26:「こんなとこで死んでたまるかって、もう一度思えた」
光が降り注いでいる。
天界に昼と夜の区別はないのか、いつまでたっても同じ明るさだ。しかし今がもし夜だとするなら、地上ではきっととびきり明るく長い時間見える流れ星がニュースになっていることだろう。それが悲劇の始まりであることなど、誰も知らずに。
「……かつて宇宙空間に満ちていると考えられていた、エーテル」
人間はおろか天使でさえ、止められるのか怪しい装置。それが異常なく作動しているのを見つつ、ウールが話を始めた。
「エーテルは……宇宙空間で光を伝えるための媒質と定義されてる……現代物理学ではほとんど否定された概念」
聞いたことはある。でも授業で習ったことはない。何かの拍子に調べたのか、本で見かけたのか。
「エーテルの濃度を操作する……それが私の能力。実際にエーテルという媒体が存在するか、しないかは関係ない……光の速度が私の操作する気体の濃度に依存する以上、この気体はエーテル以外にありえない」
「光の速度……?」
「……私の能力の影響が出る範囲では、全ての物体の速度は光が基準になる……エーテルの濃度を高くするほど、光の速度は落ちる。だからあなたたちの動きも、ほとんどゼロになってしまう……加えて、エーテルで周囲が満たされることで酸素濃度も低くなる」
本当に時間を止めているわけではない。ウールにとっての光の速度は、私たちの知っている毎秒3億メートル。私たちは同じはずの光の速度を、その何万分の一や何十万分の一にされた世界で生きている、ということになるのだ。
ウールが自らの能力の種明かしをしている間にも、妖しい光は地上に降り注ぐ。一定の明るさで、一方向に光は差し続ける。目の前で見ているにも関わらず、不思議と絶望感はなかった。
「……さゆみ」
だからこそ、なのだろうか。ロゼが這いつくばりながらこちらに寄ってきて、私の手を握った。
「まだ、諦める時じゃない。あたしならともかく、リュールが何もせずに大人しく捕まるはずない。きっと何か、方法はあるはずよ」
私もそう思いたかった。でも、リュールが何かヒントを残してくれているという保証なんてどこにもない。だから私は言い出せないでいた。それをロゼはさも当然のように言う。
「……とりあえず、エーテルっていうガスがこの辺りに充満してるなら、それを取り除く方法はある。あたしたちの、天候を操作するっていう能力でね。でも、あたしだけじゃ使えない」
もともと空気中の水分を操作するロゼの能力と、私が手に入れた光を操る能力が合わさった結果だから。私が分かった、という意味を込めて手を握り返すと、少し慌てた様子でロゼが付け加えた。
「でも待ってさゆみ。そんな身体で大丈夫なわけないでしょ。元人間が中途半端に天使になって、しかもあたしを完全憑依させるなんて無茶だって分かってたけど……そんなに負担だったなんて、さすがに知らなかった」
私はふと、涙が頬を伝って流れていくのを感じた。けれど涙にしては妙にさらさらしていた。まさかと思って手に取ってみる。手が真っ赤に染まっていた。
「リュールは助けたい。もう目の前にいるっていうのに、諦めたくない。でも、さゆみが死んじゃったら意味ないじゃない……」
「……大丈夫」
もしかしたら、とても大丈夫には見えなかったかもしれない。額から、目から血を流した女が大丈夫じゃないことなんて、誰が見ても分かりそうだ。それでも、私は大丈夫だと言いたかった。ロゼが悲しむのを見る方が、私はつらい。
「大丈夫なわけないじゃない……待って、今別の方法考えるから……!」
「ロゼがそうやって心配してくれただけでも、十分だから。こんなとこで死んでたまるかって、もう一度思えた。私はこれくらいのことじゃ、死んだりしない」
私はもっと強く、ロゼの手を握る。ロゼが驚いて目を見開く。それから、少し呆れたような笑いを浮かべる。
「……バカじゃないの」
目の前の装置と同じくらいまぶしい、でもどこか違う明るさを持つ光が、私たちを包んだ。
「行くよ。今度こそ、リュールを助ける」
“……ええ”
口じゅうに血の味が広がる。目の前が真っ暗になりかける。それでも私は立ち上がって、その場で踏ん張った。こんな死ぬか死なないかの瀬戸際なんて、金輪際経験したくない、と思いながら。
「”代弁する、天の意思を、我が意のままに……タン・アバンドーネ……!”」
風が吹く。私の方から、ウールに向かって吹き荒れる風。季節外れの木枯らしにも思えるそれは、ウールが操る無色無臭の気体を押し戻す。ウールが私たちの行動の意味に気づいて、エーテルの風をぶつけてくるがすでに遅い。私は紫色の塊に向かって走り出していた。
ウールがロゼたちよりずっと幼い少女でよかった。もし大人だったら、もっと能力の扱いに長けていたに違いない。こんな風を起こした程度で、序列2位の能力に対抗できるかどうかは賭けだった。
“リュールのいるとこ。思いっきり、撃ち込むわよ”
「了解……!」
私自身が、台風の目になっている。エーテルの風を受け付けることは、もうない。
「“せーの……!”」
液体の中に浮かんでうつむくリュールに向かって、私たちは直接雷を撃ち込んだ。どかん、と大きな音が響く。想定以上の大きな音に、私が目をつぶってしまった。
「……びくともしない」
耳をつんざくような音で叩いても、その装置は何も変わらない。私は夢中で、力任せに何度も雷を叩き込む。
「……そんなことしてもムダ……雷を撃ち込んだくらいで、壊れはしない」
ウールの言う通りだった。むしろ地上に向かって放たれる光が、よりまぶしくなったように見えた。私はウールの方に少し、意識を向けてしまった。
「ぐっ……!」
その隙を狙っていたのか。エーテルの風が肌で感じられるほどに強く吹きつけた。しまったと思った時には遅い。地面に叩きつけられ、息が途端にできなくなった。
「リュール……!」
およそ重力の概念を無視したその力に抗いながら、私は囚われたリュールを見上げた。
「……、とう」
幻聴だと思った。
その場の誰のものでもない声が聞こえた。くぐもっているようで、はっきりした声。私もフードゥルも、ウールさえも、声のした方を向いた。
「目、覚めました……!」
光を地上に放つ装置が、突然動きを止めた。私が雷を叩き込んだ場所を中心にして、ばしっ、ばしっ、という音とともに、ヒビが加速度的に広がっていく。
「まさか……!」
ウールの言葉が終わるか終わらないかというタイミングだった。ついに紫色の食塩の結晶は完全に砕け散った。中に満たされていたのだろう液体も、辺りに流れ出る。そんな爆心地とも言える場所に、序列3位の天使は凛々しく、頼もしく立っていた。
「ありがとうございます……紗弓さん!ロゼ!」




