ヒカリのそばで 夕顔編
それなりの雲量の空は青く、白く眩しい。なので基本的には見上げたりはしない。
大学1年生の4月、というか初日。当たり前のように出掛けた。
自分の影が伸びている南西方向に歩く自分の姿は今までと似ている。
すぐ近くのガードレールを越えた道路には車が行き交い、いつも通り。
サラリーマンなのかスーツを着た男性が走りながらどこかに行く光景、いつも通り。
鳥、コンビニ、微妙に歩道の方に伸びている何かの植物の枝、いつも通り。
いつもと同じ光景を何度となく、おそらく千か万単位で見てきたというのに、どうして自分は今までにないスーツ姿をさせられているのだろう。
これまでの自分の正装と言えば学校指定の制服だけだったというのに。
そしてその小学校時代からの幼馴染であり友人を見かける。
「よう惟輝。なんだその格好。スーツ似合わねぇなぁ」
明るく笑顔を浮かべ、失礼な言葉を発するその男。
「……光流。随分早くないか?」
「まぁな。さすがに式典をサボるのも色々言われるからな」
整った顔立ちに明るめな茶色系統の髪を持つ友人、在原光流。
「さっきの話だけど、そっちは随分と着慣れてる感があるよな。さすがお坊ちゃまってだけはある」
「ああ、お坊ちゃまは否定しねぇよ。スーツ自体は何度も着てるからな。んなことより行こうぜ」
偉そうな、自慢するような態度を取る光流。
「惟輝。帰りに肉まん食ってこうぜ」
ニッと笑う光流。
自称お坊ちゃまと言いつつ、そこらの高校生と―――大学生と変わらないような感性の持ち主である。
「その話は入学式終わった後にしようよ」
大学生活、初めから1人ではないとわかっている時点で、友人作りはそれほど困った事にはならないだろう。
色々な問題は抱えているのだろうが。
そして少し歩いていると急に口を開く光流。
「どうでもいいけどさ。入学式って言えば桜だろ?もうかなり散って、葉桜になってんじゃん」
「……だから?」
「こう、散った桜って道路の上で踏まれたりして茶色くなって汚くないか?」
「たしかに」
車に轢かれ、人に踏まれ、泥などが付着し、綺麗とはとても言えない。
入学シーズンと桜は確かに多少誤差があるのでそれも仕方が無いと思うのだが、この話題自体、落とし所に困る。
入学式。
キャンパス内にある大きな多目的ホールに収容された僕らはソワソワしている同じ1年生を尻目にすぐに可動席の椅子に座った。
生徒全員を収容する事はさすがに不可能であろうが、それなりのサイズのホール。
前方に舞台がある、極々一般的な多目的ホール。
席に着かず、未だどうしていいか歩き回っている人間も見える。
「入学式って参加するのは1年生だけみたいだね。高校とかは全学年がいたけど……」
「どうせ交流なんて生まれるわけねぇんだから、必要ねぇだろ」
「そういうものなのか……」
勝手がわからないのは僕も一緒で、光流の何にも臆さないような態度は少し羨ましい。
周りは黒い衣装がたくさんで、おそらく僕らよりも年上な人間というのはいることだろう。
そういう環境に身を置いていなかったので、少しだけ不安が残る。
隣で寝息を立て始めた友人の横で少しだけ身体を強張らせる。
辺りを見回し、普段は興味を持っていない多目的ホールの音響設備や照明設備に目がいってしまう。
そして、案内をしている先輩なのか大学スタッフなのかは分からないが、未だ席に着いていない人間に声をかけ始めている。
もうすぐ始まるということなのだろう。
少しずつ静けさが出て、ガヤガヤとした雰囲気が無くなっていく。
次第に暗くなる。
ようは注意事項などを長々と語っていた様に思える。
寝るのは気が引けたので起きてはいたものの、起きているだけでもそれなりに消耗したように思える。
ホールに入る前の受付で配布されたプリントに全て記載されている以上、光流のように眠ってしまった方が良かったのかもしれない。
「それにしても、お坊ちゃまの癖に椅子に座った状態でも寝れるんだな」
「お坊ちゃまお坊ちゃま言ってるけどよ。オレはべつに城に住んでる王様じゃねーんだよ」
「そりゃあ、何度も行ってるからな」
お城ではないにしてもそれなりに大きな屋敷のように思えたのだが。
今日の予定では入学式は既に終わっているはずである。
オリエンテーションなどは別の日に予定されているので、今日はもう帰ってしまって問題無い。
スーツ姿の人間達はキャンパス内を探検する者、入学式が終わったのでさっさと帰ってしまう者のどちらかだった。
僕らは完全に後者で特に用はない。
「……眠いな」
重い瞼を擦り、ホールを出る。
明るい太陽と少しの緑が見える。新しめな校舎と着こなしているとは言えないスーツ姿の男女。
現時点で顔の判別はできず、いつかこの中から友人と呼べる関係に変わる人間もいるのかもしれない。
新生活が始まるそう思うと同時に今までと同じように隣には光流がいる。
「惟輝。このあとどこ寄ってくよ」
「ごめん。このあとお祖母ちゃんの所に行こうかと思ってる」
「?なんかあったのかよ」
「一応大学入学したんだし顔見せに行かないとね」
今年の初めからお祖母ちゃんは病気で入院する事になった。
もともと身体が丈夫ということではなかったので、入退院の繰り返しであった。歳が歳なだけに慎重にならざるを得ないと言う事で親からも話は聞かされている。
お祖母ちゃん子という訳ではないが親と同じだけの時間を一緒に過ごして来た。
せっかくのスーツ姿をお披露目しに行かなければという考えだ。
「ふ~ん。なら俺も行ってやる。お前の婆ちゃんにはよく世話になったしな」
