星の王子さま
<1>
冬の夕暮れの西日が、真っ白い壁に囲まれた無機質な部屋の窓から差し込んでいた。
「野依君、君は我が医局に入局して何年だ?」
野依聡史は、窓から差し込む夕日が、自分の前に背を向け堂々と立っている男から放たれる後光のように感じ、その男の声に萎縮した。
「5年です、小沢教授」
「ほぉ、もう5年も経つのか……」
――ついに自分にも来たか。
聡史は心の中でそう呟やき、小さなため息を漏ついた。
後ろに腕をまわし、まるで殿様にように自分の前に立つ男、南青山医科大学第二外科教授 小沢赳夫の派閥作りのとばっちりが、ついに自分の元へもやってきたと、聡史には容易に予想できたのだ。
聡史が勤務するこの南青山医科大学は、日本でも名門と言われる医科大学であり、さらにその中でも、この小沢率いる第二外科、胸部心臓外科は、そこの花形だと世間からは高い評価を得ている。
しかし、当の大学病院内では、その花形の医局の教授を、小沢が取り仕切ることに対して、ここ最近、他医局の教授連中らが批判の声を上げ始めていた。
なぜなら、小沢の出身は南青山医科大ではなく、東北の医科大だったからだ。
いわば、他医局の教授連中からしてみれば、名門青山の花形医局を外様の人間になど任せているのは、非常に胸くそが悪く、何かにつけては小沢の揚げ足を取り、小沢を潰そうと必死ななのだ。
そこで、自分の回りに不穏な動きを感じた小沢は、この第二外科において、南青山出身者を次々と追放してゆき、自分の母校の人間たちだけを入局させ始めた。
それは、自分の医局を自分の学閥だけで固め、この名門と呼ばれる南青山医大に戦いを挑もうとする、小沢の命がけの挑戦であった。
結局のところ、聡史にとっては、自分には全く関係のない、小沢の自分勝手な保身のためだけに、慣れ親しんだこの第二外科から追放されようとしていたのだった。
「野依君。君もそろそろ他の所で自分の技量を広げてみないか?」
――やはり、自分も追放か……。
聡史の予想は、やはり的中した。
聡史は、こんな時、いつも自分に勇気があればと思う。
メスを握らせれば、誰もを圧倒する技量を持つ聡史だが、それ以外はもっぱらダメなのだ。
幼少の頃より内気な少年だった聡史は、人間関係をつくるのが下手で、同じ医局内の医師連中のように教授におべっかを使えなければ、どのように自分の感情を出せばいいのかもさえも分からない人間だった。
そう、聡史は「イヤなものはイヤ」とは言えないし、「好きなものも好き」とも言えない人間だったのだ。それは、まるでどこか人間的な部分が欠落しているようだった。
だから、聡史にとって癒しの場はオペ室だけであった。
そこは、聡史にとって、煩わしい人間関係から解放され、麻酔にかけられ感情を失った患者とだけ向き合えばいい場所だったから。
彼らは、喋らなければ笑いもしない。
人間関係を作るのが苦手な聡史にとって、彼らにメスを入れるときだけが、誰かと自分が繋がっていると、『自分は一人ではないんだ』と実感できる瞬間だったのだろうか。
聡史にとって、彼らは自分の寂しさを癒してくれる、唯一の『友達』だった。
そして、この名門と呼ばれる南青山の花形でもある第二外科において、聡史は、自分自身も知らない間に、天才的なオペ技術を身につけてしまっていた。
しかし、大学病院で生きてゆく医師たちにとって、聡史のような優秀なオペ技術などは、一切必要とはしなかった。
大学病院で生きる医師たちの世界とは、患者の様態より、自分の属する医局の教授の顔色を伺え、人間関係を作る事が上手い連中だけが勝ち残ってゆく世界だったのだ。
「野依君、私は何度も見学させてもらったが、君のオペ技術は非常に素晴らしい。……そう、まるで昔読んだ『ブラックジャック』のようだ」
「……恐縮です」
「しかしな、野依君。大学病院には、『ブラックジャック』などは必要ないんだよ」
今まで背を向けていた小沢は、くるりと聡史の方に顔を向け、鬼のような形相で聡史を睨み付ける。
