4 (2010.12.24)
カイルが十二に、エステルが八つになる年。
ハーシェル邸の侯爵執務室には、カイルの父である当主本人が執務机に肘をついて座っていた。
彼の目の前に立つのは、まだ大人への階段を一歩踏み出したばかりの、幼さ残る息子。それでも、今年十二になる彼の表情はずいぶん大人びていた。
侯爵はそんなカイルに口角を上げて告げる。
「――カイル、わかっているとは思うが、十二になる今年、王宮に従騎士として登城してもらう。心の準備をしておけ」
「はい」
カイルは表情を変えることなく、侯爵の瞳と真っ直ぐ相対する。
父の考えなど、はじめからわかっていた。侯爵家のために、王宮で伝手を掴んでくること。それが彼の目論見だ。カイルが騎士になることなど、どうでもよいのだ。所詮、カイルは侯爵家の駒のひとつに過ぎないのだから。
底冷えする心に蓋をして、カイルは言葉をつむぐ。
「――父上、王宮にあがる前に、エステルに逢わせてください」
息子の言葉に、侯爵は眉間に皺を寄せた。ついで、こめかみを揉む。
深い溜息は、カイルが”エステルを気に入っている”という現実を好ましく思っていない証だった。
「カイル、まだ男爵家の娘に懸想していたのか。……あの娘は我が家にふさわしくない。交友はかまわん。だが、恋情は今この場で断ち切れ」
鋭い視線。瞳には蔑みの色が浮かんでいる。
けれど、カイルは苛立つ素振りも戸惑う様子も窺わせなかった。――カイルの言葉に侯爵がどう返答するのかわかっていたからだ。
見事なほど予想通りの反応を示した父に心中嘲笑し、カイルは目を細める。
そこに表情はまるでなく、これが十二の少年のものだと思えば侯爵はわずかに目を瞠る。
「……カイル」
「父上、私はエステルと必ず婚約します」
「――っ! なにを馬鹿なことを」
こみ上げる怒りを理性によって鎮め、侯爵は深く呼吸を吐く。
「カイル、お前は次期侯爵なのだ。従騎士として王宮へ行かせる理由もお前ならば理解して……」
「わかっています。わかっているからこそ――今、この場で申し上げているのです」
抑揚のない声で反駁すると、カイルは突如感情を滲ませた。
「エステルとの婚約を認めてくださらないのなら、”俺”は王宮へは参りません」
十二年間従順だった息子の言葉に、侯爵は勢いよく椅子から立ち上がる。
「カイルっっ!」
「”俺”はエステルとしか結婚するつもりはありません!」
「目先の感情に囚われるな!! ハーシェル家を継ぎ、繁栄させるのはお前しか――」
侯爵がその言葉を口にした瞬間。
カイルはくつくつと喉の奥で嗤いはじめた。そして、彼は見たものを凍りつかせる瞳を父に向ける。
「――隠し子の一人や二人、いるでしょう?」
それは、血統にこだわる父を、ひいてはハーシェル一族を理解した上での発言。
母以外の女を幾度となく抱く父の姿を知っていたカイルが、腹違いの兄弟がいることを予想しないはずがない。それでも、侯爵と侯爵夫人の息子は、カイル一人しかいなかった。貴族の血をより濃く継いでいくことを望むハーシェル一族。その当主が、もし、侯爵夫人以外の女から生まれた子供だったなら。一族の一部は反発、そこから分裂へと繋がることは目に見えている。
息を呑む父は葛藤するように額に手をあて、俯いた。
(父上は頑固だ。……すぐに返事をもらうことは無理、か)
軽く肩を竦め、カイルは踵を返す。
そうして歩む足を扉の前でとめると、振り返ることなく言った。
「では、エステルと男爵に、我が領地――白い草原――への招待状をご準備願います、父上」
そう、逢瀬をするなら白い草原がいい。婚約の言葉を囁くなら、あそこしかない。