「まぁ、いいけど。病院に行くんだからあんまり騒ぐなよ」
「わかってるって」
正面入り口を通り受付に行く。
面会手続きをしてからそのまま階段を上がっていく。
リノリウムでできた床が天井からの明かりを鈍く反射し、歩いた時の独特なキュッとした音を奏でる。
多くの人間が行き来し、看護師の人達が移動している。
目的の病室のある階まで上っていき、病室へ。
消毒液の匂いが充満しているこの場所に訪れるのはあまり好きではない。
お祖母ちゃんの名前が記された名札のある病室の前に立ち、扉を叩く。
コンコン
軽く叩くと奥から「どうぞ」という声が聞こえてきた。
ノブを掴んでスライドさせる。
個室ということで他の入院患者は見られず、開けるとすぐにベッドに腰掛けたお婆ちゃんが見える。
「ああ、惟輝いらっしゃい」
年老いて、病人であるということではあるものの、身内贔屓もあるのだろうが綺麗な方ではあると思う。
入院、療養用の服を着ている灰色の髪、そこまで長くない髪は肩には届かない。
「俺も来たぞ婆ちゃん」
「光流君も来てくれたの?」
お祖母ちゃんの興味が光流に向く。
小学生の頃から光流と一緒であり、それなりの交流はしてきた。お祖母ちゃんも光流の事はすっかり自分の孫のように思っていることだろう。
「ゼリーとかならあるけど食べてく?」
お祖母ちゃんがベッド脇の小さな冷蔵庫からコーヒーゼリーを出してきた。
日が傾き始めて
お祖母ちゃんに入学したことや最近の事を伝え、帰ろうとしていた頃だった。
コンコン
扉のノックに自然と全員の視線がそこに集中した。
看護師さんかと思い、少しだけ身構える。
おそらく見回りかそれに似通ったなにかだろうと思った。
「どうそ」
お祖母ちゃんがそう言うと扉は勝手に開いて行き、訪問者の顔が見える。
しかし扉を開けて中に入ろうとしているその人間はどう見ても白衣の天使と呼ばれる看護師ではなかった。
淡いブルーのワンピースにカーディガンを羽織った儚げな女の子。髪は長く、栗色だ。深窓の令嬢という印象を抱かせるようなそんな感じだった。
歳は自分達とそう変わらないように見える。
僕達の顔を見て一瞬の驚きを見せるが、反応がそこまである訳ではない。
見逃してしまうかもしれない程の一瞬の躊躇いと驚きがあった。
「あら、夕夏ちゃん。いらっしゃい」
女の子は消え入りそうな声で失礼しますと言って入ってくる。
「お祖母ちゃん。この人は?」
そう訊ねるしかなかった。お祖母ちゃんは事も無げに答えた。
「この前までお隣さんだった雨宮夕夏ちゃんよ」
夕夏―――と呼ばれた女の子は軽く会釈する。
「夕夏ちゃん。こっちのボケッとしたのが孫の惟輝で、そっちの男前なのが惟輝の友達の光流君」
孫の紹介が少し雑なように思ったけれど、それは別にいい。
今重要なのは後ろにいる光流が夕夏という女の子に興味を持ったことだ。
儚げな、淡い印象の弱弱しい感じの女性に惹かれやすいタイプらしく。おそらく光流からしてみればストライクゾーンど真ん中なのであろうことだ。
「初めまして。有原光流」
予想通り自己紹介をしている光流。
せめてお祖母ちゃんの前でそういうことは控えられないものか。
「……雨宮夕夏です」
彼女もそれに応えて挨拶をする。
光流は、男の僕から見ても顔立ちは整っているように見える。馴れ馴れしいというのもあるのだろうが、接しやすい光流の性格は女子からすればどれだけ魅力的に映ることだろう。
「惟輝。挨拶」
お祖母ちゃんの声で我に帰り、慌てて名前を言う。
「藤居惟輝です。お叔母ちゃんの相手をしてくれてありがとう」
変に慌てたせいか、急に名前を呼ばれて驚いたせいか、少しだけ顔が熱くなっているような気がする。
「……こちらこそ」
首を小さくふるふると横に振る。
妙に小動物のような印象を受けた。
お祖母ちゃん自体は手間のかかる様なタイプではないし、誰とでも仲良くなれる典型のような人間だ。
対して、目の前にいる萎縮し小さくなっている女の子はお世辞にもコミュニケーション能力とか対話とかいう言葉とは縁遠そうに見える。
おそらく彼女と仲良くなったきっかけはお祖母ちゃんにあるのは間違いないだろう。
「それで夕夏ちゃん。今日はどうしたの?」
お祖母ちゃんが彼女に訊ねる。
「……今日、入学式があって、それの報告をしにきました」
「入学式?俺達も今日入学式だったんだぜ。偶然だな」
夕夏ちゃんの言葉を聞いて一番最初に口を開いたのは光流だった。
「たしか、光流君たちと同じ大学の筈だよ」
お祖母ちゃんの決定的な一言により光流は目を輝かせる。
「マジで!?じゃあ一緒に授業とかも受けられるんだな」
「……同じ大学」
大学が同じという事に疑いを持ち、お祖母ちゃんの顔を見る。
光流と同じくニコニコとした表情で悪戯っ子のような顔をしている。心の中で察してからお祖母ちゃんに確認をする。
「偶然じゃないってことだよね?」
「そりゃそうよ。私が夕夏ちゃんに勧めたの」
「なんでまた」
「その辺は追々本人に聞きなさいな」
「惟輝。大切なのは同じ大学ってことだろ。夕夏でいいよな。仲良くしような!」
光流は早速できた友人を彼女の了承を得ないまま呼び捨てにすることにしていた。
本人もそれを嫌がる様な素振りは見せていない。
むしろ会話にすらほとんど参加しては来ない。その場の流れがどうなっているのかではなく、別の次元を見ている様にも見える。
「よろしく」
彼女―――夕夏を合わせて、僕達2人は3人になった。
大学生活に慣れてきたのは意外と早かった。
