9:「違うんです……本当は天使らしく、ふんわりと目の前に舞い降りたかったんです」
「亜季から、天使の匂いと悪魔の臭いが両方する。天使は一人分だけど、悪魔の臭いがすんごく濃い」
ロゼははっきりと、そう言い切った。それでもリュールはなおきょとんとしたままだった。ロゼがニオイに敏感というのは、本当らしい。
「どういうこと?」
「悪魔とか、悪魔が取り憑いた人に直接接触したわけじゃないと思う。それならもっともっと、濃いニオイになるはずだから。この濃さなら、同じ部屋にいたってくらいだと思う」
てっきり亜季がもう先輩たちに毒されてしまったのかと思った。私は少し胸をなでおろしたが、話はそれでは終わらないようだった。
「ということは、亜季さんが行ったサークルの先輩たちが、悪魔に憑依されているということになります……でも、一人分だけ天使の匂いがしたというのは、どういうことでしょう」
「さあ。亜季に聞いてみればいいんじゃない?」
当の亜季はというと、特にお昼時と変わった様子はない。ただ、よほどサークルの雰囲気が合わなかったのか、表情からそれなりに疲れていることが読み取れた。
元の席についてふう、と息をついた亜季に、私は尋ねてみた。
「ロゼが、天使やら悪魔に取り憑かれた人と一緒にいたんじゃないか、って。心当たりある?」
「心当たりある?とか言われても……」
「悪魔は人の心に棲みついて、悪い誘惑を仕掛けるのよ。悪魔の臭いがこれだけするってことは、たぶんサークルの先輩たちはみんな悪魔に取り憑かれてる」
結局私たちの中で一番事情が分かっているロゼが、亜季に説明することになった。亜季はしばらく首をひねっていたが、しばらくすると何かを思い出したのか「あ、」と声を上げた。
「雰囲気自体がアレだったからかすんでたけど、そう言えばこのサークルに入るのはやめとけ、って言ってくれた先輩がいたな、って」
「え、でもその先輩もサークルのメンバーなんでしょ?」
「うん。副会長って言ってた」
「副会長なのにそんなこと言うんだ。変わってる」
なんでも、亜季が内心失敗したな、早くこの場を切り抜けたいな、と思っていると、それを見抜いて話しかけてきてくれたらしい。思ったままを話すと、おおかた亜季の言う通りになるだろうから、入会はやめておいた方がいい、とまで言ってくれたようだった。
「ロゼが正しければ、その人が天使管理官である可能性が高いです」
「たぶん、潜入捜査でもやってるんじゃない? そうじゃなければ、わざわざ悪魔が大量にいるところに突っ込むなんてことはしないでしょ」
ロゼとリュールが顔を合わせ、うんうんとうなずき合った。
「……じゃあ、その悪魔たちと戦うってこと?」
「もちろんです。このまま見過ごすわけにはいきません。ロゼが嫌がるくらい濃い悪魔の臭いがすると言うなら、間違いなく自然な流れではありません。退治しなければならない悪魔です」
リュールが言い切ったのを見て、私は事態が深刻なことを理解する。そして、真っ先に亜季に尋ねた。
「その止めてくれた先輩の連絡先は分かる?」
「連絡先? 分かんない、聞き忘れた」
「名前は分かったりする? あと、学部とか」
「えー……確か、経済学部の」
「大丈夫よ」
首をかしげる亜季に、ロゼが待ったをかけた。
「一応あたし、鼻はいいつもりだから。経済学部?ってことさえ分かれば、あとは匂いでその天使と、天使管理官のところまで行ける。あとはあたしに任せなさい」
「おお、頼もしい」
「そうでしょ? もっと褒めていいのよ?」
「ん、でもその先輩と落ち合えてからかな」
「ぐえー、うまくいくと思ったのにー」
ロゼがあからさまに落ち込んだ。でもその先輩と話ができるかどうかで、亜季のこれからが決まるのだから仕方ないだろう。
「亜季、明日3限空きコマだったと思うんだけど。合ってる?」
