金木犀~Last autumn Ⅲ~
「香さん、こんな夜中にどこにいくんですか?」
リュアナとデートに行ったその晩。誰もが寝静まった夜に、香さんはキャリアケースを持ってどこかに出掛けようとしていた。これからどうするのか、深く考えて込んでいたことが幸いしたのかもしれない。寝付けなかった俺は、戸が開く音に気付いて、慌てて駆け下りてきたのだ。
「こんな夜中まで起きてたの? 早く寝ないと明日遅刻するわよ」
いつもの母のように振る舞う香さんは玄関の明かりも付けないまま笑顔で言った。けれど、すぐに外へと顔を向け、今にも出ていってしまいそうな様子に、俺はすかさず話を続けた。
「ちょっと考え事があって寝れないんですよ。それより、そんなものを持ってどこへいくつもりですか?」
「ちょっと旅行にいってくるのよ」と香さんは背中を俺に向けながら言った。俺は呆れたようにため息をついた。リュアナのように人の心を見る力を持っているわけではないが、これが嘘だということはすぐにわかる。
「嘘ですよね。それぐらいの嘘なら、俺にだってわかりますよ」
今度は香さんは大きく息を吐き、肩の力を抜いた。
「戻るのよ。私のいるべき場所へ」
「それって……」
「ええ、この家を出ていくということよ。記憶が戻った以上、私がここに居続ける理由もあまりないし、あなたにはお金もあれば、ご飯ももう大丈夫でしょ?」
「それに助っ人も呼んであるから」と香さん付け足したが、そんなことどうでもよかった。
「どうして、出ていくんですか? 俺にはまだ……」
「想真、いつまでも甘えていちゃダメよ。私にもやらなければいけないことがあるの」
それに……と振り返る。
「私も子離れしないと、って言っても本当の親じゃないけど」
外の光に照らされて香さんの頬を流れる涙が輝いた。キャリアケースから手を離す香さんは徐に俺を強く抱き締めた。
「どんな事があっても、必ずあなただけは守ってあげるから」
その温もりは紛うことなき母の温もりで、そこにあったのは愛情そのものだった。たとえ、それが偽物だったとしても、俺が感じた温もりは本物だった。
「わかった。俺はもう大丈夫だから」
香さんに回した手で背中をトントントンと叩き、それを伝える。
「ええ、そうね。それじゃあ、私はいくわ」
ゆっくりと温もりが体から離れ、少し物悲しい冷たさが体を襲ったが、グッと耐えた。母だった女性は扉を越えて外へと出ていく。
「お母さん!」
無意識のうちに感情が俺の口から飛び出していた。この数年間を育ててくれた母は、玄関を出て足を止める。
「今まで育ててきてくれて、ありがとうございました」
今までの感謝を姿勢に込めて頭を深く深く下げた。
「私の方こそ、ありがとう」
頭を上げたとき、すでに香さんは暗い夜に紛れて消えていた。
~*****~
その日の放課後、俺は珍しくリュアナと二人で帰っていた。いつもはにぎやかな帰り道、だけど今日は二人だけとあって静かだ。
「何かあった?」
そういって顔を覗き込むリュアナは笑っていた。その笑顔に引かれるように俺の口元も緩む。
「何もないよ。けれど、しいて言うなら元に戻った」
「そっか」
リュアナは笑顔を崩さず、俺の愚痴に耳を傾けていた。
「ほんと身勝手だよな……急に出ていくなんて」
「そうだね」
少し目を閉じ、リュアナはうんうんと同意するように頷く。こうして頷くリュアナはどれぐらいことを感じ取っているのだろうか?