6月のとある週だった。
暑い暑い月に入り、うだる様な暑さの中登校し、授業を受けている。
大学では僕達は文学部だった。
僕と夕夏は文学科で光流だけが教育学科だった。
なぜか昔から教師を目指していた光流は、高校時代から教師になるという事を念頭に勉強してきた。
正直勉強している姿は一度だって見た事は無いのだが、本人が全力を注いでいるという事は知っていた。
僕の場合は特に自分のやりたい事があった訳でもなく、これと言った特技や自慢できるほどのナニかがある訳ではない。
基本的にどこにでもいるというのを地で行っているという自覚すらある。
なんとなく光流と同じ大学の同じ学部を目指したモノの、さすがにいつまでも光流の腰巾着でいるのは抵抗を感じて学科だけは違う物を選んだ。
それでも昼食時や休み時間は同じ学科の生徒達よりも光流と行動している事が多い。
「おはよう夕夏」
「……おはよう」
朝の挨拶。
同じ学科であるという事と、お互いに乏しいコミュニケーション能力では大学生活始まったばかりの友人作りに出遅れ、結局2人での行動が増えた。
30人ほどの人間が入れるであろうそれなりに当たらしめ教室。ホワイトボードやプロジェクターなどが設置されたその教室の長机に2人で腰かける。
2人でというところは男として気になる部分ではあったが、僕らの間にそんな関係性は生まれる事はない。
入学してすぐ、光流と夕夏は付き合いだした。
光流という人間はこれまでにも彼女は何人か作っていたし、夕夏は顔立ちも整っているし正確にこれといって難があるというわけでもない。
2人はすぐに付き合いだした。
共通の友人である僕はその事にはすぐに気が付いたし、光流から世間話のようにそんな話を聞かされた。
大学生にとって、光流にとって誰かと付き合うというのは普通にあることでそれが会ったばかりの夕夏というのは関係なかった。
好きになって、告白して、決める。
そんな簡単なプロセスを経て恋人同士になる行為は経験のない僕にとってはひどく曖昧で、なにを持ってして好きになるのか、どうして告白するのか、なにが判断基準なのかがわからなかった。
それまで人を好きになったことが無い僕には、誰かと付き合いたいと感じた事は無い。
これからも僕は誰かを好きになって告白するなんてことは無いと思っていた。
しかしどうやら僕も、夕夏の事が気になっているようなのだ。
好きになる。
それに関して分らないということしか分らない。
友人ということも忘れ、夕夏を目で追ってしまったり気になるようになっている。
僕は彼女との間になにかを求めている訳ではないと思う。
光流の事が好きな女の子。僕は光流に何一つとして優れたものを持っていない。
僕は友人だ。光流と夕夏の友人だ。
光流は格好いい。
勉強、スポーツ、友人関係、性格。その他色々な事を挙げて言っても光流の悪いところなんて言う物はない。
女子から見れば誰しも魅力的に見える存在である。
夕夏もその多くの女子の1人であろう。
僕がいる事を疎ましく思うのであれば、それなりの対処はするつもりである。
余計なお世話かもしれないが身近な人間関係が変化するかもしれないという状況では過敏にならざるを得ない。
授業が終わり、大きな学生食堂に行くと既に満員と言えるほどの混み具合であった。
座る場所を探してお盆に昼食を載せて右往左往している生徒がそこかしこに見る事が出来る。
夕夏と一緒に光流との合流場所にいつもと同じくこの学生食堂に来たものの、昼時は安くて速いということで大混雑になってしまっている。
「混んでるなぁ」
いつの間にか背後に回り込んだ光流を見て、呆れる。
「席は?」
「建物が近いからと言って席を確保できるとは誰も言ってないだろう」
「それはそうだけど」
「無駄口叩いてないで3人席探せよ」
先程まで憐れと思っていたお盆を持って右往左往が自分達の身に降りかかってくるとは考えていなかった。
段々と目的を達成した人間が出始めるまで仕方なく昼ご飯を購入せずに待機していた甲斐あってようやく食べられる頃には3限目までそれほど時間が無くなってきた頃だ。
昼ご飯を済ませても雑談している生徒達はたくさんいる。むしろそういった人間が多いお陰で今現在結構急いでご飯を食べている。
メニューは光流、夕夏が日替わり定食(唐揚げ)、僕がカレーライスというものだ。
夕夏は特に好き嫌いが無いのか大抵は僕らと同じものを買う事が多い。
そういった面で浮世離れしている感じが如実に表れている。
そして席を確保する上で、1つの机を確保したのだが、そこは4人席。
光流が奥から席に着き、その真向かいに僕が座るところまでは良かったのだが、なぜか夕夏は僕の隣に座ったのだ。
「……こっち?」
疑問に思ったので聞いて見る。
普通彼女になったのならば彼氏の隣に座るのではないだろうか。
「こっちの方が回り込まない分、楽だから」
面倒なだけのようだった。
「いや~。よかったよなぁ。こうして無事に飯が食えて」
「そんな悠長に食べている暇はあんまりないけどな」
光流本人も気にしていないようで、呑気な発言をするので忠告を送る。
「そういやお前ら友達1人くらいはできたのか?」
「……まだ出来てないよ」
「……」
この質問に関しては夕夏も口を開かない。
「ちんたらしてんなぁ」
嘲笑うかのように言う光流。
「そういう光流はどうなんだよ」
「あ?一応何人かの女の子のメルアドとかはゲットした」
「彼女の前でよくそういう事が言えるな」
「向こうから聞いて来たんだ。まぁ、モテる男は辛いって事だな」
