①
その石ころは欠けていた。
俺の体がいつ欠けたのか、どうして欠けたのか、そして欠けていない頃の自分はどんなものだったのか……全ては思いだすこともできないほど遠い昔のことだ。気楽な『石ころ』としての生活に満足している自分には思いだす必要も無い、過去。
人間は俺の存在など気にも留めない。だから、好きな所へ転がっていくことができる。
名前を呼ぶ者もいない。それゆえに、俺はナニモノにも縛られない。
今の俺にとって最も大事なこと、それは宝石屋のウインドー中にいる、あのダイヤモンドの娘のことだけ。つんと取り澄ました宝石達の中で、彼女だけは俺たち庶民にも気さくに微笑みかけてくれる。俺は間違いなく、その娘に恋をしていた。
今夜も俺は宝石屋の前にたたずむ。
窓から覗き込むと、中では宝石達が宴の真っ最中。今夜の主役は、俺の想い人のダイヤモンドだ。プラチナのリングに鎮座する彼女は歪み一つなく磨き上げられ、その体に集めた光を、虹色に変えて輝く。
その神々しいまでの美しさに立ちつくす俺を、古株のルビーが目ざとく見つけた。
「あんたは、いつもこの子を見に来ていた小僧だね。良いだろう。今日は特別だよ。」
ルビーの合図で、ガードマン気取りのブラックオニキスたちが扉を開ける。宝石達は不快そうにささやきあい、サードオニキスの娘が顔をそむけた。
「この子の買い手が決まってね。今日はお別れ会なのさ。」
ルビーは俺を彼女の前に、ぐいと押しやった。
「あんたも、おめでとうぐらい言いな。」
おめでたくなんかない! 人間は、彼女から自由を奪おうとしている。宝石箱という名の牢獄に彼女の未来を閉じ込めようとしている。
俺の落胆の表情がお気に召したのか、あたりは嘲笑の笑いで満ちた。
ダイヤの娘だけが俺の味方だ。
「可哀そうよ。笑わないであげて。」
その可憐な声が俺を突き動かす。
「君は……それでいいの?」
彼女はキョトンとした顔で俺を見おろした。俺の言葉が伝わらなかったのか……
「君は、それでいいの?」
彼女の顔から戸惑いの気色が消えることは無い。ルビーが代わりに答えをくれた。
「良いも悪いも、あたし達はそのためにいるんだよ。」
「だって、彼女の自由は……」
「あんた達は、二言目には自由、自由って……そんなにいいものなのかい、自由ってのは」
ルビーが不愉快そうに体を揺らした。
「たとえば、そこに小さな緑色の石がいるだろう? そいつはあたしらより宝石としての格は落ちるが、ちゃんとペリドットって名前がある。あたしなんか、ルビーって言う鉱石名のほかに『生き血をすする貴婦人』って二つ名までいただいているんだよ。あんた、名前は?」
「名前は……」
たぶん、ある。人間ってやつは全ての石を分類しているらしいからな。レキガンとか、タイセキガンとか、鉱物としての名前は俺にもあるはずなのだが……
「誰も呼んでくれない名前なんて、無いも同然じゃないかい。」
宝石達は同意の歓声をあげた。
「それに、そのみっともない欠け傷! 私たちをごらんよ。みんな傷一つない、完璧な体だろう?」
「俺だって、人間に磨いてもらえれば……」
「磨く価値があるのかい、あんたに? 人間は価値の無い石を磨いたりはしない。あたしたちは、磨く価値があると認めてもらえたのさ。」
ルビーは勝ち誇ったように大きく体を揺らし、ダイヤモンドに聞いた。
「どうするんだい? この石ころと一緒に行くって言うなら、あたしは止めないよ。」
ダイヤは明らかな拒絶の表情を浮かべ、後ずさった。
「あんたたちの自由なんて、その程度のもんさ。ま、余興としちゃぁ楽しかったよ。」
ルビーが俺を軽く突き飛ばした。ブラックオニキスたちは、おもちゃにじゃれつく小犬のように俺に群がる。
コツコツと硬質な音を立てて店の外へと運ばれる俺の後ろから、最後まで聖女面する彼女の声が響いた。
「乱暴にしないであげて。ひどい事しないであげて。」
……聖女サマ。俺が欲しかったのは、そんな優しさの施しじゃねえよ。ただ、微笑みかけて欲しかったんだ……




