3 (2010.9.8)
両親と子爵、男爵が馬車の近くで言葉を交わしているのを横目で捉えながら、カイルはカレンとエステルと共に遊ぶ。
追いかけっこをしたり、四葉を探したり。そのどれもが子どもの遊びだったのに、一度も体験したことがなかったのだと、この時はじめて気づいた。
「みつけた!」
カレンの歓声に、エステルは駆け寄る。
「わぁ、ほんとうに四つはっぱがついてるね」
カレンの見つけた四葉を一心に見つめるエステル。その光景に、なぜかカイルの心に靄がかかった。
(……おれにも、あんなふうに笑いかけてくれないかな)
思って数拍後。突如カイルは赤面する。
(な、なに考えてるんだ、おれはっ。~~エステルは男爵家のひとりむすめなんだから……)
侯爵家嫡男であるカイルが、花嫁として迎えることは難しい。恋をすべきでは、ない。
いつものような貴族としての思考。そこから導き出された答えに、胸が捩れるような感覚がした。
四葉をさがすことも忘れて、呆然と座りこんだ。
「カイルさま、みつけた?」
声と共に、カイルの視界が陰った。陰の正体がエステルだと気づいたカイルは、思考から意識を戻し、愛想笑いを浮かべる。
「まだ見つかってない。エステルは?」
訊けば、エステルは頬を膨らませてカイルの頬をつねった。
「にゃ、にゃんでつねりゅんだ」
「だって、カイルさまったら笑ってごまかしてるんだもん」
直後、カイルの目は見開かれる。
(だれにも、バレたことが、ないのに……)
『笑ってごまかしてる』
その一言に、心が絡めとられた。
瞬きも忘れて「どうしてごまかしてるって思った?」と問う。
エステルは目を何度も瞬いた後、口角をあげて笑った。
「そうおもったから」
「…………は?」
まるで答えになっていないエステルの答えに、カイルは呆気にとられた。
「いや、思ったのがなんでってことなんだけど……」
「……うーん、おもったからおもったし、わかったからわかったの。カイルさま、そんなことより、四葉さがししましょ!」
やはり答えになっていないエステルの答え。けれど、なぜかカイルはそれが嬉しかった。
理由があったら、むしろカイルが困ったのだ。
「目が笑っていなかったから」
「声が笑っていなかったから」
もしそう答えていたら、それはただの洞察力。だが、エステルは直感だった。それは深く考えていない証拠。
カイルが滲み出るように心からの笑みを浮かべると、エステルが腕を引っ張って、いっしょに四葉をさがそう、と誘った。
「カイルさま、カレンのところでいっしょにさがしてみましょ?」
エステルの指の先には、紅の髪の少女の、ドレスが汚れることを気にしながら座っている姿があった。
そんなカレンを見て、貴族としての自分を思い出す。つい、エステルと一緒にいるとただの子どもに戻ってしまうが、自分は、侯爵家嫡男なのだ。
もしかしたら、エステルの無邪気な表情は演技で、カイルを誘うのも次期侯爵に取り入るためかもしれない、と脳裏に過ぎる。
考えた瞬間、頭の中で吟味する前に口から出ていた。
「――エステルは、おれが次期侯爵だからさそうのか?」
そして、言ったそばから後悔する。慌てて口を塞ぐが、エステルは足をとめ、振り返っていた。
……射貫くような紫の瞳が怖かった。
彼女が怒っているわけでも、憤っているわけでもないとわかるのに――秘められた感情に恐怖をおぼえる。
桃色の唇から紡がれる言葉を聞きたくなくて、「やっぱりなんでもない」と言おうとした。
が、エステルが口を開く方が早かった。
「じきこうしゃく? それって、次のこうしゃくさまってことよね? さっきカレンがいってたもの、こうしゃくさまはえらいって。でも……どれくらいえらいの?」
「…………え?」
きょとん、と小首を傾げ、それからエステルは瞑目して唸りだす。眉間には何本もの皺が刻まれていた。
きっと彼女は、まだ淑女としての教育を受けていないのだろう。
(そりゃ、男爵、子爵、伯爵よりは爵位は上だけど……)
思ったが、なぜか言葉にするのは躊躇われた。どうせそのうちに知ることだとわかっていたのに。
悩ましげに顎に人差し指を添えるエステルに、カイルは声をかける。
「え、エステル?」
答えるべきだろうか、と考えた時。
「それって、神さまよりえらい?」
「……………………えらくない」
咄嗟にカイルはそう答えていた。
王ですら神より偉いとは言いがたいだろう。
ついカイルはへなへなと脱力すると、眉尻を下げた。
「どうして神さま基準なんだ?」
ここは、もっと際どいものと比べるのが駆け引きだろうに。
「だって、神さまは雨をふらせて、ホウサクにしてくれるの。とってもすごいでしょ?」
自慢気に胸をはるエステルに、笑いが込みあげた。
「う、うん。すごいな……」
拍子に、お腹を抱えるように腰を折り、身体を小刻みに震わせる。間違いなく、ここで笑ったらエステルは怒るだろう。
しかし、エステルはそんなカイルに気づかず首を捻った。
「ふふー、すごいでしょ! ……でも、ホウサクってなに?」
ぶっ!
