7 (2011.7.30)
舞踏会が終わると、カイルは王宮の生活に、エステルは男爵領へと戻らねばならない。
カイルは舞踏会の参加は許されていたが、それ以外の休暇は与えられていなかった。ゆえに、領地へ帰るエステルの見送りもできず、舞踏会で共に過ごした時間分しか逢瀬もままならない。
彼女との縁談のために今は我慢しなければいけないのだと、わかっていた。カイルの望みを叶えるために、彼はそこにあるのだ。
けれど、理性とは別に、エステルに会うために王宮を抜け出したいと、心が疼く。
そんな揺れる感情を、棒術の訓練にて八つ当たりのごとく発散させた。
武術の訓練が行われる使用人用の庭は、いまも棒がぶつかり合う音が響く。
そこから離れた場所では、従騎士たちの練習風景を観察する多勢なる女性の姿があった。対戦の勝利が決まる度に彼女らは歓声をあげ、時には試合を終えた目当ての相手に差し入れする姿も見受けられる。
対戦が終わったばかりのカイルは木陰に腰をおろし、手の甲で汗を拭う。
一呼吸おくと、雲のない空を見上げた。
――同じ空を、エステルも見上げているだろうかと、眩しい陽に目を細める。
「今日は随分荒れてるね、カイル君」
笑いを含んだ声と共に、隣に座る気配がする。
緩慢な動作で気配の主を見やれば、ジョエルがそこにいた。肩で息をしている彼も、今試合を終えたばかりなのだろう。
「舞踏会でなにかあったのかい?」と問うジョエルに、カイルは眉根を寄せた。
「あったといえばあったし、なかったといえばなかった」
「……なんだい、それは。で、結局どっちなんだ?」
カイルは溜息をつくと、難しい顔で答えた。
「舞踏会は面倒だった。だが大切な娘には逢えたから幸せだった。でも、その娘は領地に帰るから当分会えない。見送りもできない……それがもどかしいだけだ」
突如、ジョエルは噴出す。目を白黒させる彼に、カイルは訝った。
「……今の会話のどこに噴出す要素がある?」
「いやいやいやいやいや、あるだろうっ。カイル君、君恋人いたのかい!?」
なぜか驚愕するジョエルに、カイルは首を傾げる。
「……まだ婚約者候補だが、正式に婚約するために王宮で従騎士をしている。……驚きすぎじゃないか?」
「いやいやいやいやいやっ、初耳だよ!? だって君、セシル君と並んで王宮の女性陣から人気あるのに無関心じゃないか! 女性に興味ないと思ってたよ!」
「…………その表現に若干の悪意を感じるのは俺の気のせいか? むしろ女性うんぬんは初耳だな。セシルならあの容姿だからわからないでもないが。誤報じゃないか?」
疑心と呆れの色を宿す灰青の瞳に、ジョエルは嘆息した。
「……君がそんな風だから、令嬢方は表立って黄色い悲鳴をあげないだけだよ。真面目で冷静なところが素敵、と彼女らは言っているからね。つまりは婚約者候補以外興味ないだけだった、ということか……」
ぼやくジョエルに、カイルは肩を竦めて再度空を見上げた。
ジョエルは何気なくカイルを分析したに過ぎないが、実際その通りだった。
誰に好かれようが、今のカイルにはどうでもいいこと。伝手をつくる必要はあるが、宮廷愛に溺れるつもりも、誰かを使って欲を発散させるつもりもない彼にとって、関心を向けることもなかった。
カイルの人格の一部を形成する騎士道が宮廷愛を許していたとしても、彼はそこを享受することはないのだ。
しばしそうして空を見上げていると、太陽が天辺に差しかかっていた。
ぼーっと想いを馳せていたがゆえに、上司の声に気づかなかった。
隣に座っていたジョエルが重い腰をあげ、カイルを見下ろす。
「カイル君、休憩だよ。食堂へ行こう」
当たり前のように仲間になっていたジョエルの存在。
ふいに思う。
もしエステルと出逢っていなければ、カイルは侯爵家嫡男としてのみ王宮に仕え、誰かと接していただろう。気の置ける仲間が、”カイル”ではない操り人形のような存在につくることができただろうか?
