6 (2011.7.28)
カイルにとって、舞踏会をはじめとしたすべての夜会は面倒事以外の何ものでもなかった。
隙を見せぬ笑みを始終顔に貼りつけ、社交辞令を口にする。中にはその世辞を本気に受け取る者もいた。逆にうまく受け流す者は揃って強かで、その内の幾人かは狐狸のような腹の底が窺えた。
ひと時も油断を許さぬ公の場。
襟元を緩めることも姿勢をわずかたりとて崩すことも叶わず、ましてや本音を見せればいつ首をかき切られるか、という弱肉強食の世界だった。
一見華やかな舞踏会とは、そんな場所なのだ。
したがって、ハーシェル侯爵家の嫡男として参加せねばならないそれは苦痛でならない。寄ってくる男はなにを腹の底で考えているのか量り、挨拶を交わす女はなにを手にしようと望んでいるのか推察するばかり。
――しかし、今年の舞踏会は違った。
カイルが十八になった年の、王宮で開かれた舞踏会。王が主催するそれは、年に一度しか開かれず、夜会を嫌悪し、参加することに抵抗をみせる一部の貴族たちもこの会にだけは参加した。
王宮にて従騎士として過ごしているカイルであるが、侯爵家の跡を継ぐ立場であるため、この時は休暇をとることを許されている。
そもそも、王宮に仕える騎士にと望む者は高位貴族の次男以下であることが多いのだ。嫡男は父のもとで騎士になるための修行を積み、跡を継ぐ立場でない者は伝手づくりや士爵の位を求めて王宮に仕えることを選ぶ。
久しぶりに着た貴族の装いは、息苦しかった。
ハーシェル家の紋章色である真紅は鮮やかであるため、それよりも深い色味のものを選んで身に纏い、首元に巻かれたタイも装飾は控えた。
ゆえに意図せずして華美な印象を抱かせず、カイル自身の魅力を際立たせる結果となった。
灰青の瞳を彷徨わせ、エステルをさがす。
本音としては、こんな魑魅魍魎の跋扈する場所に来るエステルの儀礼的護衛の立場を買って出たかったが、彼女の父によれば、この王宮舞踏会が初舞台だという。父男爵と文でやりとりした結果、まだ十四という幼さ残る少女の同伴は父男爵という形で決まった。
だからこそ、会場へ来た彼女をいち早く見つけ、守りたかった。
エステルには、綺麗なままでいてほしいと、カイルはいつだって願っていた。そのために自分が汚れたとしても構わない。穢れた世界を彼女が知らないままでいられるならば――曇りなく笑っていてくれるなら、どんな方法を用いてもでも守りたかった。
思えば、それはエステルを守りたいというカイルの願いに起因するのであって、彼女のためというよりも、自分のためだったのだろう。
会場内を見回せば、見知った顔がちらほらと見受けられた。けれど、そこにセシルの姿はない。ハーシェル家と天敵であるキング家は出席を控えたのか……それとも、セシルが従騎士という身分を盾に、夜会の参加を拒否したのかもしれない。
カイルは従騎士生活の中で、度々セシルと相対することがあった。それは敵対ではなく、武術訓練の際に対戦相手として、である。そうして彼を知るうちに、気づくことがあった。
(彼は、俺に似ている)
脳裏をよぎるのは、宮廷愛に溺れていく同期を見送った時のセシルの顔。彼は色味優しい翠の瞳に影を落とし、絶対零度の軽蔑を宿らせていた。
どこか潔癖な、その姿が。
両親を嫌悪するカイルにとって、自分と重なって見えたのだ。
だからこそ、この会場にいなくて安堵する。
……もし、と思う。もし、セシルがエステルと出逢ったら――。
(セシルは、エステルに恋をするかもしれない)
今までの反動で溺れるような恋をするかもしれないと。なにをも引き換えにしても構わないと思うような愛情を抱いて。
(彼は、俺に似ている――)
それが、わずかな可能性を否定できない理由だった。
思考に淵に沈んでいると、薔薇のような香りが強くなることに気づく。
「カイル様、お久しぶりです」
背後から声をかけられ振り返れば、そこには淡い紫のドレスを着たカレンがいた。彼女は淑女らしい礼をし、微笑んだ。その笑みが薔薇色の髪と香水に相まって蠱惑的な魅力を放つ。
そんなカレンに年頃の男たちの視線が集まるのがわかった。
カイルは「久しぶり、カレン」と苦笑する。十五にして男たちを色めきたたせる魅力を持つ幼馴染に対し、カイルはませた妹を持つ兄のような心境だったのだ。
そうして、再度視線を会場に向けた。
それに気づいたカレンは嘆息すると、ある方向を手にしていた扇でさす。
「エステルでしたら、今来ますわ。――ほら」
彼女の言葉の直後に現れたのは、記憶の中の面影よりも成長した、大切な少女の姿だった。
父男爵の腕に手をかけ、ゆっくりと歩む。
伏せられた睫毛と緊張した面持ちのエステルは、どこか憂いを帯びていた。
結い上げられた銅色の髪がそう見せるのか、はたまた落ち着いた桃色のドレスがそうさせているのか――十四になった彼女は少し大人びて見えた。
