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雇用契約です。
「顔色が良くないですね。応接室に戻りましょうか。」
リデル嬢に背を押され、ぼくたちはこの場を離れた。熱い紅茶に彼女はたっぷりの砂糖とミルクとブランデーを入れてくれたおかげでカップの表面張力が限界だった。
色々と足したおかげで、紅茶の温度が下がり、一気飲みができた。喉に伝わる熱い感覚が胃の中に落ち、腹を温めた。
「大丈夫ですか?」
「ええ。なぜ、ああいうことをしたのでしょうか?」
「長命、壊れない兵隊、ただ知りたかっただけ、どれもが当てはまると思いますが、今となっては不明です。」
リデル嬢は肩をすくめた。
「なぜ、公表しなかったのですか?」
「あまりに衝撃的であることがいちばんの理由です。現状であの子たちを生かし続けるのか、召されてもらうのか、どちらかの選択肢しかないとして、誰が決めることができますか? 政府にそんな法的権限はありません。子ども達に判断を求めますか? それとも民主的に決を採りますか? どちらにしても世界中の人間の罪を重ねるだけです。」
リデル嬢はその仮面を少し外してしまったようだった。ぼくは目を閉じた。大きく深呼吸をした。
「確かに、知ってしまうとさがることはできませんね。」
「では?」
「ええ。できる範囲で。」
「ありがとう。よろしくお願いします。」
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
リデル嬢は大きく息を吐いた。
「結構です。ここの工房に再就職後も、しばらくは私も付き添います。」
「え?」
「気心の知れた人がそばにいると便利でしょ。」
リデル嬢はウィンクをしたが、もう少し空気を読んで欲しいと思った。
ぼくたちが地上に出ると薄曇りの夜空にぼんやりとした下弦の月が浮かんでいた。
リデル嬢とぼくはまた彼女のトレイランフ レヴァンに乗り込んだ。
「お疲れだと思いますが、このままロンドンまで戻ります。」
「ホテルは取っていないんですか?」
「ええ。ちょっと安全重視でゆきたいので。」
「そんなに防諜が必要なんですか?」
「ややこしい言葉を知っていますね。答えははいです。」
どういう理由で防諜が必要なのかはわからないが、私的なこととはいえ、人に襲われる恐怖を短期間で何度も味わいたくない。ぼくは彼女に従うことにした。
リデル嬢はハンドルを握りながら、器用に肩周りを動かしてコリをほぐそうとしていた。朝の十時に家を出て、厚木の空軍基地からロンドン近郊の空軍基地まで十三時間、そこから約二時間半で研究施設。三十分ほど見学してまたロンドンまでか。
家を出て、ホテルに着く頃には二十一時間ほど経つのか。飛行機の中で寝ていて良かったが、体内時間はボロボロだ。
何日の何時だか、もうよくわからなくなってしまったが、東京とロンドンの時差は八時間だから多分、当日の午後十一時になる。
仕事とはいえ、よく頑張っていると思う。
居眠り運転をしてもらわないようになるべく車内では起きていようと思っていたが、ついうとうとと寝てしまったらしい。
リデル嬢に肩を揺らされて目を開けるとそこはロンドン近郊の住宅街にある普通の住宅だった。
「着きましたよ。」
「……ホテルじゃないんですか?」
「さすがにチェックインする時間ではありませんね。私の家ですから気を使わなくても大丈夫ですよ。」
「いま、なんと?」
「時折戻ってきていますので、きれいですよ。」
手を引かれて中に入ると確かに掃除が行き届いている様子が見られる。それほど大きくない典型的なヴィクトリアン様式の構造で、リビングには分厚いソファがあり、ぼくはそこに腰を下ろした。
「なにか食べますか? と言ってもできるものは限りがありますし、東京と違って宅配はもうやっていませんけどね。」
個人的時間感覚では今日は飛行機の中で食べた多分レーション、戦闘糧食と思われるパッキングされたビスケットとミルクティーが唯一の食事らしいものだったような気がする。
「おなか減りましたよね、ね。」
なぜ、念押ししてくるのかわからないが、確かに何か食べてから寝たいものだ。
「軽いものがあればお願いしたいです。」
「かしこまりぃ。」
リデル嬢的にも体内時計が深夜なのか、変なテンションでキッチンに消えていった。
大きなため息をついて、首を回すと恐ろしい音がした。
いくつか、考えなくてはいけない。
鉄の棺に閉じ込められた寄宿舎か。どれだけイかれた発想なのか。子ども達に体を与えるといってもそんな簡単な話ではあるまい。一から作ることになるかもしれないというか、そんなことが実際にできるのか?
そしてどれだけの時間をもらえるのか?
いくつかのパターンを考えながらも、ふとこの国、グレートブリテン及び日本連合帝国にとって、子ども達に体を作るメリットというものに考えが至った。
どこの国かはわからないが、子ども達に行なった実験は完全に人類に対する犯罪というものの一つだ。だが、これだけ様々な組織が動いているのは、正義や福祉という言葉だけでは納得しにくい。
悲しいことでもあるが、未だに帝国を名乗るこの国はそこまで優しくはない。子どもたちを助けることで何らかの利益を得ることができるのだろうか?
そこまで考えていたところにリデル嬢が湯気の立つ二つの皿をトレイに乗せてキッチンから出てきた。
「難しい顔をしていますね。」
「ええ、色々と考えることが多いもので。」
「お腹が空いて、疲れているといい考えは浮かびませんよ。タバスコと粉チーズは自分でどうぞ。」
鮮やかな黄色の皿にはさらに鮮やかな赤いナポリタンが盛り付けられていた。
「本当に好きなんですね。この短い時間に作ったんですか?」
「残念ながら、冷凍食品です。こればっかりは東京にゆかないと売っていないので、戻るたびに大量に購入しています。」
「そうなんですね。ぼくとしてはナポリタンにはリデルさんとはあまりいい思い出がないのですが。」
「ああ、そうでしたね。ちゃんと着替えてきたから大丈夫ですよ。」
確かに先ほどまで着ていたスーツから見るからに楽そうなニットワンピースを着ていた。
「ふいんきがかわってちょっとドッキリしました?」
「ドッキリはしませんでしたが、カジュアルな姿もお似合いですね。」
「ふふふ。ダメですよー。あっ、スーツ。」
「スーツ?」
「はい。あれ、有名なところのスーツだったんですよ。明日、ショップにゆきましょう。お願いしますね。」
「有名なんですか?」
「まあ、そこそこ。それなりに。」
「あなたのものより、ぼくの着替えが欲しいのですが。」
「では一緒に買いましょう。それより冷めてしまいます。早く食べましょう。」
そういうなり、彼女は相変わらずガツガツと上品に食べはじめた。ぼくもフォークで麺を巻いて、食べはじめた。
食べ終わり、一息をつくと途端に眠気がおそってきた。
「変なものは入れませんでしたよね。すごく眠いんですけど。」
「本当に眠たいだけだと思いますよ。私もそうですから。」
返事をした彼女の瞼も半分ほど落ちていた。二階のゲストルームに案内され、一人になったぼくはスーツとネクタイ、シャツを脱いだところで限界がきた。ベッドに倒れこむように横になり、布団に潜り込むと柔らかい花の香りに包まれた。
「あぁ…セーフハウスなんだ…こ、こ……」