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噤みの森(つぐみのもり)  作者: べにさし
非合理な手
12/205

03

 がばりとおれはとび起きた。


 天幕の内に、(こも)る夜。

 なんだ、今のは。

 悪夢のような闇を、一閃(いっせん)につらぬくような、心象のような光。

 辺りを窺った。

 森に漂う雰囲気に、変わりはなかった。

 ただ、寝袋の周りをうろついていた小さなお客さんの気配は、消えていた。

 どうやら、眠っていたようだが。

 夢――だったのか。


 その時、思い出した。


「違う。この森の声ではない」


 あの声。

 あの堅牢な水門の上。

 そこでもおれは、妙な声を聞いている。

 ホーキ川にかかる橋が見え、自分の姿を見られたのかと、あわててその場を離れた。

 山麓の森に、立ち入る前から。


「声が、あった」


 精霊の声かと、あれこれ想像を膨らませてしまったが、おそらく森は関係ない。

 少なくとも、あの声の出どころ――。


(その杖は、首を()ねられているぞ。願立(がんだ)てに使われたのだ。呪詛(じゅそ)のな)


 用水路の橋の上。

 通りすがりの魔法使いが告げた言葉。


「ラズマーフ」


 (しぼ)り出すように、こぼれた。


 あれ、か?

 妙な声の正体は。

 山の認知の不可解も、あれが原因?


(杖としてはな。確かに、上物(じょうもの)だ。それでも、手放されたほうがよろしい。それがまとう悪意の残滓(ざんし)は、あなたの旅路の禍根となろう)


 見失っていたホズ・レインジの姿が、ようやく視界にあらわれた時。

 おれの手から、ラズマーフは、()せていた。

 いっかな見つからなかった森の野生が、だしぬけに姿を見せはじめたのも。


「あれを失った、直後だ」


 鳥獣たちのふるまい。

 それこそが、あの杖に。

 なんらかの濃度勾配があった証左(しょうさ)と言えないか。

 邪気のようなものを、放散していたのだと。

 森の動物たちは、それを鋭敏に感知した。

 清潔な森の空気が、(けが)されていくその様を。

 不浄をふりまく人間から、逃げた。


 おれは唸って、うずくまった。


 なんで気づかないんだ。

 こんなわかりやすい符合に。

 なによりも真っ先に、疑うべき胡乱(うろん)な杖を手にしていながら。

 完全に思考の外に置いてしまうとは。


(なにもあなたが、それに引きずられることはない。あなたには、あなたの進むべき道がある)


 おれの手が、杖を操っていたのでは、なかった。

 杖が、おれの手を、引っ張っていた。

 右手に握った無頭の龍。

 あの妙な声は、杖の邪念が、おれを誘い込む声だったか。

 死の(ひそ)む、この場所へ。

 森の蜘蛛手(くもで)に迷うよう、座標推定の対象物を。

 おれの認知を狂わせた。

 森の作為かと想像した、手段と結果は同じでも、その意思は真逆だ。

 森が導く死は善意だが、杖が導く死は悪意である。

 何者かが仮託(かたく)した、おぞましい害意の残り(かす)が、持ち主であるおれを、殺そうと――。


「持ち主?」


 ごくり、生唾をのみ込んだ。


 呪詛のために、首を刈られた、杖。

 そんな代物が、流れに流れ、小さな宿屋の暖簾掛けになっていた。

 機縁(きえん)がなければ、あのままずっと、垂布(たれぎぬ)をぶらさげていたに違いない、剣呑(けんのん)な杖を。

 おれは持ち出した。

 あの宿から。

 いや。

 持ち主だった女性から、引き離した。


(ありがとうよ、フロリダスさん)


 ぶわっと全身が粟立った。

 痛みが突くほどの鳥肌に、思わず二の腕をさする。


 まさか。

 万事(ばんじ)(きゅう)したおれを救った、あの男は。


(これで、貸し借り無しだぜ)


 立派な体躯の丈夫(じょうぶ)だった。

 ()れた声だった。

 脱臼の整復が、手慣れた動きだった。

 もしかして、あの男。

 まさか。


「アデルモの――ご主人?」


 甲板の上では、おのずと膂力(りょりょく)が養われる。

 操帆(そうはん)操舵(そうだ)の合図を大声でかけ合うから、のどの潰れている者が多い。

 怪我を負いやすい職場であり、医学知識も多少なりと、学んでいる。


 彼女の夫は、元、船乗り。


(でも、主人はもういないのよ。三年前に病気でね)


