表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/5

置き去りの心(2)

<1>

 

 職員室での校長の話が終わった後、聡史は始業式で集まる全校生徒の前で、自分が新しく校医とし赴任してきたことを挨拶した。

 しかし、案の定人前で話すことが苦手な聡史は、緊張しすぎて全校生徒の笑い者になってしまった。あせった校長が、「野依先生は南青山医科大の優秀な外科医である」という事を告げ、全校生徒は水を打ったように静まり返ったが、きっと生徒たちの目には「覇気がなく根暗な医者が来た」というぐらいにしか映っていなかっただろう。


 始業式が終わると、担任を持っていない水野に、聡史は学校の校舎を案内された。

 始業式があった体育館から、学食、グラウンド、図書室や視聴覚室など、おおよそ校医の聡史にとっては入ることもないだろうと思われる学校の隅々まで、水野と歩き回った。


 校舎を案内されている間、二人は高校の頃からの思い出から始まり、高校の卒業後の自分たちの事など色々な話をした。


 群馬の前橋一高を卒業した後、聡史は、前橋で小さな診療所を開いている父の意思を継ぎ、一浪の末に南青山医科大に合格して、医師の免許を取得した。その後、父の診療所に戻ることも考えたが、研修医時代にオペの魅力にとりつかれ、そのまま大学病院に残り、第二外科に入局した。

 そして、水野は推薦で群馬の体育大学に入学して、そこで陸上に明け暮れながらも、教員の免許を取得した。大学卒業後は、群馬の高校で講師を務めながらも、五年前、思い立ったかのように東京へ行くことを強く希望し、この表参道女子高等学校の体育教師として赴任してきた。高校時代から短距離で陸上界に名を残していた水野だったので、表参道女子高側は、彼女を喜んで受け入れた。


「はぃ、のっちゃん、ここが医務室よ。今日から、ここがのっちゃんの病院になるんだね」


「……病院だなんて、おおげさな。僕はただの校医だよ」


 水野は、聡史を医務室に案内すると、感慨深そうに医務室をぐるりと眺めた。


 医務室は、これから聡史が使うであろう少し大きな診療用の机と椅子、患者用の回転椅子が一台、奥にはカーテンで仕切られたベットが2台置かれていた。また、聡史が見慣れた医療用の精密機器も数台並んでいた。 

 また、そこは校舎の1階にあることから、その窓からは、校門から校舎の入り口に繋がっている並木のような美しい景色がよく見えた。


「へ〜、のっちゃんが読んでる本って、やっぱ難しそうな本ばっかだね」


 聡史が水野には気にも止めないで、鞄の中から医学書をせっせと取り出し、自分のデスクに並べていると、水野は関心しながら、聡史が机に並べたい医書の幾つかを、手に取りページをめくりだした。


「あれ、これも、のっちゃんの本……?」


 数冊の医学書の山の中に、ふと埋もれていた1冊の本に気づいた水野は、それを手に取り微笑んだ。

 その本は、先日病院で黒い髪の少女が落としていった『星の王子さま』だった。


「へ〜懐かしい、のっちゃんもこんな本読むんだね」


「……水野には関係ないだろ」


 聡史は、それを水野から取り上げると、それが今にも壊れてしまうものかのように、大切そうに見つめる。


 ――吸い込まれてゆきそうな黒々とした清らかな瞳……

 ――そしてそれとは対照的に浮かぶ寂しげな表情……


 夢か現実だったのかも分からないような、あの時に聡史が感じた『永遠の一秒』

 しかし、それは確かな現実だったと告げるように落とされていた1冊の本。


「水野、学校の案内いろいろありがとう。少し疲れたんで一人にさせてくれないか」


 『星の王子さま』をいきなり自分の手元から聡史に冷たく取り上げられた水野は、さっきまではしゃいでいた表情とは打って変わり、一瞬困惑と悲しみ似た表情を浮かべる。

 しかし、そんな水野の表情の変化にはまるで気づかない様子の聡史は、窓際の診療用の椅子に腰掛け、『星の王子さま』を大切そうに机の上に置いた。


「はは……、そうだよね。慣れない女子高でのっちゃんも疲れたか。昔から、のっちゃん人見知りだったんで、慣れない他校に試合とかに行ったら、人一倍緊張して疲れてたもんね」


 水野は、曇らせた表情を、何とか笑顔に作り変え、聡史の身体をぽんぽんと叩いて、医務室のドアに手をかけた。


「……今日は、のっちゃんに逢えて嬉しかった」


「……あぁ」


 医務室の扉が小さく音を立てた後、水野の姿は消えていった。

 最後に水野が残した言葉は、今までの聡史が知っているお調子者の水野から放たれる言葉とは少し違い、どこか切なげで女を感じさせるような言葉だった。


 医務室で一人になった聡史は、窓にもたれかかり『星の王子さま』に感慨深そうに目を通していた。


 窓からは、始業式も終わり校舎から校門への美しい並木道を歩く生徒たちの姿が、横目に見えた。

 すると、並木道を行きかう生徒たちの中に、例の黒髪の少女が歩いているのが聡史の視界に映った。

 なんと、あの少女は表参道女子高の生徒だったのだ。


 聡史は思わず追いかけたい衝動にかられ、医務室のドアを勢いよく開き、まっすぐに伸びた廊下を校舎の出口に向かって走り出した。


「ちょっ、どううしたのよ、のっちゃん!?」


 まだ、医務室の前の廊下をとぼとぼと歩いていた水野が驚きの声を上げるが、聡史の耳には全く聞こえていなかった。

 ただひたすらと何か駆り立てられられているかのように、長い廊下を懸命に走った――。


 ――朝の職員室で……

 体育教師が言っていた

 生徒の心を置き去りにしているのが

 今の教育システムだとしたら

 僕の心は

 社会というシステムの中で

 いつしか置き去りにされていたのかもしれない。

 そして、誰かがその心を拾い上げてくれんじゃないかと

 ただひたすら時が流れるのを待っている

 あの時の僕は……

 きっと、生徒たちより子供だったんだ



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