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引っ越し回その2です。
輸送機はすごいうるさくて、災害避難時にクレームが出たとか出ないとか…
内装とかないですもんね。
エルシーさんもビヴさんも存外冷酷な人たちです。
二回目となった軍用輸送機での移動はぼくとエルシーさんにビヴさんの三人でこのあいだのようにブライズ・ノートン基地まで向かった。
東京〜ロンドン急行は定期便らしく様々なものを運んでいるようであった。
乗ってすぐに少し眠った。目が覚めてとなりを見るとリデル嬢あらためエルシーさんが眠っていた。ビヴさんは席を立っていて、空席だった。
ぼくも席を離れた。備え付けの小さなキッチンでお湯を少しもらってインスタントコーヒーを淹れた。席に戻るとビヴさんが戻っていた。
「コーヒー?」
「ええ。飲みますか?」
「インスタントならいらない。」
顔をしかめて、真っ赤な舌を出したビヴさんは足元のボストンバックからかりんとうの袋を出して一つ口に運んだ。
このひともエルシーさんに負けず劣らず、表情がコロコロと変わる人である。エルシーさんと同じくらいか少し若い感じで、もっと華やかな仕事の方が向いているのではないかと思えるほどの褐色の肌の美人だ。
「日本のおかしはおいしいね。」
「そうですね。」
「あの子のこと、気になる?」
「あの子って、ファミレスの元カノの方ですか?」
「君も元カノとかって言葉使うんだ。」
くすくすと笑いながら、ビヴさんはぼくにもかりんとうをすこし分けてくれた。ザラザラしたインスタントコーヒーの苦さがかりんとうの黒蜜の甘みによって打ち消された。
「ええ、まあ。それよりもこのかりんとう、すごくおいしいですね。」
「お気に入り。千駄ヶ谷で売ってるの。そこのおばちゃんもスィートだよ。」
「そうですか。で、彼女はどうなりましたか?」
「そうだった。もう会うことはないよ。大丈夫。」
笑顔で端的に報告してくれたビヴさんに寒気がした。どうしてもう会うことはないと保証できて、何が大丈夫なのだろうか? 彼女たちの仕事のことも考えるとどうしてもいい方へ思考が流れてゆかない。
「そんな言い方じゃあ、かえって不安ですよ。なんか恐ろしい想像してしまいそうです。」
「ん? 大丈夫、大丈夫。こんなことで処分しないから。」
「なんか不安だなぁ。」
「ひと、いいね。『ヤリィノーゴゥンザ カサネノカタビィラ』? ちょい違うね。ギリシア悲劇のパイドラ?」
「ごめんなさい。ビヴさん、ぼくにはどっちもわからないですよ。」
「いいよ。心配ない。法律にまかせた。」
ビヴさんの声にエルシーさんがもぞもぞと体を動かして、ぼくを恨めしげに見上げた。
「もう少し寝ていてもいいんですよ。それと鑓の権三重帷子は文楽の演目ですよ。不義密通を疑われた侍の妻と若い侍が夫に討たれることで名誉を守る内容です。パイドラはテセウスの後妻で彼の息子によこしまな欲求を抱いたけど、嫌われて、夫に息子に暴行されたと嘘を言って自殺して、テセウスは息子を殺すというギリシア悲劇です。」
「はぁ、詳しいですね。」
「教養ですよ。と言いたいところですが、たまたま知っていただけです。どちらもあなたのケースとは違いますよね。ともかく、彼女は妊娠期の精神的な不安定感より極端な行動をとったということで今は入院されていますよ。退院される頃にはあなたの後を追跡することはできないようにしています。」
「でも、携帯電話は変えていないんですけど。」
「確認してみてください。」
「あっ、あれ? 電話番号からメアドまですっかり変わっているけど、これはどういうことですか!?」
「SIMを取り替えています。しばらくは友人などへの連絡は控えてくださいね。」
「いや、連絡を取るほど友達は多くないので、大丈夫ですけど…気がつきませんでした。」