少しだが冷や冷やしながら話をしつつ、横目で夕夏を見るがあまり興味がないようだ。
ここまで動揺しないというのはこれはこれでどうなのだろう。
光流を信用しているのか、それとも彼氏彼女と言ってもそこまで深い関係ではないのか。
「トマト食え」
僕の思考を邪魔し、唐突に光流は自分の小皿に入っているプチトマトを僕のカレーライスに入れる。
「なら定食にするなよ」
カレーライスに浸かってしまった小ぶりなプチトマト。
具が入っていない訳ではないが限りなくルーだけに近いカレーライスにその小さな赤い実は相対的に大きくゴロっとした具に早変わりした。
指を突っ込んで拾い上げようかと一瞬悩んだもののスプーンで掬い上げてそのまま食べてしまう。
口の中で舌の感触をフルに活かしてプチトマトからヘタを外して食べる。
汚いながらも口からヘタを取り出し、皿の端に寄せておく。
「汚ぇなぁ」
「そもそもの原因は光流だろ。大学生になったんだから好き嫌い無くせばいいだろ」
「ああウッサイウッサイ」
光流は聞き流して唐揚げ定食を食べ続ける。
最初からそれなりに集中して食べていた光流はそれなりのペースで食べていたので皿の上がほとんどない状態である。
どちらかというと時間的に急がなければいけないのは自分の方なのは確かだ。
「よし!行くか」
食事を終え、水で流しこんでから光流は言った。
友人を待っていようという気はサラサラ無いらしい。
「彼氏だろ。せめて夕夏を待ってやろうという気になれ」
「嘘だよ。あと少しだけ待ってやるよ」
ニッと笑う光流。
「……」
夕夏は咀嚼に集中し、返事がない。
こちらは急いで食べつつも向こうは暇なのか話しかけてくる。
「惟輝が飯食ってるとカレーって感じがするな」
「……そうかな」
「だいたいカレー食ってるイメージがある」
特にそういう訳ではないが、たしかに選択肢にカレーが入ってる場合は結構な確率でカレーを選んでいる様な気もする。
特別カレーに固執しているという訳でもないが。
僕も夕夏も食べ終わる頃にはチャイムが鳴り始めていた。
夕夏に関しては間に合うとは思わなかったので予想通りではある。
3人での外出は増えて行った。
彼氏彼女であるのであれば2人で出掛ければいい。
僕はそう進言しつつ、2人―――特に光流から却下された。
3人でということが多く、明確にはなっていないものの僕は失恋したということになっている。
2人が知らない事であるのは分かっているのだが、そっとしておくということはあり得ないようだ。
そして夏休み、3人で出掛ける事になった。
場所は在原家所有のコテージである。
有体に言えば泊りがけの小旅行の様なものである。
電車で2、3時間のところに位置するその場所は、避暑地として有名で、蒸し暑かった夏を忘れさせてくれる程度には涼しいと感じられた。
電車から降り立つとやはり緑が多く、高い建物が少なく思える。
夏休みだからなのかそれなりの旅行者と思われる人々が数多く見える。
夏休み仲良くなった人間たちで遊びに行くことはよくある。小旅行もそれなりの友人関係が気づけているのであれば別段珍しいという事はない。
カップルに紛れて一緒に泊まりの旅行とは一体どういうことなのか。
気持ち的に拷問の様な夏休みを送り続け、遂にはここまで来てしまったという訳である。
夕夏も何を考えているのか分らないが、彼氏の友人が同伴という夏休みを良しとしている。
傍から見れば歪な関係に見える。
そんな世間の目を夕夏は気にしない。気にしない要因があるという事だろう。
僕たちは今日も3人ではなく、2人と1人である。
そう考えている自分がたまらなく情けなかった。
「あっちぃ~」
一番最初に音を上げたのはフローリングワイパーを使っていた光流だった。
避暑地に来るために汗をかきながらやってきた訳だが、昨今の夏は避けることができない程たしかに暑い。
「暑いって言うと余計暑くなるって言うけど確かに暑いね」
首に巻いたタオルで汗を拭きながら喋る。
「掃除から始めようとか抜かしたのはお前だろ」
「さすがに最後に来たのが一昨年だったら掃除はしないとまずいよ」
「夕夏はあんま汗かいてねーみたいだけど暑くねーの?」
「……人より汗をかきにくい体質だけど暑い」
ハンディモップを使って埃を取っていた夕夏が応える。
「前に汗かかないと体を冷やす機能とかがよくないっていう話を聞いたかな」
僕のうろ覚えの知識を喋ってみる。
「それもあるかな。私もフラフラする事よくあるし」
「大変なんじゃないのか?それ」
「水飲んで大人しくしていれば、すぐ収まるから」
おそらく今夕夏が話した症状は熱中症手前だと思うのだが、大丈夫なのだろうか。
「塩分とか水分とか取らないと普通にしてても倒れっぞ」
自己管理がお世辞にもできないような発言を聞いたのだ。さすがに気を使うべきか。
そう考えていると光流が話しかけてきた。
「これ終わったら休憩しようぜ~。さすがに疲れたよ」
「じゃあ、最後に掃除機かけて休憩してて。僕はトイレとかやってくるよ」
部屋数はまだいくつか残っている。早めに終わらせておいた方が後々楽になるだろう。
「りょうか~い。サボるなよ~」
「光流もな」
夜、蝉が鳴りやむことを忘れたのであろう活発に存在を証明している時間帯。僕らは夕ご飯の買い出しだった。
じゃんけんによる勝負によって僕と夕夏が買い出し、光流が風呂掃除と一番風呂だった。
僕としては2人きりにさせるという状況を作ってやりたかったのだが、そんなにうまくいくという事ではないようだった。