実を言うと俺はリュアナに香さんのことを話していなかった。けれどこうして、彼女が頷いているのは、俺の力かリュアナの力で何があったのかを感じ取ってくれているからだろう。
「リュアナ、どこまで知ってるんだ?」
「えーと、昨日の夜、香さんが家を出て行ったことかな? ダメだった?」
全部、筒抜けか……。
「いや、別にいいよ。それより、寮はあっちの道だろ? 帰らなくていいのか?」
リュアナと話しているうちに桜坂にある十字路に差し掛かっていた。けれど、リュアナは「今から家に帰るんだよ」と意味の分からないことを言って、結局、俺の家までついてきた。何かあるのではないかと訝しんではいたが、やっぱりあった。俺の家の前に一台の引っ越し用のトラックが止まっていたのだ。
「リュアナ……?」
どういうことか説明してくれとリュアナに話しかけるが、「ちょっと待てね」と俺の家へと駆けていく。
何がどうなっているのかわからない俺は、ひとまず家に帰ろうと玄関に向かう。
「は?」
そこではリュアナが俺の家の鍵を開けていた。ますます、わけがわからなかった。リュアナに合鍵など渡した覚えなどなかったのだから。
リュアナは家の鍵を開けると俺に気付いた。あはは……といたずらしたような苦笑いを浮かべ「荷物を置いてリビングで待てって」と言う。さすがに理由も聞かず、あの引っ越し業者を迎え入れるということはできなかったので引き留めようとしたのだが、リュアナはさっと俺を躱すと待機していた引越し屋であろうお兄さんたちの方へと行ってしまう。
あー、もういい。
そこで俺の心は折れた。
リュアナのすることだ。悪いことではないはずだと自分に言い聞かせて家へと入った。
自分の部屋にカバンをおろしていると、引っ越し業者が香さんの部屋だった奥の部屋へと荷物を運んでいた。
本当にどういうことなんだろうか。まさか、ここに住む気じゃないだろうな……。
リビングに降りると、制服姿のままのリュアナがお茶を入れて、待っていた。
「さて、何がどうなっているのか説明してもらおうか」
駆けつけ一杯、お茶を啜り、俺はリュアナに尋ねた。
「えーと、想真くんは香さんから、助っ人を呼んであるって聞いてなかった?」
申し訳なさそうに口を開いたリュアナは少し上目で言う。そういえば、そんなことを言っていた覚えがある。
「聞いた」と答えるとすぐに、「それが、私」と答えた。ふむと俺は大体の事情を察した。
「けれど、なぜ引っ越しの業者が必要なんだ? 手伝うぐらいなら、別にこんな荷物を持ってくる必要はないだろう?」
「それは……」
なにか言いづらいことなのか、リュアナは口を閉ざし、スマホを取り出した。指でいくつか操作を行うと、リュアナはメッセージの綴られたスマホの画面を見せてきた。
リュアナからスマホを拝借し、その内容に目を通す。
相手は『お母さん』つまり、アウラさんだ。最終メッセージの時間は昨日の夜の11時、リュアナが質問して終わっていた。よく見れば、リュアナの質問はいくつも綴られていたが、どれ1つアウラさんは返答してなかった。
画面をスクロールして、事の発端となったメッセージを探していると、アウラさんからの長いメッセージを見つけた。
内容はこうだ。
『リュアナ、突然でごめんなさい。実は諸事情があって、寮の部屋を1つ必要になったの。悪いけど、今日中に荷物をまとめてもらえるかしら。明日の朝、引っ越しの業者がそちらに向かうので。ああ、そうそう、引っ越し先は想真くんのお家よ。香が出ていく時に想真には助っ人が来るように言ってるそうだから、そのつもりで。それじゃあね、幸せになりなさい私の大切な娘よ』
読み終えた俺は俯きながら、テーブルに滑らすようにスマホを返した。
「ほんと、身勝手だよね……」
「ああ、ほんとに」
普通、偽物の親ならもう少し優しくしてもいいのではないだろうか。散々、振り回された俺達は呆れることしかできない。
