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ちょっとホラー風味。
次の日、一人で目を覚ましたぼくは少しがっかりした。
携帯電話には恐ろしい量の元彼女のメールと着信があり、適切にゴミ箱へと処理をした。事情を知らない友人たちからも彼女の話だけを聞いて、ぼくに復縁をさせようとするメールもあったので、彼らには改めて報告のメールを送信した。
午前十時。することもなくコーヒーをすすりつつ、昨日の空名刺を眺めていた。
午後三時。引越しと電話番号の変更を思いついたが、昨日のこともあり、少し待つことにした。
午後十時。知らない表情をしたよく知っている女性が玄関先に立っていたので、警察に連絡をした。
柳葉包丁を手にしていたらしく、警官が事情を問うと刺身を作るためだと語ったらしいが、彼女の手にもぼくの家の冷蔵庫にも新鮮な魚はなく、元彼女は警察署に同行を求められていた。
ぼくも事情を問われたので、正直にぼくの友人/(職場の同僚かつ既婚者)の愛人を続けながら、ぼくと結婚をして、ATMにしようと考えていたので、婚約を解消したと話した。パトカーに押し込められる直前に「お腹に子どもがいるの!」などと叫んでいたのがいっそホラーだった。
次の日、朝から元彼女の両親がやってきた。
母親の方はぼくを睨みつけ、何やら、ぼくが適切に彼女と接しなかったために起こった事故で全てはぼくの責任だと声高に主張していた。ぼくはA4の高級紙に印刷した元彼女と元友人の不適切な写真とともにこの事実が疑われた時に仕込んだカメラに映し出されていたムービーをパソコンのモニターで再生したところ、元彼女の母親は黙り込んだが、すぐに男の度量を見せるべきだと言い放ち、夫に強制的に黙らされた。
子どもに関しての元彼女の言葉は本当だったそうだ。
彼女は育てることを決めているそうで、出産後すぐにDNA鑑定に出すとのこと。あと慰謝料の話をされた。ぼくは鑑定には一応同意し、慰謝料はいらない代わりにぼくへの接近を禁止する命令を裁判所に出してもらうことを提案し、同意してもらった。この部屋のものは彼女の服以外はすべてぼくのお財布から出たものなので、服だけ引き取ってもらうことにした。
ちなみに月齢を聞いた。その前後はケンブリッジの関係先で缶詰になっていたので身に覚えがない。きっと元友人の子どもだろうと思うと答えた。
三日目、アリスちゃんというとかわいいが、失礼にあたりそうなのでリデル嬢というが、彼女からの連絡はなく、その代わりに元友人の妻で大学時代に同じゼミ生だった桐林那由多から連絡があった。
那由多はぼくが研究所を退職したことを知らなかった。近所のファミリーレストランで落ち合った彼女は半年ぶりの再会だったが、以前よりも痩せていた。
だが、驚いたことに彼女はぼくの頰に手を差し伸ばし、涙を浮かべた。
学生時代から親しかったが、ボディタッチするほど仲が良かったわけではない。でも彼女は「ひどい顔。」と何度も繰り返して頰を濡らしていた。
二人とも季節限定のパフェを頼み、口にしたくもない近況を伝えあった。
那由多は離婚を決めたと話していた。子どもがいないのが幸いと微笑んだ。ぼくからはささやかなお祝いに離婚の交渉が有利になるように手持ちの証拠を包み隠さず渡した。那由多は確認もせずに受け取った。
元友人はぼくとは違い、コミュニケーション能力もあり、プロジェクトの結果も出ていたので、終了までいるそうだが、すでに針のむしろだそうだ。元彼女と結婚すればいいのにと漏らすと、那由多はいい笑顔でそんな楽な結末は迎えさせないと言い放った。
女は怖いと那由多を見送り、ぼくはついでに食事も済ませようとメニューを眺めた。いろいろと迷ったが、自分では作れなさそうなビーフシチューを頼んだ。ウエイターが去るとアリスちゃんじゃなかったリデル嬢がぼくの向かい合わせの席に滑り込んだ。
すこし視線を感じたが、それはリデル嬢のせいというより入れ替わりで妙齢の女性が座ることへの違和感だろう。実際にこのレストランにはアイルランド系と思われる赤毛の男性の客やカリブあたりが出身の女性のバイトもいる。
「彼女と別れた直後に不倫相手の妻との密会ですか?」
「端的に話すとなかなか爛れた印象を受けますが、彼女、那由多は学友でして、離婚するというので、彼女に有利な証拠を渡しに来ただけです。」