避暑地としてそれなりに有名で人通りがある暗い道で、目的の物を買い終えた僕らは特に何を話すでもなく歩いていた。
夕夏に聞きたいことはいくつかある。
光流のことや僕らに会う前のことなど聞いてみたいことがいくつもあるのだが、なにを話せばいいかわからない。
「……光流じゃなくて悪かったな」
言ってから嫌味のような言い方だったと思った。
「……ううん。べつに」
しかしやはり、夕夏は特に気にしていなかった。
また少しの沈黙を挟んで話を振ってみる。
「そういえばさ。お祖母ちゃんとはどうして知り合ったの?」
当たり障りのないお婆ちゃんの話。出し使うようで申し訳ないのだが。
「……病院入ったばっかりの時にまだ慣れてないところを久仁江さんが来て、話をしただけだよ」
「お祖母ちゃんならありそうだね。どんな話をしたの?」
「私の事とか、久仁江さんの事とか孫の話とか」
「僕?」
お祖母ちゃんなら夕夏と同じ世代である僕の話をしてもおかしくない。
「久仁江さんいつも楽しそうに話してくれたよ。そのおかげか、初めて会う前から知ってたような気がしてた」
「さすがに僕は夕夏の話を聞いてなかったから完全に初対面って感じだったよ」
ついこの間のことだから鮮明に覚えているのか、それとも……。
夕夏にあってから変わったことは僕たちは3人になったことだ。
「昔から光流に引っ張られてたって聞いたよ」
「トラブルメーカーなのは変わらないから。昔から一緒にいて、怒られるのも一緒だったよ」
「結構色々知ってるかもよ」
「そうだね」
珍しく得意げな夕夏。
会話の内容では押されてしまっている。自然に会話もできているしこちらも話題を振る。
「僕らの話はいいよ。夕夏の話を教えてよ」
「私?」
「僕らの話を知ってるんなら夕夏の話も聞きたいよ」
「どういう話を聞きたいの?」
特に嫌がるということはなさそうなので、普通に聞いてみる。
「じゃあ、どうして僕らと同じ大学に入ったの?」
「………」
急な沈黙。
慌てて取り繕うように言葉を紡いでいく。
「あ、前にお祖母ちゃんがその内聞いてみろって言ってたから、気になっててそれで」
静かに、夕夏の言葉を聞くのを待つ。
「……大した話でもないけど、ちょっと重くなっちゃうかなって。聞く?」
「う、うん」
夕夏からは重い空気のようなものを感じたのだが、本人はそこまで気にしているという風では無かった。
少しだけ間があってからの簡単な答え。
「……ちょっと重い病気に罹ってて、今はもう手術とかリハビリとかで治ったんだけどね。手術前の結構気持ちが滅入ってた頃に久仁江さんがお隣さんになったの。それで色々な話を聞かせてもらって、その中でも2人の話は元気を分けてもらったような感じだった」
一体お祖母ちゃんはどの話をしたんだ。
思い出しながら語る夕夏はとても楽しそうだった。
「それで久仁江さんの勧めで2人と同じ大学を受けたの。入院してたから出席日数だったり成績だったり不安だったんだけど」
今まででおそらく一番長く、話してくれている夕夏。
知らないところで僕たちは彼女の力になっていたようだ。
ふと、上を見上げるとそれほど明るくない地上に反して夜空には星が輝いていた。
視力は悲しい事に1も無いのだが、それでも明るめな星は見る事が出来た。
「星見える?」
聞いてきた夕夏もまた夜空を見上げる。
「多少。あんまり星って詳しくないからどれがどれとかわかんないや」
「私も少しだけしか知らないや。織姫と彦星くらいなら分かるかも」
「どれ?」
隣を歩く夕夏が指さす星を目を凝らしながら探す。
「アレ?」
「う~ん、うん。アレが彦星。アルタイルだったかな」
指をさし、確認をする。
夕夏は指のさしている星を確認するために近づき僕の腕に手を添える。
ふわりと少しだけ汗の匂いと少しだけ甘い匂い。
自分が変態なのでは、なんて考えている事も出来なかった。目の前に夕夏の頭が映る。
夕夏のいつもより積極的な行動。
普段は静かで、急に僕や光流にさえも触れるということは無かった。
小旅行で多少は気持ちに余裕があるのかもしれないが、変に気にしてしまう。
「あ、あとは織姫だよな」
急に顔の温度が上がったようだ。
心臓もバクバクと五月蠅い。
頭がボーッとする。
「アレだよ。アレ」
いつの間にか立ち止まっている事も忘れて、夕夏が動かしてくれた僕の腕の方向にある星を見る。
少しだけ周りより明るく光っている星。
「アレが織姫か」
「うん。それで2つを綺麗に三角形にする感じの星がはくちょう座のデネブ。アレかな」
また僕の腕を移動させて別の星を指さす。
だが、僕の目の所為なのかデネブを見つける事が出来ない。
「これで夏の大三角」
そのまま話が始まり、デネブを探すための腕は離れた。
「本当は詳しいんじゃない?」
「ううん。七夕について小学校の時自由研究にしてたからだと思う」
「七夕……」
七夕伝説はこの人生で何度か聞いた事がある。愛し合っていた牽牛と織姫が仕事をしなかった事から天帝が2人の間に川を流し、憐れに思ったカササギが1年に1回橋を渡して合う事ができるという。
「僕はデネブになりたかったよ」
「え?」
「なんでもないよ」
僕は見つける事が出来なかったデネブでない事を願う。僕は彼らを祝福できる人間でありたい。
しかし今、ある衝動がある。
それは口にしてはいけない言葉。
頭の片隅に浮かんだ邪な心。
彼女はいつも光流に関してそれほどの関心を向けていない。
付き合っているという事実があるからこその余裕なのか。
もし、夕夏が光流の事を好きでないのならば。