「合ってるけど……なんで知ってるの」
「そりゃ、本人が頼りないから。私も3限空いてるから、その時に行けそうだったら行ってみよ」
「分かった。ありがと」
話にいったん区切りがついたので、私は亜季に好きにテレビ見てていいよ、と言い残してお風呂に入る。するといつもなら私が入浴中の時も素知らぬふりの二人が、そそくさと一緒に入ってきた。
「入るの?」
「普段は必要ないんですが、時々は身を清めるためにお湯を浴びておくといい、と言われているんです。ちょうど実体化したことですし、紗弓さんと一緒に入るのもいいかと。……ダメですか?」
「ダメですか?って聞かれたら、ダメとは言えないでしょ……」
別に誰かと一緒にお風呂に入ることに抵抗はないのだが、単純に狭くなるのが嫌だった。事実、私たち三人でだいぶ窮屈になっている。
一足先に湯船に浸かり、楽しそうに洗いっこするロゼとリュールの方を見る。相変わらずひょっこり生えている翼といい勝負、というくらい二人の腕は白かった。
「こらロゼー、大人しくして」
「やだ! リュールのシャンプーくすぐったいもーん」
「じっとしないともっとくすぐったいことするよー」
「ちょっとさゆみ! リュールが変な洗い方するの! 手伝ってよ」
「はいはい」
こうやって洗いっこできる家族がほしかったと、私は改めて思う。私が物心ついた時には、すでに姉たちは一人でお風呂に入れる歳になっていた。だから姉に身体を洗ってもらうことこそあったが、私が姉の身体を洗うことはなかった。洗いっこしているのを見ることも、自分がすることもなかった。
「ほら、やっぱりリュールの洗い方がおかしいの。さゆみのだと全然くすぐったくないもん」
「(時々腰のあたりを手でさわさわしてあげてください)」
「余計なことを耳打ちするなー!」
それからもあれこれあって。結局狭い湯船に仲良く三人で入ることになってしまった。
「さゆみ、もうちょっと右に行って」
「ダメです紗弓さん、わたしがつぶれちゃいます」
「あたしだってつぶれるわよ!」
ねえ、早くしてー。
亜季の声が外から聞こえる。私はふと我に返って、亜季に順番を譲った。
「まったく、狭いったらありゃしない」
「そうだね」
「なんで楽しそうなのよ」
「別に? ふふっ」
お風呂から上がってもなお、ロゼとリュールは楽しそうにしていた。私は亜季が上がってくるまでの時間つぶしに、ベッドに寝転んでスマホと戯れる。すると両脇にロゼとリュールが同じように寝転んだ。
「こうすると、紗弓さんと出会ったばかりの頃を思い出します」
「ほんと。もうちょっとマシな着地をしたかった」
「え? 足元にいつの間にかいたのって、そういう計画じゃなかったの?」
「違うんです……本当は天使らしく、ふんわりと目の前に舞い降りたかったんです。でもロゼが髪飾りを忘れて、予定の時間に間に合わなくなって。慌てて人間界に降りたら、ああなってしまったんです」
「仕方ないでしょ、これがなきゃこっちに降りられないんだから」
ロゼが手持ちぶさたなふうに、しずくの形をした水色の髪飾りを触る。隣にいるリュールの髪飾りは、錠前をかたどったもの。よくよく考えれば、二人の能力を表している。
「それがないと降りてこれない? そうなの?」
「はい。……いつか、分かります。ふふっ」
リュールが笑ってくれた。見ている限りずっと冷静で、心配性なリュールだけど、本当に楽しい、嬉しい時は柔らかな表情になるんだと、私は気づいた。
「ロゼとリュール以外の天使か……知り合いだといいね」
「それなんだけど」
急に真面目くさった顔になって、ロゼが私を指差した。リュールがまたきょとん、とした顔になる。
「あたし、天使の中でもある程度匂いを嗅ぎ分けられるの。……あたしの見立てが正しければ、たぶんあたしたちの知り合いよ。少なくとも、知ってる天使の匂いだった」