「その割にずいぶん親しげでしたね。」
「ぼくも驚いています。……そんなにひどい顔をしていましたかね?」
リデル嬢はメニューを城壁にして、目だけ覗かせていた。
「現在進行形でひどいですよ。結婚相手も仕事も取られたとなれば、あながち頷けないこともないですが。」
「ずいぶん詳しいですね。この間はそこまでお話ししたつもりはありませんでしたが、調べていました?」
「どこのカンパニーでも同じだと思います。」
「会社なんですか? それとも合衆国のちょっと言えない機関?」
「妙なところで詳しいですね。違いますよ。一般論です。高度な先端技術の知識を必要としたり、特許やデザインに関わるようなお仕事に身元調査は当たり前ですよ。」
「そうだったんですね。で、どんなご用ですか?」
「どうぞ。ビーフシチューです。」
先ほど目に入ったヴァージン諸島あたりから来たと思われる黒い肌に大きなおでこをして、コケティッシュな表情の美女がやって来た。
リデル嬢は彼女に追加でアイスレモンティーとナポリタンを頼んだ。ウェイトレスは手にしたPADに入力して頷いた。彼女が立ち去るとリデル嬢は鼻にしわを寄せてぼくを見つめていた。
「女性がお好きなんですか?」
「…人並みだと思っていますが、なぜ?」
「まあ、よいプロポーションをしていると思います。東京にいると私たちも体型の維持にそれほど困らないですみます。」
「こんなところでバイトをしているにはちょっともったいないというか、不釣り合いだなと思っただけです。それより、先ほどの質問ですが。」
「ええ。私たちにあなたの知識を貸していただきたいと思っています。」
「ぼくが知っていることは、誰でも知っている程度のことですよ。」
「そのようですね。でもそれらを統合して、形にすることまで視野に入れている方はあまりいないんですよ。個々の技術やパーツぐらいですね。全身を作ろうだなんて…」
「夢想家か、詐欺師か、愚か者でしょうね。」
「夢想家と愚か者は重なりませんか? 私たちはそれに興味がありまして、何にかの専門家にあたってみました。ロボット製作者やサイバネティックスの研究者の中にはそれを考えている人はいました。でも今はできないとみんな言います。少なくとも自分たちの世代では無理と考えています。」
「でも、それに手をつけないといつまでたってもできない。」
「ええ。そう思います。また、必要性がないと考えている方もいました。染色体異常に関しては事前に高確率で予測できますし、疾患に関しても様々なアプローチでの治療法が競い合っています。事故などでもこの前お話いただけたようなことでできる可能性はあります。」
「そうでしょうね。」
「ですが、それだけでは無理な場合もあるのです。本当にごく少数でしょうが、そのためには一歩でも先に進めたいと考えています。」
「様々な危険性はあるとぼくは考えています。倫理性はもちろんのこと、政治的、軍事的にも」
「倫理性に関しては私ごときがお応えはできかねますが、常識を持って進めるのならば良いと思います。あとの二つについては…まあ、最低限の安全保障をつけることができると考えています。」
「…………」
「どうぞ。ナポリタンとアイスレモンティーです。」
「ありがとう。」
話しすぎて喉が渇いていたのか、リデル嬢はレモンティーを一気に半分ほど飲み干し、猛然とナポリタンに取り掛かった。彼女は器用にすすらないで熱いパスタをガツガツと食べた。
「ふぅ。こちらはどこで何を食べてもおいしいですね。祖母に言わせるとロンドンもだいぶマシになったそうですが、比較する方が失礼ですね。あと、イタリア人はこだわりすぎだと思います。これはナポリタンという食べ物であって、パスタじゃないんです。ナポリタンを食べないなんて人生を損しています。」
「インド人に牛や豚のカレーを勧めるようなものですかね?」
「インド人に怒られますよ。彼らは怒ったら日本人の次くらいに怖いですよ。」
「そうなんですか?」
「数が違いますから。何千、何万人もの人が拳を振りかざすことなく、声を荒げることもなく、でも暴力も恐れないで、ただ抵抗する様子を考えてください。後から後から湧いて出たように来るんですよ。同じ数が多くても、劣勢になればクモの子を散らすように逃げ出す大陸のコミーの方がよっぽどマシです。」
