「水槽」
彼に感情がないのだとしたら、それはどうやって証明しよう?
彼は感情を表す手段を持っていないだけかもしれないのに。
オレンジ色の街灯が石造りの道路を照らしている。深緑の上着を着た若い男は、何かに向かって拳を振り下ろした。無力な何かを熱心に殴りつけているようだ。なぜか私は、自分の両目が男の目の前にあると感じた。しかし、他の感覚は何も無かった。
男は私を殴る。蹴って刺す。コンクリートの塊を頭に落とす。私の生命を保つための組織は、順調に破壊されているようだった。痛みはない。ただ、私は私を見ていた。いきりたつ人間と原型をとどめない人間の、後者が自分であると認識していた。私のこの状態は、まぎれもない「死」である。幸せな人間の例にもれず、笑ったり悩んだりしながら当たり前に進んできた私の人生は、ここで潰えたのだ。肉体は消え、悲しみだけが残った。怒りとも痛みともいえるその感情は、炉を失った中性子のように空間へ飛びだしていった。
髪の長い女が、好感の持てない笑みを浮かべていた。女は、私の顎をつかむと奥歯から順に歯を抜いた。歯が残りわずか6本となったとき、女はさらに顎と歯を針金で縛って固定した。女はようやく手を離した。そして、相変わらず薄く笑みをたたえて言った。
「これであなたはもう、話すことも叫ぶこともできません。あなたの苦しみや悲しみは、痛みの経験は、今後誰にも知られることは無いのです。そうしてあなたはここで生き、ここで死ぬんですよ。」
私は驚いて女を見た。確かに顎は、全く動かなくなっていた。女はいなくなり、代わりに歯を食いしばった滑稽な魚がこちらを見返していた。それがガラス面にうつった自分だった。恨み、痛み、憎しみ、攻撃性、暴力、この世の全ての恐怖を凝縮したような形相で、泳ぐわけでもなく、死ぬわけでもなく、魚はただそこにいた。
そのギャラリーは静かな商店街の一画にある。背の低い商店や住宅の並ぶじゃり道に建つ、大きな水槽を3つほど備えた簡素なギャラリーだ。暗い色の木材と黄色っぽいしっくいでできた屋内は清潔に保たれていて、人々が気軽に立ち寄れるように広く入り口が開いており、扉はなかった。よく手入れされた水槽と計算された照明は、中にいるたくさんの魚たちを美しく演出した。ギャラリーの中は、透きとおった水に酸素をおくるフィルターの音だけがぶくぶくと聞こえていた。
買い物帰りの子連れがふらりとギャラリーに立ち寄った。父親よりも前に身を乗りだした少女は、目線の高さにただよう小さな赤い魚を見て言った。
「死んでるよ」
魚は抵抗した。体を立て直し、ガラス越しの少女を睨みつけた。何かを伝えようとしたが、ヒレがゆるく動くばかりで口端からは泡も出なかった。少女は驚くこともなく、やがて水槽を離れ、父親と何かを話しながら出て行ってしまった。
魚は水流に身をまかせながら、ぼんやりと女の顔を思い出した。
それくらいしかやることがなかった。
(終)