「私は、これからの我が第二外科に必要なのは、切ったり縫ったりする技術力ではなく、綿密な研究の上に重ねられた、革新的な『医学』なんだと思うんだ」
「…………」
「はっきり言うが、君のようなメス屋はもう第二外科にはいらん。これからの我が医局に必要なのは、新しい『医学』への研究と挑戦なんだ! だから私は、君の代わりに母校から新しい人材をここに入局させようと思っている」
小沢の言葉は、聡史にとってこの上ない侮辱だった。よりによって、教授が医師に向かって『メス屋』とは。
しかし、聡史はただ唇をかみ締めるだけで、情けないほど何も言い返す勇気はなかった。
自分はこの手で、何人もの命を救ってきた。
医師としてのプライドや誇りは人一倍あるはずなのに、聡史にはそれを表現する方法が分からなかった。
「……僕は、これからどこの病院に行けばいいのでしょうか」
教授に歯向かえない自分の勇気のなさに、嫌気をさしながら、聡史は搾り出すような声で呟いた。
「次の君の勤務先だがな……」
「……!!」
一瞬、聡史は自分の耳を疑った。
自分の前にいるこのふてぶてしい男の言葉に――。
「野依君、君の次の勤務先だが、表参道女子高等学校へ行ってくれたまえ」
――……高校!? この男は、どこまで自分を侮辱すれば気がすむんだ。
聡史は、しどろもどろになりながらも、全身の勇気を振り絞り、小沢に異義を申し立てた。
「小沢教授、僕は、僕は外科医です。どうして高校の校医になど……」
しかし、小沢は、そんな聡史の言葉など力強く吹き飛ばす。
「野依君、君に拒否することはできないよ。もし断れば、君はどこの病院にも受け入れてもらえないように私が手を回してやるからね」
「…………」
「言っただろう。これからの我が医局に必要なものは、技術力ではなく『医学力』だと」
小沢は、机にあった一冊のレポートを手にして、それで聡史の肩をポンと叩いた。
「まぁ、校医でもしながらゆっくり勉強でもしたまえ」
そして、小沢はそう聡史に告げると、そのレポートを手渡した。
"Port access Sorgery"
「……これは!?」
「ポートアクセス法。君も知ってるだろう。胸部心臓外科に於いて革新的な手術法だ」
「……はい。我が医局では、それによるオペはまだ1例もありません」
「そう。1997年以降、欧米を中心に広がり、今では6000例近くのレポートが上がっている。……しかし、残念ながら日本国内で、それを扱えるのは数少ないのが現状だ」
「…………」
「日本では、唯一それの先頭を切っているのは慶應医大で、様々な取り組みの中で、ポートアクセスに関しては今のところ権威であると言われている……」
「おっしゃる通りです」
「野依君! ……私は、我が医局が日本の医療界のトップでありたいんだよ! 分かるだろう、日本に名門は二つもいらないんだ。もし、我が医局で、これを扱う事ができれば、間違いなく次の学長選は、私にとってのプラス要因になるだろう」
「…………」
「まぁ、女子高にでも行って、君はポートアクセスについてゆっくり研究でもしてくれたまえ。その間、私は母校の人間を揃え、来るべきオペに対して、準備でもしておくよ」
小沢は、聡史の目を見つめ静かに微笑んだ。
聡史にとって、自分に向かい不敵に笑う小沢の眼差しは、まるで権威と権力に取り憑かれた悪魔の眼差しのように見えた。
「なぁに、君は優秀な外科医だ。来るべき時期が来れば、ちゃんと私の医局に戻してやるから、それまで少しの辛抱だ」
小沢は、聡史の肩をぽんと叩いたあと、聡史を残して教授室から颯爽と出ていった。
小沢は、自分が求めるのは『技術』ではなく『医学』だと言った。それはつまり、小沢という人間は、できるだけ早く他医大より革新的な論文を多くあげ、どのように自分の権威や権力を築き上げてゆくかという事しか考えていない人間だったのだ。
