第七話
私はその日、休日を過ごしていた。するとアパートを訪問するものがあった。これまでずっと、家を訪問する人間などいなかったので私は驚いた。
私は玄関に出てその人物を向かい入れた。年のころは御影光彦と同じくらいであろうか。なかなか身なりの立派な男であった。
「光彦、ずいぶん部屋がきれいになったな」
男は言った。
「ええまあ」
「ええまあ?」
私はこの反応に慣れていたから、すかさず説明を加えた。
「いや、実は記憶喪失を患ってしまいまして、あなたのことを覚えていないんです」
「そうなのか。じゃあ、僕のことも覚えていないんだね?」
「はい」
「そうか……まあいいや、過去のことも含めて君に教えるよ。君も、自分がどういう人物だったか知りたいだろう?」
願ってもないことであった。猫を虐殺した残虐なる人間がいかにして生まれたのか、それを知るいい機会である。
「そうですね」
「そうと決まれば。ああ、僕の名前は国木田歩っていうんだ。まあ、初めましてになるのかな」
「そうですね。私にとっては」
「お前、記憶喪失になったとはいえ、変わり過ぎじゃないか?昔は私、なんて言わなかったのに」
「そうなんですか?」
「ああ」
「まあ、私はこの方がなんとなくしっくりくるので」
何しろ猫の私の一人称が“私”なのだから。
私と国木田は家に上がった。
「しかしまあ、この様子を見ると記憶喪失っていうのも悪くないように思えるよ。ここまできちんとした人間になるんだからさ。多分、過去の話を聞いたら君、驚くぜ。今と全然違って」
「そんなにひどいのでしょうか?」
「それはもう」
そして国木田は語りだした。
「君と僕はね、高校で一緒だったんだ。君はいつも学年トップの成績だった。頭がよかったんだね。君はその中でも科学が大好きで。将来は研究者になるのだと息巻いていた。ところが進路は就職だった。工場の製造現場で働くことになった。それはすべてお金のないためだったみたいだ。ローンをしても返す当てもなさそうだったし、何より親からきつく進学を止められたらしい。進学するなら家から追い出すとまで言われたそうだ。それで君は工場に就職した。僕はそれからもたびたび君とあっていたんだけどね、本当に見る見るうちに変わっていったよ。痩せこけて、目はぎらぎらしているっていうか、いつも怖い目をしていた。それで言う言葉はといえば、この世バカばかりだ、あんな仕事は科学なんてものではないとか、そんなことばかりだった。そんなことが続いた或日、君は研究者になんてなれっこない、なんて言い出すんだね。なんでと聞いてみたら、工場でずっと下働きばかりしていてもちっとも何も勉強できないし、一人で独自に勉強してみたけれど、世の中学歴とかそういうものがないと認めてくれないからいくら実力があっても研究者にはなれそうもないって。僕はお金をためて大学生になればいいと言ったんだ。だけど君ときたら、そんな金はないの一点張りで。実際、彼の話を聞くとその通りだった。彼の給料じゃ大学へ行くだけのお金を貯めることができないのは明らかだった。君は一人暮らしだったんだけど、入ってくる給料と生活費でとんとんといった具合だったし、そのうち車を買い替えるとか、大きな支払いをする羽目になったりもしてお金がたまらないだろうことも。借金を薦めたけれども、返済に困るばかりだからしないと言って断った。むしろ、そんなことはとうに考えたって怒られた。実際、僕も今もって借金に苦しんでいるぐらいだから、君の言った意見はある意味正当だった。
その日から数か月後、君は工場をやめてしまったよ。それからはもう、本当にひどかった。彼はすっかり自暴自棄になってしまって、家の中は汚れ放題になり、生活は乱れた。人格は狂人そのものの状態になって、おかしなことをするのもしばしばだった。その一つとして、道中に水の入ったペットボトルを置くなんて言う真似をしたと彼は言っていたね。僕にはまるで意味の分からないことだったけれども、それだけ彼がくるっていたということだと思う。僕が今日来たのは君に言いたいことがあってきたんだ。一応言っておくけどさ、記憶が戻った時のために。世の中は変わらないんだから、研究職に就きたければ君が変わるしかないじゃないかってね」
私はこの時、この青年の思想に敬服の意を示した。物事のうまくいかないことを悔やむのではなく、自分で変わっていくことで積極的に対処するという精神は大変に素晴らしいものだと思われた。私はもし御影が生きていたなら、聞かせてやりたかった。
青年はそれからすぐに帰った。青年は記憶を失った御影君とはどうにも他人のような気がして居づらいということだった。
その日、通達文によって人間絶滅に関する決定を行う会議が行われるということが伝えられた。会議は三日後に設定されていた。
私は同時に、御影光彦としての任を解かれた。私は元の猫に戻り、会議に出席する準備をした。
私は心の中で、もはや人間と戦争をすることは止められまいと考えていた。同時にもう二度と小説は読めまいと考えた。それは何とも名残惜しいことであった。
しかしいざ読めなくなるだろうと決まると、どうしてもまた読みたくなってくる。これからもずっと読めるようにしておきたくなる。私はどうにかして人間の絶滅を食い止めたくなった。
その時、私の中に閃光のごとくひらめくものがあった。人間の書物を読むためには人間が死なないようにしなければならぬ。しかし今のまま変わらない人間では絶滅は免れない。ならば我々が変わるよりほかにはない。しかも幸いなことに我々にはまだ変えることのできるものが一つだけあるのだから。
我々猫はそして、その日の会議で人間社会へ宣告をすることにした。
「我々猫は高い知性を有し、また独自の社会を作り上げている。我々猫は一つの尊厳を人間に認めてもらうとともに共存を図る意思を持つ。差し当たってその手始めとして、今まで人間に秘匿してきた猫の秘密を人間に開示する」
つまり、私たちは私たちの歴史、そして私たち猫の知識と力を人間に公表するつもりであった。これによって人間たちは猫という存在を見直し、また畏怖することになるやもしれない。そうすれば現状もまた回復するであろうと。
その宣告はさしあたり、ネットで公開された。この先刻より一か月後、全世界の猫の同意のもと、我々はその秘密を世にさらす。今回書いた小説はその予告の一つと言って差し支えあるまい。
私がこの小説を投稿した理由はたった一つ、これがその宣告の一つなのである。差し当たっては、どうか心の準備をしてその時を待たれよ。




