5 (2011.2.8)
――カイル様、お元気ですか?
――男爵領は近頃暖かくなってきましたが、まだ時々肌寒い日もあります。
――カイル様のいらっしゃる王都はいかがでしょうか?
――どうか身体を冷やさず、健康第一でお過ごしくださることをお願い申し上げます。
そう、カイルの身体を案じる文面から始まる手紙が届いたのは、先日のことだった。
手紙が届いてから、カイルは空き時間を見つけるたびにそれを開く。
送り主はエステルで、カイルが王宮に従騎士として過ごすようになってから、頻繁にやりとりをしていた。
手紙の続きには、近頃エステルが香草に興味を持ったことが書かれてある。それまでの手紙にお菓子に興味を持ったこと、お菓子作りをはじめたことがあったことを思い起こせば、今回もその延長線上にあるのだろうと推察できる。
カイルは、手紙を読む時は必ず彼に与えられた部屋の、彼用の机という定位置でと決めていた。実家や知人からの手紙が各々の元へ届けられる場面は様々であり、食堂の場合や自室へと届けられる場合と多様であるにも関わらず、だ。もちろん、カイルの同期の従騎士たちは我先にと喜び勇んで受け取り、すぐさま封筒を開封する者が多い。
けれど、カイルは誰に邪魔されることなく、ひとりで読みたかった。食堂で受け取ったとしても、逸る心を押さえ込んで、部屋まで耐える。そうして手紙を読むひと時で、エステルと時間を共有しているような気持ちに浸るのだ。大切な時間は、二人だけのものにしたかった。
そして今現在もカイルは独り、机に向かって手紙を読んでいるわけだが……彼は小さく笑むと、懐中時計へと目をやり、ついで手紙をそっと畳んで大切に引き出しへとしまった。
立ち上がると同時に、扉が開かれる。
「カイルくん、そろそろ棒術の練習試合が始まる時間だよ」
そう呼びかけたのは、相部屋仲間のジョエルだった。
「ああ、すぐ行く」
カイルは頷くと――前を見据えるように、顔をあげた。
――気がつけば、カイルが侯爵領を離れ、従騎士として王宮に仕えるようになってから、数年が経っていた。
その間、カイルは父との約束を――また男爵との約束を守ろうと、必死になりながら王宮に在り続けた。
父の望みは、名のある貴族との縁を持つ事。
男爵とは、エステルとの婚約のためにカイルが騎士となり、立派に成長した姿で帰ることを約束した。
すべてはエステルと婚約することに帰結するが、カイルはそのためならば、どんな苦痛にも耐えることができた。
従騎士となった当初、武器磨きや食事運びといった仕事が主で、同期の従騎士たちは不平不満を漏らす者も多かった。
『騎士になるために来たのに、これではただの使用人だ』
わからないでもない感情。貴族としての矜持を強く抱けば抱くほど、葛藤が生まれる。ゆえに、享受するか放棄するか……もしくは拒絶するかで各々の態度は変わっていった。
けれど、王宮の騎士たちと接する機会となり、さらには縁をつくるにはもってこいともいえる機会だとカイルは考えていた。つまり、カイルは享受を選んだのだ。
他方では、教育として騎士道について説かれた。潔癖ともいえるその思想は、慣れぬ従騎士生活で感情を抑え込まれる彼らにとって、臨界点に達するきっかけになることも多々あった。
もちろん皆が皆というわけではないが、次第に宮廷愛に花咲かせ、愛に溺れる同期がちらほらと出始めた。
やがて様々な経緯から脱落していく同期を見送り、カイルはやっと、無事に下積みを終え、兄弟子たちから兵法といった軍事教育を受けるようになった。
その教育の一環とも呼べる棒術の手ほどきは、侯爵家にて武術について軽く学んだカイルにとっても、まだ己を未熟だと思わざるを得ない厳しさだ。過酷なその手ほどきは、打撲といった怪我は当たり前で、時には死者すら出る時があった。
まさに、従騎士の生活は弱肉強食の世界である。
*** *** ***
艶やかな黒髪が、さらりと風に靡いた。
召使用の庭に、喧騒と棒がぶつかりあう音が響く。
大柄な従騎士が、棒を振り上げる。
――カイルは地面に重く足を踏み込み姿勢を落とすと、体重をのせた一撃を仕掛ける。
