごとく残った倫理や道徳を説く概念が、われわれの社会にも引き継がれたのみであった。
魔法使いがその社会で、葬儀に呼ばれる理由は、超自然的存在を認識する彼らの異能によってであり、遺族は魔法使いを介して惜別に臨んだ心を安んじ、場合によっては死者の姿を目にすることも叶ったが、不可能事もあった。
すでに肉体を離れている死者と、生前のように触れ合うことである。
そうなのだ。
どれだけ、この手をのばしても、それだけは。
それだけは叶わなかった。
小刻みに震え、汗ばんだ左の手のひらを、握りしめる。
男が、さしのべた手を、つかんだ。
確かにつかんだ。
つかんだから、おれは今、こうしているのだ。
しっかりと手応えもあった。
男手の力強い、皮膚の固い手であった。
さらに男は、おれの右肩にも触れた。
触診し、はずれていた関節を、入れている。
どう考えても、あの男は、肉体を持っていた。
生身の人間が、そこにいたのだ。
しかし。
心臓が早鐘を打つ。
「足あとが、なかった」
貸し借り無しの意味も。
ありがとうと感謝の言葉を口にした理由も。
アデルモに寄り添っていたのなら、泊客の名前は、容易に知り得たはずだ。
暖簾掛けの素性が、妻を残して逝った男の頸木となった。
充分に頷ける。
ただ一点の不可解を除いて。
幽霊との握手など、成立しない。
天幕のすぐ近くに動物のうろつく気配があった。
なにが興味を示しているのか、わからないが、林床を踏んでいる微かな足音は、四足の拍子を刻んでいた。
ゆっくりと、呼吸する。
状況は男の正体が、アデルモの亡夫であり、幽霊であった可能性を濃く示していた。
その解釈で、出現の謎と足あとの欠落が、合理的に落着する。
だが、経験的に、その解釈をすんなりと現実に落とし込むことができない。
物質の肉体を持たぬ死んだ人間と、物質の肉体を持つ生きた人間とが、物理的に干渉し合う。
そんなことが、起こり得るのか。
さすがにそれは、合理的とは言えない。
その点だけは、理解できない。
耳をそばだてながら、指先で短剣を探った。
自分が今、全裸であることを思った。
鞘をつかみ、獣の好奇心が旺盛でないことを、静かに願う。
すると気配は、まもなく、遠ざかり。
やがて消えた。
短剣から手を離す。
おれは思わず苦笑した。
納得のいく答えに、たどりつけない。
そもそも、たどりつく必要が、あるのか。
立ち去った存在感の余韻に、そんな言葉を、聞いたような気がしたのだった。
「おまえの言うとおりだ」
ぼそり、呟いて、張った身体を横たえた。
まぶたを閉じた。
森を歩いていたフロリダスの往生際に、男があらわれた。
男は去り、フロリダスはそして生きていて、ふたたび森を歩きはじめる。
それだけの話しだな。
納得しようがしまいが、そこに意味は、もはやない。
高鳴っていた鼓動が徐々に、鳴りをひそめていく。
ただ、感謝する。
それがおそらく重要で、それ以外には、なにもない。
森の墓場を離れて、四日が経った。
山麓の森に踏み入ってからの勘定だと、九日目。
記憶が一時、飛んでいるので推定でしかないが、考慮してもあの気絶は数時間であったろう。
日をまたいではいないはずだ。
翌朝に少し発熱を感じたこともあり、半日ほど場にとどまったが、あらわれたのは動物たちだけだった。
体調を崩しかけたものの、今ではもちなおした。
足取りは重かった。
左手が把握する、手作りの不格好な長杖は、南麓の大地を突いていた。
ホーキ川から汲んだ最後の水を、背嚢にぶらさげて。
進みゆくその森は、樹海だった。