ふいに、彼女の伏せられていた目がカイルへと向き、紫の瞳が覗く。
刹那に、エステルは微笑した。優しく、艶めいた笑みで。
――はじめて見る、笑みだった。
カイルは目を瞠り、惚けるように佇む。
父男爵の腕から手をはなし、少女が優雅に礼をとる。
「お久しぶりです、カイル様」
カレンや男爵の存在を忘れたかのように惚け続けるカイルに、苦笑を漏らす気配がした。
「カイル様?」と小首を傾げるエステルに、カイルは赤くなったであろう顔を隠そうと口元を片手で覆う。
「……久しぶりだな、エステル」
弾む鼓動が凪ぐのを待ち、深呼吸してエステルに腕をとらせる。
「挨拶まわりに行こう」
そう言えば、「はい」と従順な声と共に、震える手がそえられた。
その後、一通り挨拶まわりが終わったカイルは、カレンや男爵にエステルと庭園へ向かうことを告げ、会場を後にした。
季節折々の花が植えられたそこは逢瀬の場であるため、奥までは行けない。
木陰は淫らな行為の場であることを知るため、あえて人目のつく、明かりの爛々とした東屋で休憩することにする。
「疲れたか?」と問うと、エステルは首を横にふった。
微笑を浮かべているが、初めての夜会で疲れていることが見て取れた。
カイルはエステルを卓につかせて待機させ、足早に会場に配置された使用人に接触し、茶を頼んだ。
「エステル、休憩しよう」
言って用意された茶を渡せば、彼女は目を丸くしてカイルを見上げる。しばし目を瞬くと、ついで唇を尖らせて呟いた。
「……カイル様には隠し事ができないわ」
つい、カイルは笑ってしまった。先ほどまでの大人びた表情から垣間見えた、馴染みのある表情だったから。
それから、のんびり二人きりの小さな茶会を楽しむ。
手紙に書ききれなかったことを話し、笑いあう。
エステルがお菓子作りをはじめたと聞くと、次に会う時に作ってほしいと願った。
穏やかな時間に、心が癒されていくのを感じる。
東屋の中が、世から隔離された空間のようだとすら思った。――本当にそうなればと、願いながら。
記憶の中の彼女よりも、成長した少女。
言葉を交わして一喜一憂する姿を凪いだ気持ちで見つめていると、エステルは「あ」と発する。
椅子から立ち、庭園へとおりる彼女の後ろ姿を眺める。
エステルはすぐに立ち止まり、ドレスの裾を少し持ち上げてしゃがむと、地面へと手を伸ばした。
「なにかあったのか?」
カイルが首を傾げながら歩み寄って膝を折れば、そこに白詰草が生えていた。
芝で整えられていることが多い庭園だが、雑草の姿はないのになぜか白詰草だけは残されていた。
エステルは白い、小さな花を撫でながら言葉を紡ぐ。
「……香草を育てるようになって、植物の本を読むようになったの。『約束』――白詰草の花言葉よ」
頬を染めながら、幼い頃の記憶を手繰り寄せてエステルが微笑む。
「俺たちにぴったりだな」とカイルも笑みを見せた。
――知っていた。白詰草の花言葉。だから、彼女に贈ろうと思った。
約束、感化、そして――私を想って。
それが、白詰草の花言葉。
カイルは白詰草を一輪摘み、編みこむ。
「カイル様、王宮のお花よ」
後ろめたさにきょろきょろと首をめぐらし気配を捜すエステルに、カイルは笑った。ついで、エステルの手をとって出来上がった白詰草の指輪を薬指にはめる。
「――これ」
エステルが自分の手を持ち上げ、指輪を見つめた。
「昔よりうまくなっただろ?」
気持ちがあの頃と変わっていないことを伝えたかった。けれど正直に気持ちを口にすることが照れくさくて講じた手段。
「嬉しい。大切にするわ」
エステルは優艶に、喜色を滲ませて笑った。
そんな彼女に、心が満たされていくのがわかる。
そして気づけば、嬉しそうに指輪を見つめる彼女に手を伸ばそうとする自分がいた。
――今、はっきりと恋を自覚した。
――依存と執着と庇護欲が多くを占めていた、幼い恋心。
――けれど、恋情であると。
――自分の領域に……他の男の目の届かないところに閉じ込めたいという、狂愛と盲愛。彼女の望みを壊すことなく、守りたいという情愛。
共存する二つの感情。先人が残した言葉を思いだす。
『愛は惜しみなく与う』
『愛は惜しみなく奪う』
どうか、与うことのできる自分でありたいと、カイルは思う。
ゆえに、唇を奪いたいという欲望を抑え込み、エステルの手をとる。薬指にはめられた指輪に目を細め、そこに唇を落とした。
カイルが顔をあげると、エステルは顔を紅潮させていた。
そっと彼女を引き寄せ、腕の中に閉じ込めれば、静かな夜の空気に互いの速まる鼓動が聞こえる気がした。
「――エステル、待っていてくれ」
小さく耳元で囁くと、小さく彼女は頷いた。
(そのために、王宮での地位向上と――誰にも邪魔されないための伝手を)
願いを実現させるために、自分のすべきことを再度確認した。
それが、カイルとエステルが夜会から抜け出し、東屋で茶をする始まりになったのである。