瞬きの間に、対戦相手が手にしていた棒は空へと投げ飛ばされ、それの落下と共に相手は地面に倒れこんだ。
「勝者、カイル!」
判定役だった同僚の太い声が轟き、同時に彼らの練習試合を眺めていた兄弟子含めた従騎士たちが歓声をあげる。
「うっしゃー! よくやった、カイル! 今度の休み、なんか奢ってやる! なんてったって、お前のおかげで大儲けだからな!」
試合を終えたばかりで、肩を大きく上下しながら呼吸を整えていたカイルの頭に厳つい手がのせられた。その手の主は駆け寄ってきた兄弟子で、わしゃわしゃとカイルの黒髪を撫でまわす。
カイルは溜息をついた。
「……また賭けですか。いつか大損しても知りませんよ。お金、貸しませんからね」
「問題ない! カイルが勝ち続ければ、オレは負けないからな! だからお前ががんばれ!」
「…………」
再度溜息をこぼす。同時に、敗者を応援した者たちの溜息と悲痛なうめき声がそこかしこから聞こえた。
従騎士たちの練習試合は、下積みの頃とは異なり、複数の隊が合同で行う。したがって、限られた場所での大所帯ゆえに試合は勝ち抜き選で、優勝者を輩出した隊は次の練習試合の日まで優位な立場でいられるという特権があった。それは飲み屋での席から棒術訓練の際の場所取りといった多岐にわたる。
そうした理由から、皆が必死になって優勝を目指し、個人の益を求める者が対戦ごとの勝者を予想する賭けに参加した。
――騎士としての誇りが、今のカイルの心を支えていた。
男爵に認めてもらうために、騎士への道をひたすら走ろうと思う。もし、約束が父とのものだけだったとしたなら、カイルが王宮で過ごす目的は縁を築くことのみであった。けれど、今のカイルは、心身を強くすることこそが目標だった。目的は父と男爵の約束を守るために従騎士であるという二つがあるが、目標は一つ。――エステルを守る強さを身につけること。
そうして一日一日ごとに積み重なっていくそれが、カイルにより自信を与えた。
カイルの願いへと近づく気配と。
カイルという自我が確立していく実感。
――楽しいと、思った。
侯爵家で暮らしていた頃よりも、格段に。
ただ、エステルと自由に逢えないことこそが不満ではあるが、騎士へと近づく度に、エステルと共にある未来へと一歩ずつ近づいていると感じられた。
カイルの勝利に、本人以上にはしゃぐ兄弟子の腕はカイルの首に巻きつけられている。
「く……っ」と息苦しさに呻けば、「修行がたりんな! がはははは!」と能天気な言葉で返された。
そんな中――「行け」という、沈着冷静な言葉が響く。
騒がしいその場にも関わらずよく通る声に、誰もが口を噤んでそちらへと視線を向けた。カイルも言わずもがな、である。
すらりとした体型に感情のない瞳をした青年が、金糸のような髪を持つ少年に顎で指図した。
……多くの者が、金髪の少年に指示した兄弟子であろう人へと気を向けた。その通りに、カイルの兄弟子は「……あの鉄仮面は、隊は違うがうちと同じ近衛騎士配属のやつだ。……オレと同期なんだが……なんつーかいけすかねぇやつだ」と耳元で告げる。
ついで、「あいつ直属の部下をこてんぱんにのしてやれ。――オレはお前に賭けた!」と兄弟子は命じると、次の試合の場となるカイル周辺から距離をとった。
「そろそろ賭け事やめないと、身を滅ぼしますよ……」
溜息混じりに呟きながら兄弟子を見送り、対戦相手の立つべき場所へと歩んでくる少年へと灰青の瞳をやった。
彼は、金の髪に翠の瞳を持つ、見目麗しい少年だった。年のころは、恐らくカイルと同じか。極度に筋肉質な身体でもなく、むしろ貴公子といった風貌だった。
一見、強くは見えない。……だが。
カイルは少年の立ち居振る舞いの隙のなさに感心すら抱く。
試合の場の中心に立った金髪の少年。
相対するカイルに、彼は笑みを浮かべた。
「セシル・ラフェーエル・キングだ。よろしく」
彼の言葉に、多くの者が目を瞠った。
――キング家といえば、カイルの家であるハーシェル家と天敵ともいえるのだ。夜会の場であってもこの二家が揃うことはない。にも関わらず、王宮という長期で滞在する場にてこの二つの家が顔を合わせた。