 頭をかかえた。


 死の期限を迎えた人間は、天下の物具(もののぐ)たる肉体から離れ、存在の根源である魂に回帰する。

 その状態で、天下を(まか)り出ることなく、(とど)まり在るのが、いわゆる、幽霊である。


 しばらくおれは、懊悩(おうのう)した。


 葬儀の場に立ち会うのは、僧侶ではなく、魔法使いだった。

 教養ならびに通念として、超自然的存在の実存を受け入れているため、先史人類の歴史に散見する意味合いでの宗教は存在しない。

 ()の世界に頻々(ひんぴん)と勃興した宗教組織は、超自然的存在の科学的証明以後、次第に形骸化し、教祖なる人種は立つ瀬を失い宗教は(ふるい)にかけられ、骨格のごとく残った倫理や道徳を説く概念が、われわれの社会にも引き継がれたのみであった。

 魔法使いがその社会で、葬儀に呼ばれる理由は、超自然的存在を認識する彼らの異能によってであり、遺族は魔法使いを介して惜別(せきべつ)(のぞ)んだ心を安んじ、場合によっては死者の姿を目にすることも叶ったが、不可能事もあった。

 すでに肉体を離れている死者と、生前のように触れ合うことである。


 そうなのだ。

 どれだけ、この手をのばしても、それだけは。

 それだけは叶わなかった。


 小刻みに震え、汗ばんだ左の手のひらを、握りしめる。


 男が、さしのべた手を、つかんだ。

 確かにつかんだ。

 つかんだから、おれは今、こうしているのだ。

 しっかりと手応えもあった。

 男手の力強い、皮膚の固い手であった。

 さらに男は、おれの右肩にも触れた。

 触診し、はずれていた関節を、入れている。

 どう考えても、あの男は、肉体を持っていた。

 生身の人間が、そこにいたのだ。

 しかし。


 心臓が早鐘を打つ。


「足あとが、なかった」


 貸し借り無しの意味も。

 ありがとうと感謝の言葉を口にした理由も。

 アデルモに寄り添っていたのなら、泊客(とまりきゃく)の名前は、容易に知り得たはずだ。

 暖簾掛けの素性が、妻を残して()った男の頸木(くびき)となった。

 充分に頷ける。

 ただ一点の不可解を除いて。


 幽霊との握手など、成立しない。


 天幕のすぐ近くに動物のうろつく気配があった。

 なにが興味を示しているのか、わからないが、林床(りんしょう)を踏んでいる微かな足音は、四足(よんそく)の拍子を刻んでいた。

 ゆっくりと、呼吸する。


 状況は男の正体が、アデルモの亡夫であり、幽霊であった可能性を濃く示していた。

 その解釈で、出現の謎と足あとの欠落が、合理的に落着する。

 だが、経験的に、その解釈をすんなりと現実に落とし込むことができない。

 物質の肉体を持たぬ死んだ人間と、物質の肉体を持つ生きた人間とが、物理的に干渉し合う。

 そんなことが、起こり得るのか。

 さすがにそれは、合理的とは言えない。

 その点だけは、理解できない。


 耳をそばだてながら、指先で短剣を探った。

 自分が今、全裸であることを思った。

 鞘をつかみ、獣の好奇心が旺盛でないことを、静かに願う。

 すると気配は、まもなく、遠ざかり。

 やがて消えた。

 短剣から手を離す。

 おれは思わず苦笑した。


 納得のいく答えに、たどりつけない。

 そもそも、たどりつく必要が、あるのか。


 立ち去った存在感の余韻に、そんな言葉を、聞いたような気がしたのだった。


「おまえの言うとおりだ」


 ぼそり、呟いて、張った身体を横たえた。

 まぶたを閉じた。


 森を歩いていたフロリダスの往生際に、男があらわれた。

 男は去り、フロリダスはそして生きていて、ふたたび森を歩きはじめる。

 それだけの話しだな。

 納得しようがしまいが、そこに意味は、もはやない。


 高鳴っていた鼓動が徐々に、鳴りをひそめていく。


 ただ、感謝する。

 それがおそらく重要で、それ以外には、なにもない。




 森の墓場を離れて、四日が経った。

 山麓の森に踏み入ってからの勘定だと、九日目。

 記憶が一時、飛んでいるので推定でしかないが、考慮してもあの気絶は数時間であったろう。

 日をまたいではいないはずだ。

 翌朝に少し発熱を感じたこともあり、半日ほど場にとどまったが、あらわれたのは動物たちだけだった。

 体調を崩しかけたものの、今ではもちなおした。


 足取りは重かった。

 左手が把握する、手作りの不格好な長杖は、南麓の大地を突いていた。

 ホーキ川から汲んだ最後の水を、背嚢(はいのう)にぶらさげて。

 進みゆくその森は、樹海だった。

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