侯爵の了承がない限り、正式な婚約はまだ無理だったとしても、エステル本人と彼女の保護者に気持ちを伝えることはできる。自分が王宮で過ごす間、エステルの心が他の男に移らないようカイルの存在を刻みつけること、男爵に別の男との縁談を成立させないよう牽制することが目的なのだから。
カイルの頼みに、侯爵は返事をしなかった。
だが、否やの言葉がなかったことが返答だった。
カイルはそれに満足すると、執務室を後にした。
*** *** ***
カイルの願い通り、侯爵は男爵家へと招待の手紙を送った。
男爵は侯爵の頼みを無下にすることもできないため、ひと月後、逢瀬の約束は成立した。
侯爵領の一部である白い草原は、今年も真白な花と深緑色の葉が絨毯のようにひろがる。
馬車から降りたカイルは、同車していたエステルに手を差し伸べた。
「ありがとう、カイル様」
エステルがにこりと笑うと、カイルも穏やかに微笑んだ。
そんな二人の姿は、側から見ればまるで仲のよい兄妹のようだった。そしてそれをエステルの父である男爵と、カイルの父である侯爵も望んでいた。
男爵家の一人娘と侯爵家の嫡男という立ち位置は、カイルの恋の障害だった。
カイルはエステルの銅色の髪を優しく撫でると、「少しだけエステルのお父上と話してきてもいいか?」と問う。首を傾げて黒髪を揺らすカイルに、エステルは目を瞬きながらも頷いた。
「じゃあカイル様、先に行って待ってるわね」
そう言って、エステルは草原の中央へと走っていった。
既に馬車から降りていた男爵は、カイルへと歩み寄る。エステルとカイルの会話が聞こえていたようだ。
背後の気配に気づいたカイルは身体ごと振り返ると、男爵を見据え、徐ろに口を開く。
「男爵、私は今年、王宮へ参らねばなりません」
告げると、男爵は睫毛を伏せた。
「はい、存じております。侯爵様が、そのようにおっしゃっておいででした。――カイル様ならば、立派に成し遂げることができます」
男爵の言葉に、カイルは小さく笑みを浮かべる。”成し遂げることができるでしょう”ではなく、”成し遂げることができます”という言葉は、カイル自身を評価しているものだから。
嬉しかった。そして、思う。
(今、父上は邸に残っている。告げるならば、今しかない)
カイルは一度目を瞑り腹を決めると、閉じた瞼を押し上げ、強い意思を宿した瞳を覗かせた。
声を出そうと思えば、緊張して震えそうになった。
「――男爵」
「はい」
「エステルとの婚約を、認めてください」
お願いします、と懇願しながら、頭をさげる。
侯爵がいたならば、身分が下の者に請い願いながら頭をさげるなど、到底許されることではない。それでも、カイルはかまわなかった。
父がなんと言ったとしても。今は、侯爵嫡男としてのあり方の問題ではないのだ。
カイルは男爵に、義父になってほしいと願っている。”父”に頭をさげることになんの不思議もない。
父侯爵と相対していた時とはまた違う感情。あの時は、凍りつくような心で向かい合っていたため、恐怖心はなかった。けれど、今は拒まれることへの恐れに手に汗を握る。
男爵が娘を大切に想っていることを知っている。一人娘ゆえに、婿をとり、エステルに男爵家を継がせたいと思っていることも知っている。……カイルの言葉は、カイルの願いではあるけれど、男爵や男爵夫人、侯爵や侯爵夫人の願いとは異なっていることも、知って、いる。
しかし。
固く目を瞑りながらじっと頭をさげ続けるカイルの肩に、大きな手がのせられた。
その温かさに顔をあげると、苦笑する男爵がいた。
「……男……爵」
きっと、情けない顔になっていただろう。
けれど、この後、カイルの顔はもっと歪んだ。
男爵はあたたかさを含んだ声音で話した。
「あなたが立派な騎士となって帰ってくださったなら、前向きに検討致しましょう。――ですから、無事にお戻りください、カイル様」