それまで、カイルがセシルのいる隊と接する機会は一度たりてなかった。それは、偶然なのか誰かの意図があったのかわからない。そして今この場で相対するのが、偶然なのか誰かの意図があるのかもわからない。
しかし、カイルは構わなかった。
カイル自身には、セシルにもキング家にも負の感情を抱いてはいなかったのだから。
ゆえに、カイルは口の端を上げて言葉を紡ぐ。
「カイル・セドリック・ハーシェルだ。こちらこそ、よろしく」
柔らかい笑みを浮かべるセシル。しかし、そんな彼に対し、カイルはまた違う印象も抱いた。
どこか飄々としていて、笑んでいるのに冷たい瞳を持つ少年。それでも彼が人目を奪うのは、天性的な人を惹きつける魅力を持っているからなのだろう。
カイルは、どこか好戦的な笑みを浮かべている自分に気づいた。
もしかしたら、顔をあわせたその時から、永久の好敵手――もしくは天敵――になると気づいていたのかもしれない。
そして始まった練習試合。
――カイルはその日、初めて同世代の少年に負けた。
賭けに負けた兄弟子は絶望に打ちひしがれていたが――カイルは気にせず、地面に膝をつきながら、手の甲で滂沱と流れる汗を拭った。
呼吸を整えようと俯けていた顔を上げ、勝利に沸くセシル含めた一帯を見つめる。その灰青の瞳は、輝やいていた。
「……セシル・ラフェーエル・キング」
小さく名をひとりごち、自然と湧く闘争心と向上心に口角を上げる。
そうして立ち上がることもなく見据えていると、肩を叩かれた。
カイルは意識をそちらへ向け、肩を叩いた人物を見上げる。
そこには、相部屋仲間のジョエルが手を差し伸べて立っていた。
「お疲れ様。君も十分すごかったよ」
労う彼の手をとり、カイルが立ち上がると、ジョエルはセシルへと視線をやり、言う。
「君が連続試合で疲れていなければ、勝てたかもしれないよ」
励ましの言葉だったのかもしれない。
けれど、カイルは「――いや」と呟く。視線は、セシルへと向けて。
(セシルには、俺の攻撃を受け流す身軽さがあった)
今のままでは勝てないと、本能で悟った。
そして――。
(彼よりも、強くなりたい。負けたくない)
そう、思った。
気がつけば――世界がおもしろくなっていた。
*** *** ***
夕食を終え、自室へと戻ったカイルは机に向かってペンをとる。
机の上の便箋の冒頭は『エステルへ』という言葉から始まっている。
闇夜を照らす明かりは、揺れる炎であるために心もとない。だが今日は、空に浮かぶ月の明かりが窓から差し込み、作業を楽にした。
ふと、ペンを走らせる手をとめ、月を眺める。
手紙には、エステルを案じる内容と、カイルの現状について書かれている。今回は、セシルについての話題で現状が埋まっているといっても過言ではない。
……本当は、もっとたくさん書きたいことがあった。
(エステル――今、どうしている?)
切なさと恋しさで胸が苦しくなり、目を細める。
(同じ月を、眺めているだろうか?)
同じ空の下にいても、心の慰めとなるには物足りない。
――本当は、たくさん、たくさん書きたいことがある。
銅色の髪は、どれくらい伸びただろう?
背はどれくらい伸びただろう?
――笑顔は、昔のままだろうか?
きっと昔のままなのだろうと思う。彼女は、そういう女なのだから。
(……エステル、月は、太陽がないと輝けないんだ)
――エステルは、気づいているだろうか?
カイルにとっての太陽が、エステルであることを。
(――……エステル、逢いたい)
昔のように”好き”だと口にするのが、どんどん難しくなっていく。幼い頃は心のままに表現できたのに、今では……。愛しさは雪のように降り積もっていくのに。
だから。
素直に文字にできないがゆえに、別の言葉で代替した。
カイルはペンを再び動かす。
綴った言葉は『必ず騎士になって帰る』という一文。
(お前を守れるような強い騎士になって、必ず帰るから)
隠された言葉の意味がエステルに届くよう、カイルは祈った。