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噤みの森(つぐみのもり)  作者: べにさし
非合理な手
10/205

01

(ええ。一致しなかったわ。うちよりも標本数は多かったんだけどね。独立してる)


(長老さん、もうにっこにこなんだから。ご機嫌伺いだなんて言ってわざわざ来るけど、遠まわしの催促よ。あたしに一個くれるんだって。首飾りにしようかな)


(魔性の女の流し目。例えたら、そんな感じかしら。ふふふ、残念ながら。フロリダス先生が、もの好きなだけです。ちょっと、それ、あとで食べようと思ってたのに)


(ご先祖様も(だんま)りか。黙ってないで、そろそろ教えてちょうだい。あなたは、だあれ?)


 深い青空にぶらさがる、逆三角形の右半面が、鮮やかな橙に滲んでいた。

 ひらいた両目に映じたその光景を、おれは曇った意識でただ見つめた。

 頭の芯に、痺れるような感覚があった。

 それがやがて、風に吹かれるように薄れると、徐々に意識が晴れ渡り、おれはあわてて身を起こした。

 起こそうとしたのだが、両肩に抵抗を受けて動けず、右肩に鈍い痛みが走った。

 背嚢(はいのう)を背負ったままだった。

 (うめ)きながら、左手で肩を押さえた。


 まるで森の墓場のような、枝から不気味に苔の(しだ)れる枯木(こぼく)の庭は、(しゃ)が掛かったように、薄桃色に染まっていた。

 その片隅で、おれは独り、寝そべっていた。


 肩紐をはずし、おもむろに上体を起こす。

 右肩だけでなく、(ひじ)(ひざ)、脇腹のあたりにも、打ち身のような痛みがあった。

 腰の左で短剣が、かちゃりと音を発てた。

 顔をゆがめつつ、周囲の木間(このま)を窺った。

 人影はおろか、気配すら、どこにもなかった。


「ルイメレク」


 思わず、呟く。

 そして。

 力なく、(かぶり)を振った。


 真正面。

 少し離れた苔の層が、擂鉢(すりばち)状に(くぼ)んでいた。

 その中心から、わずかに暗黒が覗いている。

 下腹部に悪寒が伝い、ずんと、冷えた。

 自分の身に、いったいなにが、起こったか。

 まぶたを閉じ、大きくゆっくりと、深呼吸をした。


 どう考えても、万死(ばんし)の状況だった。

 こうして無事であるのが、不自然なほどの。


 (おぼろ)な記憶をたどりながら、思う。


 おれは、覚悟した。

 いや、期待した。

 これでやっと、帰れると。

 憩いの日々に、あの日々に。

 ようやく君に、会える――と。


 それでも自分が、生きながらえている実感に、しばし、呆然となった。


 瞳に、いつのまにか溜まっていた涙をぬぐう。

 そうして現実から逃げるように、おれは空を見あげた。


 青天井の一角。

 ホズ・レインジの威容があった。

 求めていた()の山は、雲を散らした群青の空を背に、左半面を(あけ)に染め、兀然(ごつぜん)と聳えていた。

 距離感からして自分がすでに、麓に接近していることは、あきらかだった。

 しかし、時間感覚は飛んで、方位も完全に見失っていた。

 いったいどれだけ、気絶していたのか。

 身体の具合からみて、それほど経ってはいないと思うが。

 山肌に照り映える、あの陽射し。

 朝陽なのか、夕陽なのか。

 それがわかれば、方角の見当はつけられる。

 暫時(ざんじ)、待つとしよう。


 振り返り、背嚢(はいのう)の状態を確かめた。

 ひどく汚れてはいたものの、損傷箇所はなく、中身はすべて、そのままだった。

 隅々をあらためると、袋口の持ち手の裏側に、褐色に乾燥した泥がべっとりとこびりついていた。

 これだと思った。

 この小さな輪が、偶然にも、断崖のなにかに引っかかったのだ。

 墜落をまぬかれたその衝撃で、右肩の関節がはずれた。

 あまりの激痛に、折れたとばかり。

 二メートル程度の落差とは言え、接合部には相当の負荷がかかったはずだが、よくぞ千切れなかったものだ。

 不幸中の幸い、と、言えるか。


 思いながら、泥をこそぎ落としていた指を、とめた。

 左の手のひらを、むすんで、ひらいて、またむすぶ。


 あの時。

 目前にさしのべられた手を、おれは握り返した。

 その肌の感触が――手応えが、まだ左手に残っていた。

 固く、力強い、労働を知る男の手だった。

 顔は、見ていない。

 見事な体格の丈夫(じょうぶ)だった。

 声は低く、()れていた。

 右肩を脱臼と見抜き、手際よく入れてくれた。

 あの男。


 深々と、ため息をついた。


 死の淵に立ち至ったおれを、ふたたび森へ引き戻したあの男は、誰だったのか。

 その個性に、心当たりはまったくなかった。

 その言葉にも、思い当たる記憶はなかった。


 貸し借り無しと、男は言った。

 いったい、なんの話しか。

 どういう意味なのか。

 おれを助けたのは、借りを返すためだったと?