彼は、まるで実の父のように微笑んだ。
侯爵の望みを知っている男爵。
当時のカイルの恋心が、まだ幼いことにもきっと、気づいていた。カイルがエステルに向ける依存心と執着心、庇護と独占欲。幼い恋が育まれ、実るか、誰にもわからない。だからこそ、男爵はいつ反故にされるか知れない婚約を、今の段階で受け入れることはできなかった。
でも、もし。成長したカイルが、エステルを望んだとしたならば。エステルも、カイルを望んだとしたならば。
男爵家のことよりも、父男爵は本人の意思を尊重しようと思った。
父よりも、父らしい男爵。
「――ありがとう、ございます」
カイルは嬉しさに泣きそうになった。
先延ばしにされた未来。
それでも、よかった。それだけで、十分だった。
きっと、自分の気持ちは変わらない。むしろ、大きく育つ予感があった。
安堵と幸福感に、心が満たされる感覚。
顔を歪めながらもなんとか男爵へと笑みを向けると、彼は眉尻を下げて微笑みながら「エステルが待っておりますよ」と促した。
「エステル」
名を呼べば、汚れることも気にせず地に腰をおろしたエステルがカイルを見上げる。
「カイル様、お話は終わったのね?」
「ああ」
エステルはカイルへと手を差し出す。
カイルは一瞬目を見開いたが、すぐ小さな手に自分のものを重ねた。
エステルの隣に腰をおろし、白詰草を数輪つみ始める。
「なにか作るの?」と首をちょこん、と傾げたエステルに「すぐわかる」とだけ答えた。
「……エステル、今年、俺は王宮に行かなければならない」
それまでエステルはじっとカイルの手元を見つめていたが、彼の言葉と同時に視線を上げた。
「王宮? ……すぐ、帰ってくる?」
寂しそうに紫の瞳を揺らすエステルを、カイルは引き寄せる。そっと抱きしめれば、エステルの手がカイルの服をぎゅっと握った。
「エステル、多分、帰ってくる時は大人になっていると思う」
エステルの手の力が強くなった。そんな仕草にカイルの心が温められると、エステルは知らないだろう。
「一年に一度は絶対会えるよう努力する。だから――俺を、忘れないでほしい」
途端、エステルはカイルから身体をはがし、首を横に振る。
「忘れないわっ。絶対忘れないから……逢いたい。カイル様が逢いにこられない時は、私が逢いに行くから……だから……」
エステルは俯いた。言葉を続けようとするのに、涙のせいで喉が痛んでうまくいかない。
なんとか涙をこらえようと唇を噛むと、カイルは愛しむように口端をあげた。
「――エステル」
カイルはエステルの頬に手を添え上向かせると、紫の瞳にカイルの顔が映し出された。
わずかに頬を赤く染めたエステルに満悦しながら、カイルは言葉をつぐ。
「俺と婚約してくれ」
驚きに目を丸くするエステルを、愛おしく思った。
「今すぐは無理だけれど――俺と、婚約しよう?」
父と、男爵に必ず認めてもらうから。そのために、立派な騎士になるから。エステルを、守れる強さを身につけるから。
心の中で誓いながら、請うように見つめ続けると、エステルは花がほころぶように笑みを見せた。
「嬉しい。――お受けします、カイル様」
より笑みを深くしたエステルに、カイルの心は甘く疼く。
――願いに一歩、近づいた。
カイルは確信した。
そうしてエステルに添えていた手を離すと、その手でエステルの左手をとる。そして、もう片手に持っていたそれをエステルの左手薬指にはめた。
「……カイル様、これ」
「白詰草で作った、婚約指輪。即席で悪いが……いつか、本物を贈るから」
囁くと、エステルが嬉しそうに、大切そうに指輪を撫でた。
「大切にするわ」
カイルは至福を感じて目を細めると、エステルの手へと唇を寄せ――指輪にそっと口づけた。