しかも、自分の権力を守るためなら、研究のためという大義名分で、南青山出身の聡史を、自分の医局からだけでなく、他の医療現場からも追放しようとする、まさに豪腕を振るう男であった。
真っ白く無機質な部屋の中で、窓から差し込む赤色に染められた夕日が、絶望の中に包まれた聡史を容赦なく照らしていた。
<2>
教授からの不当な人事を受けた聡史は、大学病院内の一階のロビーで、独り佇んでいた。
ロビーにある受付では、もうすぐ診療時間も終わろうとするにも関わらず、まだかまだかと名門青山での診療を待つ患者で込み合っていた。
人々は病気や怪我をした時には、それが『命』に関われば関わる時ほど、名門という名の大学病院にすがりつこうと必死になる。
しかし、当の大学病院の医局内では、『命』さえも預けようとすがりつく患者たちを、自分たちの権威と権力を築き上げるための、医学研究の材料としか見ていない。
聡史は、ロビーに埋め尽くされんばかりの患者たちを見て、それを少し哀れにも感じた。
――あなた達が思う程、大学病院というものは、あなたたちの『命』を尊く思ってませんよ。
人は、自分が絶望の淵に立たされた時、自分より不幸な人間を見て、自分はまだ幸せだと思ってしまう。聡史にとって、受付に並ぶ患者たちは、まさに不幸そのものだった。
同時に、人の『命』というものを担う医師という自分に嫌悪感さえ覚えてきた。
――自分は、一体なぜ医師になったのだろうか?
――自分は臨床医として、様々な『命』と戦ってきた。
――しかしそれは、生きている人間と関わる事が苦手な自分が、麻酔にかけられ、感情を失った患者と関わる事によって、失っていたアイデンティティーを取り戻す事ができる唯一の時間だったからなのではないのだろうか?
――結局のところ、権威と権力に取り憑かれた教授連中が患者たちを医学の研究材料にしか見ていないのと同じように、自分のオペも、患者の『命』を考えるのではなく、自己満足を満たすためだけの極めて自己中心的なものだったのではないのだろうか?
聡史は、もう何もかもが分からなくなってきた。
まるで、果てしない砂漠に一人で取り残され、どうしようもなく迷いさまよい続けているようだった。
その時――。
ロビーに独り佇む聡史の前を、黒髪の少女が足早に横切ろうとして、聡史と肩をぶつけてしまった。
肩よりすこし長く、真っ直ぐと伸びた少女の髪は、風に揺られ、聡史の顔の近くにふわっとなびいた。
聡史は、吸い寄せられるように、その少女の後ろ姿をしばらく見つめてしまう。
すると、その少女もそんな聡史に気づいたのか、ゆっくりと後ろを振り返った。
一瞬、二人の視線は重なり合った。
その瞬間――聡史は、自分の周りのノイズが消え、その黒々とした清らかな瞳とは対称的に少し寂しげな表情を浮かべていた少女に、何故か吸い込まれていくような感覚を覚えた。
それは、たったほんの数秒の出来事だったが、聡史にとっては、『永遠の一秒』とも錯覚するような瞬間だった。
ふと我に返った時、聡史は自分の足元に一冊の本が落ちていたのに気付いた。さっきの少女が聡史にぶつかった時に、手に持っていたものを落としてしまったのだろう。
聡史は、足元に落とされていた本を手に取り、少女を追いかけるが、さっきの出来事はまるで夢だったかのように、聡史の視界からその少女は消えていた。
少女が落とした一冊の本――それは、サンテグジュペリ作『星の王子さま』
聡史も、幼少の頃に読んだ事がある本だった。
聡史は、何気にその本を開いた時、まだ高校生くらいの初々しい少女の残り香が、自分の周りを包み込むような感覚を覚えた。
――あの時の僕は……
生きているというより
人生という砂漠の中を
たださまよっているだけだった。
……まさにそう
飛行旅行中に
砂漠の上に不時着した
『星の王子さま』
に出てくる主人公のように。
未来というオアシスが見つからぬまま
絶望という名の飢えが
僕の心を埋め尽くそうとしていたんだ。