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噤みの森(つぐみのもり)  作者: べにさし
ほころびた文献
100/205

01

 月明かり。

 夜道を拾う、ひまわり畑。

 朝方も、煉瓦道れんがみちへ出るまで歩いた路面の荒れた湾岸道路であり、おれのすぐ前を獣車ししぐるまが、がたがた音を発てながらゆっくりと、並足なみあしで進んでいた。

 夜風に揃って花弁を揺らす向日葵ひまわりの群れが、微かながらも遠くまで見通せる、あかるい夜であった。


 幌付きの荷台に身を置いておよそ半時はんときの帰路だった。

 夜空よりも暗くなった大地を車は無灯火で疾駆した。

 明かりをけないのは御者ぎょしゃ夜目よめを保つためで、代わりに注意喚起のかねが断続的に鳴らされた。

 せわしないその響きがんだのは、つい先刻である。

 ビルヴァは、もう目と鼻の先だった。


 サリアタ氏は御者台ぎょしゃだいで、夜間の手綱たづなを握ったチャルの話し相手になったまま、たびたび笑い声が耳に届く。

 アラム少年は悪路に車輪の跳ねあがる挙動が楽しいらしく、後尾にかれる荷台の上で一人わあわあ賑やかだ。


「なにがそんなに面白いのかしら」


 おれの隣で、セナ魔法使いが呟いた。

 緑の光りはともしていず、視野に映る彼女の姿は細身の貫頭衣かんとういの輪郭と、横顔の白と風になびく長い髪。

 うっすらと浮かぶその月影だけであった。


 わずかにでも意識が隣へ傾いてしまうと、いつまでも去らずに居残るオズカラガス様の言葉に、困った。

 ポハンカ・セナは、おれの命の恩人だった。

 それ以上でも以下でもなく、そこから先は……。


(ついでに。あなたにも言っておく。わたしは、無理だから。ほかの女を当たってちょうだい)


 前もって拒絶されているのだった。

 予知のちからをもつという三百年前の魔女は、おれの心に、いったいなにを見たのか。

 ご本人は去ったものの、いつまでも去らずに居残る言葉に、困る。


 目隠しのお守りが入った小袋は、ふところに戻していた。

 ほこらのあるじからの頼まれ事は、氏の耳にも通しておいた。

 話したとき、すっと表情がなくなって、思い出したように頷いて、わしからも頼むよと微笑まれた。

 深い意味はないのかもしれないが、少し気になった。


 やがて前方の夜陰やいんに、ぽつんとともる明かりが見えた。

 うごきがないので、村の門に掛けられた迎火むかえびと思う。

 みずからの足で、一歩一歩、近づいていく。

 もはや、わが足取りに、迷いはない――。


 在りし日の先生が、お父上様から聞いた昔話。

 そこに登場した魔法使いは、賢者であった。

 その誕生に、大きく寄与したと思われる、本棚。

 おそらくそれも、当地に足跡を残したご先祖が、残した――いや、隠したものだろう。

 ルイメレクは、読み解いた手帳から、本棚の形跡をも知り、その在処ありかを森に探し、辿り着いたに違いない。

 未発見の原語文献は、洞窟で見つかった一冊のみではなかった。

 本棚に納まる書物群。

 それらを読むために、深い古語知識を必要とした。

 それらを読むために、樹海にこもった……。


 つながったのだった。

 そもそもの疑問であった樹海の魔法使いという存在。

 人里離れた森の深奥しんおうに、魔法使いが居を据えた理由。

 魔法使いの弟子が、今なおその森に住まう事の発端。

 ロヴリアンスの異端者と推定されるご先祖の一派が、遠くネルテサスの大地に植えつけたのは、秘すべき原本。


 そう悟っても、この期に及んでは、冷静だった。

 冷静だったが、しかし、もし、それが事実なら。

 公文書館が認知していない大量の先史文献の現存。

 古今未曾有ここんみぞうの事態であった。

 おれは、この帰路で、何事にも動じない心構えを整えたつもりだ。

 もうもなく、僻地の村の一室で語られる内容は、先祖学者マテワト・フロリダスを構成するなにかを、破壊するかもしれなかった。

 サリアタ氏のこれまでの婉曲えんきょく的な、慎重な言動が、それを暗示しているように思えてならなかった。


「ご先祖様は、逃げやしないわ」


 うつ向きながら冷たく、それでいて温かな声音こわね


「昨日の今頃よ。里を発ったの。あれから丸一日ずっと動きっぱなし……。お爺ちゃんもお爺ちゃんよ……。二人とも、すごく疲れてる。今日はもう休んだほうがいい」


 旧墓地を離れる際に氏が、はたと気づいたようにおれに聞いたのだった。

 疲れはどうかと、明日にするかと。

 おれも気がついて疲労の具合を訊ね返すと、大丈夫だとの返事に、同じ言葉をお返ししたのだった。


「性分で、だめなんです。わからなければわからないで、あれこれと考えてしまう。どうせ眠れないんです」


 応えると、うつ向いたまま、おもてがこちらへ傾いた。


「わたしが、あなたに、休んでほしいと頼んでも?」


 聞いて思わず、吐息がこぼれた。

 そんなふうに言われては……。

 断れないから、聞きたくなかった。


「フロリダス先生。わたしが、頼んでも?」


 詰め寄られた。

 この圧力に逆らうのは、無理だ……。

 おれはなかば諦めて、本心で答えた。


「わかりました。そういうことならば、話しは別です。セナ様はわたしの命の恩人。その方からの頼みは、わたしのすべてに優先します」


「な、なによ……」


 白く映える指先が、自身の前髪に触れるのが見えた。


「そんな言い方、ずるい……」


 降るような銀河のきらめきと、輝く月光の下で。

 夜の向日葵畑ひまわりばたけを、足並みを揃え、歩いたこの時。


「もう知らない。気絶するまで起きてなさい」


 つっけんどんにそう言って、黙ってしまった。


「あのう。……怒ってます?」


「怒ってない」


 月影が、そっぽを向いた。

 いつまでも去らずに居残る言葉に、困る。

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