17:「あたしからすれば、リュールは仲がいい、程度の話じゃないのよ」
「どうなってるのよ……!」
ロゼが机をばん、と叩く。その怒りは誰に向けられたわけでもない。怒りを向けるにふさわしい相手が、そこにはいない。
リュールがいなくなった。クールと名乗った天使に連れ去られたということを、その場にいた全員が一瞬で理解した。近くにいないか、と探したが、リュールが見つかることはなかった。それどころか、ロゼがリュールの匂いさえ感じなくなった、と言ったのだ。
「いったん落ち着くべきだ。でないと、対策なんて思い浮かびようがないし」
「こんな状況で落ち着いてられるわけないでしょ!!」
ロゼが声を荒げた。まだお客さんが少なかったからよかったものの、それでも痛い視線がちらほらこちらに向くのを感じた。
失意の中あの現場を後にするしかなかった私たちの前に現れたのは、フードゥルだった。私は3限を自主休講して、ロゼたちに付き合って例のコーヒー店に来ていた。
「気持ちは分かる。人間界に主犯の”神”が降りてくることも、リュール姉が連れ去られることも完全に想定外だった。だけど実際それが起こってしまった今、あいつらの目的がはっきりしてきた」
「リュールの匂いがしない。同じ人間界にいるなら、地球の裏側にいたって匂いを感じるのよ。それがないってことは、リュールは天界に連れ去られたので間違いない。……あたしが行く」
「ダメだ」
そこまで分かってるなら行くべきだと、私も思った。それなのにフードゥルが引き止める。
「ぼくの推測が正しければ……リュール姉を連れ去ったのは計画の一部でしかない。ロゼを連れ去ることも、計画のうちに入ってるはずなんだ。ロゼが直接天界に行くのは自殺行為と言ってもいい。それとも、”神”四人を相手にして勝てる?」
「……っ」
序列の上では、一桁と33位。相手がどれくらい強いのか、まだ分かっていない。しかもそんなやつが四人も。勝てる、なんて無責任なことは言えなかった。
「だからロゼは天使管理官さんと一緒にいてほしい。天界にはぼくが……」
「もう知らない! 勝手にしなさいよ!」
ロゼが立ち上がり、走って店を出て行った。涙に濡れたロゼの横顔が一瞬見えた。呆然としてロゼを見ていたフードゥルは、自嘲するように軽く笑った。
「ロゼの気持ちは、よく分かるんだ……ロゼと同じ、昔のリュール姉を知ってる天使として」
「昔のリュール……?」
「詳しいことは、ロゼから聞いてほしい。ロゼの方が、リュール姉に対する想いは人一倍強いはずだから」
フードゥルがロゼの出て行った方を手で示す。私はうなずいて、ロゼを探しに外に出た。
幸いすぐに後を追ったからか、そう遠くない場所にロゼはいた。近くの公園のベンチに腰かけてうつむくロゼに、まばゆい西日が当たっていた。
「こういう時、来てくれるのね。前もそうだった」
「ロゼが泣いてるところなんて、初めて見たから。よほど何かあるんだろうなとは、思ったよ」
「……泣いてないわよ」
そうやって強がるロゼの声は、すっかり弱々しくなっていた。
「リュールって、」
「リュールは元孤児なのよ」
どのタイミングで話を切り出せばいいか、私は迷った。迷った末に話を始めたタイミングで、ロゼが思い切ったふうに口を開いた。
「孤児……って、天界でもいるの」
「いるわけないでしょ、普通。人間じゃないんだから」
孤児じゃなくても、最大の味方になってくれるはずの両親に見捨てられる子は、たくさんいる。私自身には心当たりがないはずなのに、心臓をちくり、と刺されるような痛みを感じた。
「昔はそれこそ、天界で孤児が出るなんてありえなかった。どこの家も自分の子供に対して過保護すぎるくらいの環境。でも最近は、天界と人間界との距離――心理的な距離が、近くなってる。そのせいで、人間の悪いところが天界に影響を与えてるのよ」