そんな醜い心が僕の中にある。
「光流の事、好きなの?」
聞いてみたかった。彼女の気持ちを。
僕は友達として最低なヤツだ。
口をついて出た言葉は夕夏に届いているだろう。
夕夏の気持ちが知りたくて。
嘘であったならとあらぬ希望を抱いて聞いたその言葉。
長い長い時間が過ぎた様な感覚のあと夕夏は口を開いた。
「ううん」
被りを振る彼女。
わからない、彼女が何を思っているのかが。
「……僕は夕夏が好きだよ」
夕夏の気持ちがわからなかった。
どうしようもないこの気持ちをただ彼女に聞いて欲しかったのかもしれない。
自己満足に浸ろうというずるい考えなのかもしれない。
「じゃあ、付き合おうか」
だから彼女の誘いに頷いてしまった。
僕はカササギじゃなくて天帝の方だったのかもしれない
「明日どうするか……」
別荘に帰って、食事を終えてすぐ口を開いたのは光流だった。
「遊ぶにしても何をするかって話だよ。2泊3日なのにもう1日無駄に消費しちまったんだぞ。残り2日を上手く使うんだ」
「最終日は帰るだけだよ。実質明日どうするかだけだね」
帰ってきてすぐ、どうなるのか分らないこの気持ちを隠しつつ、光流の様子を探る。
浮気、ということになるのであろう関係。
なにかしたという訳ではないが、落ち着かない心でいっぱいだ。
「なにかするの?」
「というか光流。何を目的に旅行しようって言いだしたんだ?」
そもそも別荘に来た目的を聞いていない。
「思いつき」
「そんなようなモノだと思ったよ」
いつもと同じような態度をしつつ、変に思われないように徹する。
「まぁ、明日この近くで花火やるって言ってたからベランダで見れっかな~ってな」
「ずいぶんアバウトだな」
明日の花火を基準に考えるとしても昼間出来る事を考えなくてはならない。
「昼間何ができるか……」
「泳ぐのはアレだけど、近くに湖があるみたいだし行ってみっか」
「まぁ、それが一番無難じゃいか?」
「散策だけでも楽しいよ」
夕夏が乗ってくる。さすがに散策だけだとどうかと思うのだが、とりあえず行って決めるというのもいいと思う。
「夜は庭でバーべキューしながら花火だからな」
「どれだけ楽しみなんだよ」
そんな言葉を言った直後、ズボンのポケットが震えた。
ポケットから携帯を取り出してみると、画面には夕夏からメッセージが来ていた。
『光流が寝たら、庭で』
そんな簡素なメッセージ。
期待と罪悪感が心に突き刺さる。
夜、田舎の避暑地ということで人通りがほぼ無いことから、都会では味わえないほどの静寂を感じる。
新し目な別荘ということなのだが、電気を消してしまうとそれなりに暗い。
男部屋で光流と雑談をして、お互い疲れていたのでそれなりに早くに寝てしまう。
掃除を中心に動いていたのと、移動の疲れがあったのだろう。
すぐに寝息を立てて寝てしまった光流を確認してから、物音を立てないように部屋を後にする。
暗い廊下を通り、階段を下りる。
リビングを抜けてベランダから外に出る。
一歩一歩が重く、庭にたたずむ少女の下に辿り着くまでに罪悪感というナイフで身を裂かれる。
夕夏は星空を見ている。
先ほど自分で披露できるほどに詳しい星に関しての知識。興味があるのか、見上げている彼女の姿を見ながら近づいていく。
「夕夏」
「うん」
声をかけると振り向きもせず、声だけで応えてくる。
隣に並んで一緒に星を見る。
「光流は寝ちゃった?」
少しだけ建物の方を確認するも男部屋の明かりは灯ってはいない。
光流は起きてはいないだろう。
「うん。それで、用事って?」
「……キスでもしてみようかなって」
………
「キスって!?」
静かな世界の中で僕の驚きの声は響いた。
驚いて夕夏の顔を見た僕に対して、彼女はとても落ち着いた表情でこちらを見つめてくる。
彼女の冷静な顔は罪悪感というものをまるで感じていないような、いつもとは違う悪戯をしているような雰囲気を漂わせる。
「付き合っているんだし、キスをするのはおかしなことじゃないよ」
「そっ、そうかもだけど……」
彼女の言い分はもっともなんだけど、僕は光流の事が気がかりだった。
光流はこのことは知らない。
ほんの2時間前から始まった僕と夕夏の秘め事は世に言う『浮気』や『裏切り』というものである。
それに何の罪悪感も抱いていないというのは僕には無理だった。
「……しない?」
見透かす様な瞳の奥は僕には何も見る事ができない。
夕夏のしようとしている事の真の意味を探ろうとする。
それでも、僕は友達を裏切る最低な人間のようだ。
涼しげな格好を。折角の避暑ということで見るからに涼しい格好をする。
半袖に長ズボン。光流は下も短めの七部丈のズボンを穿いている。
夕夏に至っては避暑地のお嬢さまという言葉が似合いそうな、裾の長い白いワンピースである。
「何度でも言う。暑い」
真面目な表情で言い放ったのはやはり光流だった。
「サイクリング兼ねて行くってのはよかったけど。さすがに2人分漕ぐのはキツいって」
「じゃあ、夕夏に漕がせるのか?」
「惟輝が2ケツして漕げよ」
本来違法になっているのだが、見つからなければ何を言われる事も無い。
そう言って、最初2台しかない自転車に意気揚々と夕夏を後ろに載せて漕ぎ始めた光流だったが、暑さのせいか体力のせいか1時間ほどの移動で力尽きた。
「今から交代してもいいけど。もう着いてるみたいだよ」
目の前に広がる湖を見ながら伝える。
「帰りは惟輝が乗せてけ」
汗をダラダラとかいている光流の姿を見るだけで、正直御免だった。