 しかし、身に憶えのない義理だ。

 返す相手を間違えてやしないか。

 おそらくおれは、一度も会ったことがない。


 いや、そうじゃない。

 そういうことじゃない。

 問題はそこじゃない。


 あり得ない。

 と、これは断言してしまってもよい確率ではないのか。


 ラステゴマのフロリダスが、ネルテサスのホズ・レインジに向かったことを知る者はいない。

 その可能性を指摘し得る人間が、数人あるのみだ。

 宛先(あてさき)で接触する見込みをもった唯一の人間――樹海の魔法使いとて、知るよしもない。

 面識などなく、その住まいに続く森を今、孤独に進んでいる招かざる客の存在すら、おそらく知るまい。

 だが、あの男は。


 おれの名前を口にした。

 フロリダスと、彼が言うのを確かに聞いた。

 みずから名乗ってはいない。

 そんな余裕なんぞなかった。

 にも関わらず、あの男は。

 おれの名を呼んだのだ。


 絶境(ぜっきょう)たるこの森の深奥(しんおう)で、おれを知る人間と、会遇(かいぐう)する確率は。

 それも都合よく、おれが窮地に陥った直後に。


「あり得ない」


 誰なんだ。

 何者なんだ。

 どこで、おれの名を知った。

 こんなところにどうやって、あらわれた。

 尾行者の気配には、注意を払って森に入った。

 人の生活痕跡など、ただの一つも目にしていない。

 貸しをつくった憶えも、まるでない。

 余計なお世話とさえ、思う。

 なぜだ。

 なぜ、助けた。

 どうして、あのまま。


 死なせて――。


 ばさばさばさばさと、左側の林冠(りんかん)で大きな羽音がし、数羽の鳥が空へ飛び立った。


「え?」


 それは、この森に踏み入って以後、初めて目にする野鳥の姿だった。

 直後に今度は右側で物音がし、すばやく目を向けると苔まみれの倒木の上に小動物の姿が。

 うしろ脚で立ちあがり、びっくりしたように周囲を窺うその胸元に、赤い斑点があった。

 栗鼠(りす)だった。

 帰化した多くの哺乳動物のうちの齧歯目(げっしもく)の一種。


 唖然となった。

 野生の鳥獣が、姿をあらわした。

 今まで、どこに隠れていたのか。

 それとも彼らは最初から、そこにいたのか。

 小さな前肢でせわしなく顔をぬぐっているその愛くるしい様子を、半ば放心したように見つめていて、気づく。

 背景をうっすらと染める薄桃色が、濃くなっている。

 あわてて山を見あげた。

 野鳥の黒い影の舞う山肌の左半面が、燃えるような代赭色(たいしゃいろ)に深まっていた。

 日没だ。

 山を照らすあの陽射しは、東に暮れる斜陽の光り。

 ということは、ホズ・レインジの方角は、南。

 やはりおれは。

 山麓の西に入り込んでいたのだ。


 わずかに覗く、黒々とした引割(ひきわり)の口。

 露出したその直径は一メートルにも満たないが、断裂している谷口そのものは、もっと広範囲に違いなかった。

 陽が陰りはじめたら、早い。

 立ちあがり、擂鉢(すりばち)状に(へこ)んでいる苔の層を観察する。

 暗黒の口の右手側から、斜め手前の方向に点々と、不自然な穴が直線的に散らばっていた。

 男が残した足あとと思われた。

 それらを目で追い、山を見あげた。

 一連の足跡(そくせき)は、北西に向かって続いていた。

 方角からみて、引割(ひきわり)を踏み抜く直前の自分の足あともまざっているはず。

 進路が定まった。


 だが。

 それに気づいて、おれはにわかに混乱した。


 ぽっかりと口を()けている、深淵の奈落。

 その周囲に堆積する苔の状態。

 なにごともなかったかのように、綺麗だった。

 自分を引割(ひきわり)から力づくで引っ張りあげた巨漢が、踏み崩した痕跡が、どこにもない。


 視界がやにわに暗くなる。

 混乱したまま、急いで背嚢(はいのう)を背負い、腰を落とした。

 上体を前に出し、四つん這いになって、地面を乱暴に叩きながら、慎重に進んでいく。

 じりじりと忍び寄る人間に、数匹の栗鼠が逃げ惑う。

 そうして足あとが残る林冠(りんかん)の下に入った時、暮れなずんでいた森の墓場が、宵闇に沈んだ。

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