01
月明かり。
夜道を拾う、ひまわり畑。
朝方も、煉瓦道へ出るまで歩いた路面の荒れた湾岸道路であり、おれのすぐ前を獣車が、がたがた音を発てながらゆっくりと、並足で進んでいた。
夜風に揃って花弁を揺らす向日葵の群れが、微かながらも遠くまで見通せる、あかるい夜であった。
幌付きの荷台に身を置いておよそ半時の帰路だった。
夜空よりも暗くなった大地を車は無灯火で疾駆した。
明かりを点けないのは御者の夜目を保つためで、代わりに注意喚起の鉦が断続的に鳴らされた。
忙しないその響きが止んだのは、つい先刻である。
ビルヴァは、もう目と鼻の先だった。
サリアタ氏は御者台で、夜間の手綱を握ったチャルの話し相手になったまま、たびたび笑い声が耳に届く。
アラム少年は悪路に車輪の跳ねあがる挙動が楽しいらしく、後尾に牽かれる荷台の上で一人わあわあ賑やかだ。
「なにがそんなに面白いのかしら」
おれの隣で、セナ魔法使いが呟いた。
緑の光りは点していず、視野に映る彼女の姿は細身の貫頭衣の輪郭と、横顔の白と風に靡く長い髪。
うっすらと浮かぶその月影だけであった。
わずかにでも意識が隣へ傾いてしまうと、いつまでも去らずに居残るオズカラガス様の言葉に、困った。
ポハンカ・セナは、おれの命の恩人だった。
それ以上でも以下でもなく、そこから先は……。
(ついでに。あなたにも言っておく。わたしは、無理だから。ほかの女を当たってちょうだい)
前もって拒絶されているのだった。
予知のちからをもつという三百年前の魔女は、おれの心に、いったいなにを見たのか。
ご本人は去ったものの、いつまでも去らずに居残る言葉に、困る。
目隠しのお守りが入った小袋は、懐に戻していた。
祠のあるじからの頼まれ事は、氏の耳にも通しておいた。
話したとき、すっと表情がなくなって、思い出したように頷いて、わしからも頼むよと微笑まれた。
深い意味はないのかもしれないが、少し気になった。
やがて前方の夜陰に、ぽつんと灯る明かりが見えた。
うごきがないので、村の門に掛けられた迎火と思う。
みずからの足で、一歩一歩、近づいていく。
もはや、わが足取りに、迷いはない――。
在りし日の先生が、お父上様から聞いた昔話。
そこに登場した魔法使いは、賢者であった。
その誕生に、大きく寄与したと思われる、本棚。
おそらくそれも、当地に足跡を残したご先祖が、残した――いや、隠したものだろう。
ルイメレクは、読み解いた手帳から、本棚の形跡をも知り、その在処を森に探し、辿り着いたに違いない。
未発見の原語文献は、洞窟で見つかった一冊のみではなかった。
本棚に納まる書物群。
それらを読むために、深い古語知識を必要とした。
それらを読むために、樹海に籠った……。
つながったのだった。
そもそもの疑問であった樹海の魔法使いという存在。
人里離れた森の深奥に、魔法使いが居を据えた理由。
魔法使いの弟子が、今なおその森に住まう事の発端。
ロヴリアンスの異端者と推定されるご先祖の一派が、遠くネルテサスの大地に植えつけたのは、秘すべき原本。
そう悟っても、この期に及んでは、冷静だった。
冷静だったが、しかし、もし、それが事実なら。
公文書館が認知していない大量の先史文献の現存。
古今未曾有の事態であった。
おれは、この帰路で、何事にも動じない心構えを整えたつもりだ。
もう間もなく、僻地の村の一室で語られる内容は、先祖学者マテワト・フロリダスを構成するなにかを、破壊するかもしれなかった。
サリアタ氏のこれまでの婉曲的な、慎重な言動が、それを暗示しているように思えてならなかった。
「ご先祖様は、逃げやしないわ」
うつ向きながら冷たく、それでいて温かな声音。
「昨日の今頃よ。里を発ったの。あれから丸一日ずっと動きっぱなし……。お爺ちゃんもお爺ちゃんよ……。二人とも、すごく疲れてる。今日はもう休んだほうがいい」
旧墓地を離れる際に氏が、はたと気づいたようにおれに聞いたのだった。
疲れはどうかと、明日にするかと。
おれも気がついて疲労の具合を訊ね返すと、大丈夫だとの返事に、同じ言葉をお返ししたのだった。
「性分で、だめなんです。わからなければわからないで、あれこれと考えてしまう。どうせ眠れないんです」
応えると、うつ向いたまま、面がこちらへ傾いた。
「わたしが、あなたに、休んでほしいと頼んでも?」
聞いて思わず、吐息がこぼれた。
そんなふうに言われては……。
断れないから、聞きたくなかった。
「フロリダス先生。わたしが、頼んでも?」
詰め寄られた。
この圧力に逆らうのは、無理だ……。
おれは半ば諦めて、本心で答えた。
「わかりました。そういうことならば、話しは別です。セナ様はわたしの命の恩人。その方からの頼みは、わたしのすべてに優先します」
「な、なによ……」
白く映える指先が、自身の前髪に触れるのが見えた。
「そんな言い方、ずるい……」
降るような銀河の煌めきと、輝く月光の下で。
夜の向日葵畑を、足並みを揃え、歩いたこの時。
「もう知らない。気絶するまで起きてなさい」
つっけんどんにそう言って、黙ってしまった。
「あのう。……怒ってます?」
「怒ってない」
月影が、そっぽを向いた。
いつまでも去らずに居残る言葉に、困る。