それに彼女と僕の関係が生まれてしまったにしても、光流に対してバレてはいけない。
せめて、継ぎ接ぎになってしまった光流との友情を守りたいと思う自己満足。
「結構綺麗な感じだな」
目の前の湖は透明な水、ということは無いモノの、森に囲まれた中の中央に位置する湖の景色は圧巻だった。
辺りで釣りをしている人間やボートを漕いでいる人間が見えるが、それほど人は多くない。
「もしかして、この辺って人気無いんじゃないのか?」
自転車を近くの駐輪場に停めながら、気になって口にしてみる。
「どこも不景気とかって言うし、別荘の管理なんて大変だから手放す人間も多いんだよ」
「へ~」
答えた光流は他人事のように語る。別荘の所有者は光流の家なんだが……。
「来ては見たけど暇だな」
「まぁ、適当にブラブラするって話だったからね」
「ボートでも乗ろうぜ。俺乗った事ねーや」
「3人とかって乗れるのかな?」
水面を行くボートそれに乗っている人達は2人乗りしかいない。
「聞いてみっか」
3人でボート小屋に移動する。
湖に辿り着いたからか、涼しい風を感じながら歩いて行く。
レジャーエリアのような建物がいくつか建っており、多少“自然”という物を破壊しているようにも思えるが、最近ではどこも損な様なモノなのだろうと納得する。
建物の中にはおそらく自分達のような学生くらいの人達や家族連れ、年配の方々が多少いるようだ。
建物の端にある湖に一番近い小さな建物がボート小屋だった。
受付では30代くらいのそれなりに日焼けした男の人がいて、手慣れたように3人分のチケットを用意してくれた。
チケットを受け取ってボート乗り場に行くと、別の男の人がボートフックでボートを固定している。
「惟輝、先乗っていいぞ。お前漕げよ」
光流が指定する。どうやら先程の自転車の2人乗りが堪えているようだ。
「わかった」
恐る恐るボートに右足を乗せる。
思いのほか揺れないボートへ先に乗った右足に続いて左足を乗せる。
今度は全体重が乗ったからかつい数瞬前の揺れよりも揺れた。
ボートの真ん中、2本のオールがある位置に座る。
「夕夏いいぞ」
「うん」
長いスカートから足を伸ばし、ボートに移動する。
光流に腕を掴んでもらいつつの移動。ボートに体重が移動し、多少揺れる事で夕夏の身体も揺れる。
咄嗟に腕を伸ばして夕夏の腕を掴む。
夕夏がボート後方、僕と向かい合うように座る。
「大丈夫?」
「なんとか」
夕夏の状態を確認して、桟橋に残っている光流を見る。
だが、スタッフであるフックを持った男の人はフックを外し、そのまま僕ら2人を流してしまう。
「え?ちょっ」
慌てて立ち上がろうとするもボートが揺れる。
「俺、疲れたから中で休んでるわ。行ってらっさ~い」
光流は建物内を指さして大きなボリュームで叫ぶ。
ボートは水の抵抗力を受けて多少スピードが落ちたものの、岸から離れていく。
オールを手に取り、見よう見まねで漕いでみる。
水の抵抗を受けて思ったように動かない。水の中で重く、水上に出る頃には勢い余って水が跳ねてしまう。
「あ、ごめん」
「大丈夫」
多少水の上を漕いで、水の上に停まる。
「どうする?」
ボートに乗ったは良いのだが、光流がいない、ボートに乗らなかった為に微妙な空気になってしまったボート上。
夕夏も居心地が悪そうにそわそわしている。
「せっかくだし、乗っていようよ」
「わかった」
オールをしっかりと持ち直して漕ぎ始める。
澄んでいるという訳ではないので、水の中は見えない。それでも周りの緑や他のボートが水面に写り、とても綺麗だ。
「ボートに乗るのは初めて」
「僕も乗ったのも漕いだのも初めてだな」
慣れないオール捌きに四苦八苦しながらもそれなりに上達してきた感がある。
1時間という時間制限を設けられたボートだがやはり疲れは溜まるもので、湖の中心付近で停船する。
漕いでいる時もあまり会話が無かったのだが、停まって改まってみると更に気まずい空気になってしまった。
ボートに当たるわずかな波の音が聞こえるほどに静かに思え、周りにいるのは遠くにいる他のボートを漕ぐ人達だけ。
目の前に座る夕夏に視線が行く。
「……光流の事、好きなの?」
2度目の質問。
口にしてからより一層静けさが増したような、耳や目などの味覚以外の五感が鋭くなった様な気になる。
聴覚は周囲の小さな波の音や風の音を、視覚は目の前にいる夕夏と後ろの外観を強く分離する。嗅覚はこの湖とわずかに香る夕夏の匂いを、触角は風を感じる。
ただただ、目の前にいる夕夏に神経を注いでいる自分がいる。
「光流は―――」
夕夏の口からその答えが聞こえてくる前にポケットの携帯電話が鳴り響いた。
湖の上でもどうやら電波は届くようで、音に気付いた僕らは夕夏の言葉を先送りにした。
電話には母さんの名前が表示されており、通話ボタンを押す。
「もしもし、なにかあったの?」
電話を耳に当てて、用件を聞き出す。
小旅行中であるにも関わらず電話をかけてきたのは急用か、安否確認くらいだろう。
後者であると勝手に思い込んでいた僕は、母さんの言葉をすぐには理解する事ができなかった。
電話を切って、すぐにボートを岸に着けた。
夕夏を光流と合流させ、急いで駐輪場から乗ってきた自転車に跨り駅に向かう。
2人には何が起きたのか、僕がこれから戻ることだけを伝えた。
駅までの道はあっという間のように短く感じ、また永遠のように長く感じた。
自転車の持ち主である光流には悪いと一瞬思ったのだが、駅の駐輪場に停めて急いで家に向かう電車に乗り込む。
お叔母ちゃんが死んだ。
寿命なのか?