気がつけば、カイルをカイルたらしめる存在は増えていた。それが当たり前になっていく日々に、切ないほどの幸福を噛み締める。
「ああ。――ジョエル、ありがとう」
そう言って立ち上がると、ジョエルは首を傾げた。
食堂は、従騎士や騎士が食事をする場である。
その食堂へ向かうため、庭を歩いていると――視界を横切る存在があった。
白金の髪を靡かせて駆ける少女。歳の頃はエステルと同世代だろうか。
彼女が腕に抱える帽子には、たくさんの白詰草が入っていた。それに目を奪われる。
カイルにとって、エステルとの約束の花である白詰草。思わず頬を緩ませると、隣を並んで歩くジョエルがカイルの顔をのぞきこんだ。
「……気になるかい? 彼女、王族の姫君 ユーフェミア様だよ」
にやにやと口尻をあげるジョエルに、カイルは溜息をつく。
「気になったのは、彼女が抱えている白詰草だ」
答えれば、ジョエルは目を点にする。
「気になるのはそっちの花? ここは高貴な姫君が普通じゃないかな? ――あ、ユーフェミア様転んだ」
ジョエルの実況通り、ユーフェミアは帽子の花をぶちまけ、盛大に転んでいた。地面は芝であるため、そう痛くはないだろうが、かすり傷は負ったかもしれない。
普通ならば侍女が共にいるはずだが、どうやら彼女はお忍びで白詰草を摘んでいたのだろう。誰も彼女へ駆け寄る姿はなかった。そもそも薔薇や百合ではなく、地面に座って白詰草を摘む行為は、年頃の王族の姫君がやれば顔をしかめられるかもしれない。
呆気にとられているジョエルを尻目に、カイルは少女のもとまで駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
片膝をつき手を差し伸べれば、ユーフェミアは俯いたままカイルの手を無視して起きあがる。
そのまま無言で手についた汚れを叩いて払い、ついでドレスの汚れも払った。
そうして、俯けていた顔がようやくカイルに向く。
が、少女はカイルの瞳と相対することはなかった。
カイルは彼女の様子を眺めていることなく、地面に散らばる白詰草を帽子に戻していたのだ。
少女が顔をあげたのに気づいたカイルは作業を終わらせ、帽子を手に黒髪を揺らす。
「お怪我はありませんか?」
問えば、少女は顔を真っ赤にさせ、目に涙を浮かべて睨みつける。ともすれば、カイルはなぜ敵意を向けられているのかわからず、困惑するしかない。
「……姫君?」
「怪我はありません! わ、笑いたければ笑えばよろしいでしょう!?」
「……いえ、笑う理由がないのですが」
わけのわからないカイルがさらに困れば、ユーフェミアはまくし立てるようにして言い放つ。
「だ、だってっ、いい歳して花抱えて転んで、子どもっぽいと思ったでしょう!?」
ああ、そういうことか、と察し、カイルは苦笑した。
「――いいえ」
思いだすのは、エステルだった。
いつしか鮮やかに笑むようになった、大切な少女。けれど、彼女はやはり変わってはいなかった。紫の瞳は侯爵家嫡男ではなく、カイルを見据え、心があたたまる微笑を浮かべる。白詰草は、彼女と結婚の約束をした象徴だった。その花の約束を今もおぼえていて、守ってくれている彼女の姿に、どんなに安堵と苦しさすらおぼえる切なさを抱いただろうか。
――子どもっぽいと、カイルが思うはずがなかった。
先日、エステルに白詰草の指輪を再度贈ったのはカイル自身なのだ。
カイルは慈しむような微笑を浮かべ、白詰草を見やった。
その表情に、ユーフェミアは目を瞠る。
しかし、カイルはユーフェミアの変化に気づくことなく囁いた。
「実は、得意なんですよ。白詰草で花冠や指輪をつくるの」
そういって、カイルは帽子を少女に差し出す。
少女が受け取ると、カイルは立ち上がり、すぐユーフェミアに手を差し伸べた。
今度は無視することなく少女が手をとると、引いて立ち上がらせる。
とくに怪我をした様子も痛みを堪える姿もないことを一瞥すると、一礼した。
「では、失礼します」
ただ茫然と帽子を抱えて佇む少女を気にするでもなく、そのまま踵を返した。
カイルを待っていたジョエルは、ユーフェミアの様子に片眉をあげる。しかし、カイルは「行こう」と促し、何にも気にすることなく食堂へ向かった。