「よくわかりませんが、見てきたように話されますね。」
「私の一族はあれには関わっていません。あんなのに関わっていたなんて恥以外の何物でもありません。」
今にも床に唾を吐き捨てそうな表情で語ったリデル嬢は「で、どうします?」と尋ねてきた。
「あとは条件面ですか?」
「それに関しては、後ほどということで明日にでも見学に来ませんか?」
「見たら、後には戻れないなんてなしですよ?」
珍しくリデル嬢の目が泳いだ。
「いやいやいやいや。それはないですよ。アリジゴクのようなひどいトラップじゃないですか。」
「私の権限ではこれ以上の説明はできません。あとは見ていただけるのが一番だと思うんです。このままのんびりと暮らすという選択もあるとは思いますが、引きこもりは身と心の健康を害しますよ。」
「ニートは憧れだったんですが。」
「学歴をお持ちの段階でニートの基準から外れてしまいますよ。勤労は義務です。」
ぼくはため息をつき、水を口に含んだ。
確かにこのまま、高等遊民を気取ってふらふらと生き続けるほどの経済力もツテもないし、何より自分が腐りそうで嫌な感じだ。でも正直、様々なことがありすぎて心が疲れてしまっているのも事実だ。リデル嬢が期待を込めてぼくを見つめていたので窓に目をそらした。
そこには元彼女が映っていた。
髪をセットし、ナチュラルに見えるメイクをし、まだ若干寒いのに夏物のようなミニのスカートの元彼女は足早にレストランに入ってきた。席を伺おうと声をかけた日本人の若い男性バイトを突き飛ばし、右手をコートのポケットに入れた。
まずいと思ったが、リデル嬢もいる。シートとテーブルが固定された席は立ちにくい。
「しょぉぉぉたぁぁぁぁぁっ!!」
まるで彼岸から此岸に呼びかけるような叫び声をあげて駆け寄ってきた。
ぼくはリデル嬢をテーブルに押し付け、上から覆いかぶさった。
来ると覚悟していたが何もない。ぼくの胸の下でリデル嬢が苦しそうに声をかけた。
「大丈夫ですから、どけていただけませんか?」
起き上がると先ほどのウェイトレスが元彼女を床に引き倒し、押さえつけていた。少し離れた床には出刃包丁が転がっていた。どれだけ包丁が好きなのだろうかと一瞬考えた。
大きくため息をついたぼくはシートに倒れこむように座り、ウェイトレスに声をかけた。
「その人、妊娠しているそうなので気をつけてください。」
「ちょい、むずいね。」
気楽な声で返事した彼女は目で辺りを見回すと他の席にいた若いお母さんたちがそばにやってきた。彼女らとともに暴れる元彼女を抑えて、手早く結束帯で両手を固定し猿ぐつわを噛ませた。そして店の奥へと慣れた様子で連れ去っていった。
ウェイトレスとママ友の会が店の奥に去り、席に残された赤ちゃんたちは大丈夫だろうかと思ったが、いつのまにか赤毛の大きなお腹をした男の人がやってきて、ガラガラを振っていた。
改めて正面のリデル嬢に目を向けると崩れた髪型を直して恨みがましい目つきでこちらを見つめていた。
「ありがとうございます。ですが、スーツが汚れてしまいました。」
確かに彼女のクリーム色のジャケットにはべっとりとケチャップがついてしまっていた。
「これはもう弁償してもらうしかありません。」
「命の値段よりは安いでしょう?」
「あのですね。危ないとわかっていて、わざわざあなたを人目につくようなところに行かせるわけがないじゃないですか。」
ゆっくりと頭が働いてきた。あのママさんたちを見ればすぐにわかるようなものだ。
「じゃあ、那由多もグルなんですか?」
「彼女は知りません。あなたと彼女がこの店に待ち合わせを設定したので、慌てて安全を確保できるようにしました。あと、あなたは私のことをちょっとあれなエージェントと思っていそうですが、人の耳がたくさんあるようなところで具体的なお話をするわけがないじゃないですか。」
「…………そんなことは思ってないですよ。あと盗聴されていたんですか? まぁ、結果的には命を救っていただいたのですから許しますけど。」
自分でエージェントと言っちゃう段階でどうかと思うのだが、それはともかくとても配慮していただいていることだけはわかった。
「ありがとうござました。」
「いいえ。わかっていただけたようで嬉しいです。」
リデル嬢はにっこりと微笑んだ。