病気なのか?
そんなに差はない。
お祖母ちゃんの歳なら仕方が無いのかもしれない。
優しかったお祖母ちゃん。
どうして?
病気は一度手術で治ったって。
急に。
どうしよう?
病院。
お祖母ちゃんが死んだ。
寿命。
まだ80歳で。
仕方ない。
でもこの前会った時は。
だけど体が。
どうして?
頭の中はただただ、グルグルしていた。
現実であると受け止める事の出来ない思考と夢であってほしいという希望。
僕は見た。
病院で起きる事のないお祖母ちゃんを。
葬儀は粛々と終わり、四十九日も過ぎたある秋の日。
家ではお祖母ちゃんに関しての話が時たま持ち上がり、その度になにか込み上げていた。
お祖母ちゃんの事だがら思い出された方が喜びそうであり、僕ら家族や周りの人間が悲しむのを自分の所為だと思いそうだなと考えていた。
大学にも顔を出し、それなりに授業に出ている。
単位や授業のことなどあまり頭が回らなかったのだが、主に夕夏が色々と手を回してくれて無事に授業を受ける事が出来る。
高校までとは違い、友人の少ない僕に『腫れ物のように扱う』などということをする人間はほぼ居らず、むしろ友人である2人が一番気にしているようだ。
2人共、お祖母ちゃんとは面識があり、光流に至っては子供の頃から。
夕夏は恩師のように敬っていたように思える。
2人が悲しんでいるであろう事にも頭は回らず、向こうは僕に対して気を使ってくれる。
本当に2人が居て、良かったと心から思った。
「今日、飯何にするんだ?」
少しだけ無理に話を膨らませようとしているのでは?と考えてしまうが気付かないフリをして、それに乗っかる。
「僕はカレー」
「じゃあ、私もカレーにしようかな」
先に券売機で買った僕に続いて、夕夏も同じものを買う。
「俺はいつも通り日替わり定食~」
日替わりを頼み続ける光流。1ヶ月に同じものが出る事はないという、徹底した日替わり定食。
淡々と進む毎日。
以前となにも変わらない様な日常で生きていく。
毎日が変わらず、いつまでもこのままでいればいいという願い。
それもいつかは終わると、お祖母ちゃんが教えてくれた。
いつか、大事な時間というのは過ぎてしまう。生まれてからお祖母ちゃんと居た時間は長かった。
両親と暮らしていたのと同じ時間を過ごしてきて、大切であると認識していた。
居なくなって本当に大切だったのだとわかった。
そして、僕はあれから偶に考えてしまう。
友達を裏切る様な馬鹿な事をしたから、その罰なんじゃないか。
何の関係も無い事をマイナスの方向に繋げてしまった。
それは、本当に何も関係が無い。
でも、大切なのはお祖母ちゃんだけではない。
だから、しっかりと伝えなければいけないと思った。
「なぁ、光流。話があるんだけど」
黙々と日替わり定食を食べている光流。
「なんだよ?改まって」
「食べ終わったら話せないか?」
「べつにいいぞ」
光流はこれから打ち明けようとしている事に関して、気付いていない。
それは日数にして1日にも満たない、裏切りだ。
僕にとっても、存在しなかったとしか思えないような短い時間だった。
それでも僕は伝えなければいけないと思う。
伝えて楽になりたいという考えがある。
夕夏が少しだけ僕を見た事には気付いていた。
どういう内容の話を僕がしようとしているのかを、彼女は気付いたのだろう。その上で彼女は何を思っただろうか。
夕夏はまた、正面を向いてカレーをゆっくりと食べる。
人の減った食堂。多少声が響くものの、誰に聞かれるという事はないだろう。
改まって、光流の顔を見て僕は意を決する。
「僕は夕夏と付き合っている」
「……ん?」
それなりに早く疑問の返答が聞こえてきた。
「夕夏と付き合ってるんだよ」
「ふ~ん」
今度は軽く応えた。
「……なにか、言いたい事があるんじゃないのか?」
正直、どこぞの青春モノの映画のように殴られる事も覚悟した。
二度と喋る事も出来ないほどに怒るのではないかとも思った。
しかし―――
「まぁ、いいんじゃないのか?」
あっさりとした対応だった。
訳がわからない。
「え?」
「いや、だから付き合ってるんだろ?いいんじゃないか?」
「……なんで」
「少し前に、俺の方にも色々あって別れる事にしたんだよ」
別れた?
「まぁ、お前も婆ちゃんの葬儀とかで色々あったろ。その間に、俺の方にも色々あったって事だ」
光流と夕夏が別れた。
普通なら一悶着あるような事をしたのに、それが何事も無い事に何故か釈然としない。
「いつから付き合ってるんだよ夕夏と。最近までは元気なかったろお前」
「え?ああ、夏休みに別荘行った時。初日の夜に告白して……」
「……それまだ俺付き合ってた頃じゃねぇか」
光流の握りこぶしは軽く、僕の右肩に触れた。
「まぁ、もともと夕夏はお前の事しか見てなかった訳だけどな」
「バラさないでよ」
光流の言葉に対して発せられた言葉は一度食堂を出て行った筈の夕夏だった。
気になって食堂に戻ってきたのだろう。そしてこっそりと僕らの会話のやり取りを聞いていた様だ。
「普通彼女が浮気してたら激怒するだろ」
夕夏の顔を見て、そのまま会話を続ける。
「まぁ、正直上手く行ってなかったし。そんなもんだろうな」
「なんか、よく分らなくなってきた」
自分の頭はそれほど優秀ではないようだ。すぐに頭が真っ白になって処理が追いつかなくなる。
とりあえずわかるのは、僕たちは3人だ。