「一応、プロですから。」
眠そうにシートの上で丸まり、ブランケットを頭にかぶってもぞもぞとエルシーさんが答えてまた寝息を立てた。
ふと疑問が浮かんだが、今のエルシーさんに尋ねることはできないでビヴさんに聴いてみた。
「向こうからの連絡は大丈夫なんですか?」
「転送でオッケー。受ける範囲はこっちできめてる。」
「それはいいですけど…なんか、ビヴさんやエルシーさんの世界を娯楽で見たり知ったりするにはいいですが、自分が渦中にはいるのは結構不安ですね。」
「ん。でもなれるよ?」
なぜ疑問系なのか。
西の端っこに到着して、眠たいぼくはレヴァンの後部座席で靴を脱いで横になっていた。エルシーさんはぐっすり寝ていたから、そしてビヴさんは若いのでどちらも元気そうだ。
何とは無しにロンドン方向に向かっているのだけはわかった。
目がさめると、オックスフォードにいた。
ぼくらがこれから住むところは元々、馬小屋だったコの字型の建物をフラット、玄関などを共用にしたアパートを一棟丸ごとだった。馬の出入り口だった大きな扉はそのままガレージになって、コの字の空いている部分は小さな庭になっていた。
イメージとしては昔の木造で四畳半一間の共同住宅を思い浮かべていたが、作りはシェアハウスといった趣で一人二間、ベッドルームと居室をもらえ、キッチンとリビング、バスルームは共用になっていた。
「たしかこういう家をミューズハウスっていうんですよね。あとエルシーさんとビヴさんが一緒に住まわれるのですか?」
「ええシェアさせていただきます。私たちは東京への配属が決まった時にイギリスの住まいは返還していますので、ここにしました。」
「一応ぼくも男性なのですが。」
「存じ上げていますよ。でも日本と違って男女のシェアってよくありますよ。」
「そりゃ、アメリコの西海岸や北欧ではありふれているでしょうけど、こっちだってそれほど開明的ではないでしょ?」
「気にしないから、ダイジョーブ。」
「ビヴさんはそんな感じですよね。でもエルシーさんはなんか裏がありそうで怖いんですけど。」
「ずいぶん失礼ですね。…保安上の理由が一番ですよ。」
「でもこちらに来てしまえば、もう大丈夫でしょう?」
「これから私たちにホームレスになれと?」
「そういう訳ではないですが…… はい、わかりました。言えないこととかがあるんですね。」
これ以上は何も言うなとビヴさんが唇に人差し指を当てた。ぼくは首を振り、肩をすくめた。エルシーさんは微笑んだ。ここ数日間の自分の人生を自分でコントロールできない感は異常である。
エルシーさんも仕事柄、いろいろなことをしていると思うのだが、ナイトの娘が男とシェアハウスって悪い評判が立たないのだろうか? 車内でのビヴさんの情報漏洩の時の表情を思い返すと、聞いてはいけないことなのだろうと空気を読んでみる。
夕食は驚くべきことかと言うか、ビヴさんが作ってくれた。
日本風のポークカレーとなぜかあった土鍋でお米を炊いてくれた。カレーのルウは日本で一番使われている市販品の甘口だった。具はゴロゴロとした豚肉と大きめに切った人参とジャガイモ、そしてあまくなるまでじっくりと炒めた玉ねぎとなんのきもてらいもない。
それをとても美味しい炊きたてご飯にかけて食べるとかすかに醤油の隠し味がして、泣けるほど家庭の味だった。
「簡単なものだけだよ。」
「いえ、こう言うのが一番うれしいです。」
「むぅ。ビヴは万能なんですよ。」
「そんなことないよ。」
「いえ、本当にこんな普通の家庭の味をおいしく作れるのなら、お嫁に行っても大丈夫ですよ。」
「カレーでこんなほめるひと、めずらしいね。」
「当てつけのように聞こえます。」
「エリーはイングランド人だから。味がホーカイしているから仕方がないね。」