「事情はわかった。部屋も空いてることだし、俺は別に構わないけど、リュアナはここでいいのか? 詩織の家や小宵の家でも……」
「うんん、大丈夫。私はここがいいから」
「それなら、いいんだけど」
「それより、想真くんは大丈夫? 私なんかがいきなり来て。邪魔じゃない?」
「邪魔ってことは絶対にない。ただ……」
この会話もそうだが、なぜか緊張して表情だったり、口調だったりが堅くなる。気まずい……。
ズズズっと妙な雰囲気の中、お茶を啜っていると、「終わりました~」と引っ越し業者のお兄ちゃんが声を掛けてきた。
「はいはーい」とリュアナが対応して、二階へと上がっていく。
何をするでもなく、リュアナを待っていると、「想真くん、来てー」と呼ばれた。俺は荷ほどきでも手伝わされるのかと思っていたが違った。廊下に出ると、リュアナが玄関に立っていた。
「ちょっと、散歩しよ?」
そっと微笑みを浮かべるリュアナ。ああ、たまにはいいかもしれない。
目的地があるわけでもなく、俺達は寄り添いながら歩いた。
「ずっとこうしていたいなぁ~」
幸せそうに言うリュアナ。俺は「そうだな」と同感するも、それが叶わないことを心のどこかで気がついていた。
「それはそうだよ。人はいつか死を迎えるときがくる。けれど、それは長い方がいいと想真くんは思わない? おじいちゃんやおばあちゃんになった時に同じことを思うとは限らないけど、まだ産まれて十数年しか生きてない私たちは少しでも長く生きたいと思わないかな?」
「ああ、生きたいさ」
少しでも長く生きたい。リュアナの隣にずっといたし、ずっとこうしていたい。キスもしたいし、結ばれたいとも思ってる。就職して、頑張って働いて、そして、結婚して、子供を授かって、幸せな家庭を築いて、幸せな最後を迎えたい。そんなごく普通の幸せな人生を俺は迎えたいのだ。
けれど、俺はそのごく普通の幸せに続く今を守りきることができるだろうか?
「できるよ。今の君なら」
「そうかな?」
「そうだよ。たがらさ、約束しよ」
あの日と同じだった。
俺達が足を止めたのは、あの四季の木がある白雲公園。今は桜も舞っていないし、俺の前に立つのは美羽ちゃんではない。けれど、ここには四季の木に咲く金木犀が香りを漂わせ、大切な人が目の前に立っている。
ここで再び、あの約束が行われるのだ。
「あのね、約束してほしいことがあるの……」
リュアナは覚悟を決めたような目をして俺にそう言った。冷静なその言葉は、まるでまだ温もりが残る秋から凍えるような冬へと時を進めたようだ。
「うん、なに……?」
俺は当時と変わらず、素直に訊ねた。
「……これからね、きっと怖いことが起こる……。だから……だからね、その時はお願い。私を守って」
掠れた声で怯えたような表情を浮かべていた美海ちゃんの姿が重なる。思わず、ごめんと口に出したくなるが、口を閉じ胸の底へと押し止める。
今、言うべきは謝罪の言葉ではない。あの約束の言葉なのだ。
大きく息を吸い、大きく息を吐いた。
「ああ、わかった。俺はどんなことがあっても君を必ず守る。約束するよ」
「では、誓いのキスを」
破顔したリュアナがここだよと自分の唇に指を当てる。やれやれ、と呆れながら、目を閉じたリュアナの唇にそっと唇を合わせた。
「これで約束したからね。今度は、ちゃんと守ってよね想真くん」
「ああ、必ず守るよ」
うんうんと嬉しそうに頷くリュアナが思い出したようにこう言った。
「想真くん、私がここに連れて来たのはね。この約束をするためともうひとつ試したいことがあるからなんだよ」
「リュアナ、何をするつもりなんだ?」
即、返答した。天真爛漫な彼女はほんと一体何をするかわからない。なにも聞かず始められるよりはよっぽどいいと、俺は訊ねた。
「ご両親への挨拶だよ」
その言葉を聞いた瞬間、俺は土儀間を抜かれた。そして、四季の木が俺の両親の墓であることを悟ったのだった。




