01
(ええ。一致しなかったわ。うちよりも標本数は多かったんだけどね。独立してる)
(長老さん、もうにっこにこなんだから。ご機嫌伺いだなんて言ってわざわざ来るけど、遠まわしの催促よ。あたしに一個くれるんだって。首飾りにしようかな)
(魔性の女の流し目。例えたら、そんな感じかしら。ふふふ、残念ながら。フロリダス先生が、もの好きなだけです。ちょっと、それ、あとで食べようと思ってたのに)
(ご先祖様も黙りか。黙ってないで、そろそろ教えてちょうだい。あなたは、だあれ?)
深い青空にぶらさがる、逆三角形の右半面が、鮮やかな橙に滲んでいた。
ひらいた両目に映じたその光景を、おれは曇った意識でただ見つめた。
頭の芯に、痺れるような感覚があった。
それがやがて、風に吹かれるように薄れると、徐々に意識が晴れ渡り、おれはあわてて身を起こした。
起こそうとしたのだが、両肩に抵抗を受けて動けず、右肩に鈍い痛みが走った。
背嚢を背負ったままだった。
呻きながら、左手で肩を押さえた。
まるで森の墓場のような、枝から不気味に苔の垂れる枯木の庭は、紗が掛かったように、薄桃色に染まっていた。
その片隅で、おれは独り、寝そべっていた。
肩紐をはずし、おもむろに上体を起こす。
右肩だけでなく、肘、膝、脇腹のあたりにも、打ち身のような痛みがあった。
腰の左で短剣が、かちゃりと音を発てた。
顔をゆがめつつ、周囲の木間を窺った。
人影はおろか、気配すら、どこにもなかった。
「ルイメレク」
思わず、呟く。
そして。
力なく、頭を振った。
真正面。
少し離れた苔の層が、擂鉢状に窪んでいた。
その中心から、わずかに暗黒が覗いている。
下腹部に悪寒が伝い、ずんと、冷えた。
自分の身に、いったいなにが、起こったか。
まぶたを閉じ、大きくゆっくりと、深呼吸をした。
どう考えても、万死の状況だった。
こうして無事であるのが、不自然なほどの。
朧な記憶をたどりながら、思う。
おれは、覚悟した。
いや、期待した。
これでやっと、帰れると。
憩いの日々に、あの日々に。
ようやく君に、会える――と。
それでも自分が、生きながらえている実感に、しばし、呆然となった。
瞳に、いつのまにか溜まっていた涙をぬぐう。
そうして現実から逃げるように、おれは空を見あげた。
青天井の一角。
ホズ・レインジの威容があった。
求めていた彼の山は、雲を散らした群青の空を背に、左半面を朱に染め、兀然と聳えていた。
距離感からして自分がすでに、麓に接近していることは、あきらかだった。
しかし、時間感覚は飛んで、方位も完全に見失っていた。
いったいどれだけ、気絶していたのか。
身体の具合からみて、それほど経ってはいないと思うが。
山肌に照り映える、あの陽射し。
朝陽なのか、夕陽なのか。
それがわかれば、方角の見当はつけられる。
暫時、待つとしよう。
振り返り、背嚢の状態を確かめた。
ひどく汚れてはいたものの、損傷箇所はなく、中身はすべて、そのままだった。
隅々をあらためると、袋口の持ち手の裏側に、褐色に乾燥した泥がべっとりとこびりついていた。
これだと思った。
この小さな輪が、偶然にも、断崖のなにかに引っかかったのだ。
墜落をまぬかれたその衝撃で、右肩の関節がはずれた。
あまりの激痛に、折れたとばかり。
二メートル程度の落差とは言え、接合部には相当の負荷がかかったはずだが、よくぞ千切れなかったものだ。
不幸中の幸い、と、言えるか。
思いながら、泥をこそぎ落としていた指を、とめた。
左の手のひらを、むすんで、ひらいて、またむすぶ。
あの時。
目前にさしのべられた手を、おれは握り返した。
その肌の感触が――手応えが、まだ左手に残っていた。
固く、力強い、労働を知る男の手だった。
顔は、見ていない。
見事な体格の丈夫だった。
声は低く、嗄れていた。
右肩を脱臼と見抜き、手際よく入れてくれた。
あの男。
深々と、ため息をついた。
死の淵に立ち至ったおれを、ふたたび森へ引き戻したあの男は、誰だったのか。
その個性に、心当たりはまったくなかった。
その言葉にも、思い当たる記憶はなかった。
貸し借り無しと、男は言った。
いったい、なんの話しか。
どういう意味なのか。
おれを助けたのは、借りを返すためだったと?