私はリュールの言葉を思い出した。人間界から天界に影響が及ぶことはなかった、とリュールは言っていたが、実際は違うらしい。
「リュールは物心ついた時にはもう捨てられてた、って言ってたわ。その頃はやんちゃで、大人がみんな手を焼くがきんちょだった」
「リュールが?」
「そうよ。でも天界で親に捨てられた子なんてほとんどいなくて、自分がその一人だって考えたら、リュールの気持ちも分かるでしょ」
周りにいたずらばかりすることで、何とか寂しさを紛らわせていた。抱え込んで抱え込んで、ある日突然爆発してしまうよりはいいと言えるのか。
「リュールが8歳の時に、両親が死んだ。……処刑でね」
天界で虐待や捨て子の事件が二度と起きないように。見せしめのために、リュールの両親はそれはそれは残酷な処刑にかけられたらしい。しかもリュールは、それを目の当たりにしたのだという。
「一応親が生きてるから、って理由で孤児のまま放置されてたリュールも、さすがに親が死んで放っておけなくなった。だから、うちが引き取ったのよ」
「……だから、ロゼとリュールは仲がいいんだ」
「……一番言いたいとこ取らないでよ」
ロゼがうつむいたまま、少し笑った。でもどこか寂しそうな笑顔だった。
「うちの親はリュールを実の娘のようにかわいがっていたし、あたしもリュールを本当の姉妹みたいに見てきた。あたしからすれば、リュールは仲がいい、程度の話じゃないのよ」
フードゥルはきっと孤児だった頃のリュールの子分なんだろうけど、そんなのよりずっと深い関係だから。ロゼはそう不満げに口にした。
「……だから、リュールはあたしが助ける。リュールも、きっとそれを望んでるはずだから」
ロゼが立ち上がった。その顔は決意に満ちていた。フードゥルがロゼは行くなと引き止めたのを無視する。それがどれくらいのリスクを抱えているのかは分からないが、ロゼが行かなければリュールを助けられないのは、間違いない。
「そう来なくっちゃ。ねえ、ロゼリア」
「誰……⁉︎」
その時。ロゼのものでも、リュールのものでもない声がした。いつの間にか、目の前に一人女性が立っていた。もう、私にもだいたい分かってしまう。この人も天使だ。
「あんた……ピティエね」
「あら、よくご存知で。会ったことも、話したこともないのに」
「小芝居はいいのよ。“神”のくせに」
あらあらと、ピティエと呼ばれた天使は笑いかける。ご丁寧に手を頬に当てた、文字通り天使のような微笑み。なのに、その表情の奥に冷たいものを嫌というほど感じる。
「よかったですね、管理官さん……こんなに正義感の強い天使のお守りをすることになって」
「え?」
「とても可哀想……ふふっ」
私の直感は正しかった。柔らかな表情の奥にある冷たさや狂気を、さっきより濃く感じた。何より可哀想という言葉が、全く同情しているように聞こえない。
「……この天使、こう見えて6位よ。気をつけて」
「あら、人聞きの悪い。私はただ、あなたたちのお手伝いをしてあげるだけなのに」
その瞬間、ピティエが私に向かって何か光線らしきものを放った。私を狙っているとロゼが気づかないうちに命中する。どん、と何かに追突されたような音とともに、私は吹き飛ばされて尻もちをついてしまった。
「あんた! さゆみに何を……!」
「心配いらないわ。ロゼリアが天界に行きたいと言うから、そのお手伝いをしてあげているだけよ」
そう言うとピティエが懐から手鏡を出して、私の姿を映した。
――天使の輪っかと、翼が生えている。私自身が、天使になっている。
「似合うじゃない、よかったあ」
「そんな……どういうこと」
「天界に行ってからのお・た・の・し・み。頑張ってね」
ピティエが今度はロゼと私の両方に向けて、さっきと同じような光線を放った。当たったと感じた瞬間に、すうっと意識が飛んでいく感覚に襲われる。底なし沼にはまっていくようなその感覚に、抗おうとすることさえできなかった。