しかし、身に憶えのない義理だ。
返す相手を間違えてやしないか。
おそらくおれは、一度も会ったことがない。
いや、そうじゃない。
そういうことじゃない。
問題はそこじゃない。
あり得ない。
と、これは断言してしまってもよい確率ではないのか。
ラステゴマのフロリダスが、ネルテサスのホズ・レインジに向かったことを知る者はいない。
その可能性を指摘し得る人間が、数人あるのみだ。
宛先で接触する見込みをもった唯一の人間――樹海の魔法使いとて、知るよしもない。
面識などなく、その住まいに続く森を今、孤独に進んでいる招かざる客の存在すら、おそらく知るまい。
だが、あの男は。
おれの名前を口にした。
フロリダスと、彼が言うのを確かに聞いた。
みずから名乗ってはいない。
そんな余裕なんぞなかった。
にも関わらず、あの男は。
おれの名を呼んだのだ。
絶境たるこの森の深奥で、おれを知る人間と、会遇する確率は。
それも都合よく、おれが窮地に陥った直後に。
「あり得ない」
誰なんだ。
何者なんだ。
どこで、おれの名を知った。
こんなところにどうやって、あらわれた。
尾行者の気配には、注意を払って森に入った。
人の生活痕跡など、ただの一つも目にしていない。
貸しをつくった憶えも、まるでない。
余計なお世話とさえ、思う。
なぜだ。
なぜ、助けた。
どうして、あのまま。
死なせて――。
ばさばさばさばさと、左側の林冠で大きな羽音がし、数羽の鳥が空へ飛び立った。
「え?」
それは、この森に踏み入って以後、初めて目にする野鳥の姿だった。
直後に今度は右側で物音がし、すばやく目を向けると苔まみれの倒木の上に小動物の姿が。
うしろ脚で立ちあがり、びっくりしたように周囲を窺うその胸元に、赤い斑点があった。
栗鼠だった。
帰化した多くの哺乳動物のうちの齧歯目の一種。
唖然となった。
野生の鳥獣が、姿をあらわした。
今まで、どこに隠れていたのか。
それとも彼らは最初から、そこにいたのか。
小さな前肢でせわしなく顔をぬぐっているその愛くるしい様子を、半ば放心したように見つめていて、気づく。
背景をうっすらと染める薄桃色が、濃くなっている。
あわてて山を見あげた。
野鳥の黒い影の舞う山肌の左半面が、燃えるような代赭色に深まっていた。
日没だ。
山を照らすあの陽射しは、東に暮れる斜陽の光り。
ということは、ホズ・レインジの方角は、南。
やはりおれは。
山麓の西に入り込んでいたのだ。
わずかに覗く、黒々とした引割の口。
露出したその直径は一メートルにも満たないが、断裂している谷口そのものは、もっと広範囲に違いなかった。
陽が陰りはじめたら、早い。
立ちあがり、擂鉢状に凹んでいる苔の層を観察する。
暗黒の口の右手側から、斜め手前の方向に点々と、不自然な穴が直線的に散らばっていた。
男が残した足あとと思われた。
それらを目で追い、山を見あげた。
一連の足跡は、北西に向かって続いていた。
方角からみて、引割を踏み抜く直前の自分の足あともまざっているはず。
進路が定まった。
だが。
それに気づいて、おれはにわかに混乱した。
ぽっかりと口を空けている、深淵の奈落。
その周囲に堆積する苔の状態。
なにごともなかったかのように、綺麗だった。
自分を引割から力づくで引っ張りあげた巨漢が、踏み崩した痕跡が、どこにもない。
視界がやにわに暗くなる。
混乱したまま、急いで背嚢を背負い、腰を落とした。
上体を前に出し、四つん這いになって、地面を乱暴に叩きながら、慎重に進んでいく。
じりじりと忍び寄る人間に、数匹の栗鼠が逃げ惑う。
そうして足あとが残る林冠の下に入った時、暮れなずんでいた森の墓場が、宵闇に沈んだ。