ついにカイルは噴き出す。
我慢できなかった。
笑いがとまらない。腹筋が痛い。目尻に涙が溜まる。今まで縛り付けていた何かが、解き放たれた気がした。
「え、なんでカイルさま、わらうの!?」
わけがわからない、とでも言うように腕を組むエステルに、異変を感じたカレンが駆け寄ってくる。
「エステル、なんでカイルさまは笑っているの?」
尋ねるカレンに、エステルは「なんでだろう?」と眉を顰めた。
しばらくして、カイルはなんとか笑いをおさめた。
ついで、カイルを不思議そうに見つめていたエステルの髪を一房手にとり、口づける。
口をあんぐりと開けるカレンとエステルをそのままに、カイルは表現できない嬉しさに困ったように、眉尻をさげて笑った。
「――ありがとう」
そう、一言囁く。
その日を境に、カイルの世界は鮮やかに色づいた。
帰りの馬車の中で、カイルは思う。
カイルを”カイル”として見てくれるエステルが、大切だと。
一方で、はじめての感情に戸惑う自分がいた。
それでも、彼女を失えば、”カイル”はこの世からいなくなってしまう。だから、絶対に手放せない。傍に、いてほしい。
別れたばかりなのに、すぐに会いたくなった。渇望していた心がエステルを求める。
思い出すだけで心があたたかくなり、胸が高鳴った。
陽だまりのような笑みがみたい。誰かではなく、その笑みは自分に向けてほしい。
――優しくしたいと、思った。
でも、優しくされたことがないから、その術がわからない。
――笑いかけてほしいと、思った。
でも、どうしたら喜んでくれるのかわからない。
大人たちの考えはわかっていた。
エステルとの邂逅は、将来のための顔合わせ。むしろ、カイルがエステルを娶りたいと言えば、面倒なことになりかねない。一線ひくべきだと、わかっていた。
――筈なのに。
一度目を固く閉じ――やがて決意を秘めた灰青の瞳を覗かせた。
そうしてカイルは最初で最後の我侭を自分に許す。
”次期侯爵”としての自分ではなく、”カイル”としての願いを通すことを。
どうか、エステルのことだけは許してほしかった。たとえ、他の誰かが善しとしなくとも、自分が自分に許す、”カイル”の存在を認めるたった一つの希望。
(父上――あなたの望む”次期侯爵”になるから)
お願いします。
(神さま―だから、どうか、奪わないで)
お願いします。
(――残された一縷の望みなんです)
懇願するように、祈った。
決壊してしまった感情は、もう、もとには戻らない。
気がつけば、エステルのことが好きで好きでたまらなかった。愛しくて――自分だけのものにしたかった。
だから。
「エステル、大きくなったらケッコンしよう?」
後に、カイルは初めて出逢った白い草原でエステルに結婚を申し込む。
「うん、けっこんする」
エステルから得られた答えに、頬を染めてカイルは満足げに笑う。
「ありがとう、おれのお姫さま」
やさしく、慈しむようにエステルを腕で包みこんだ。
――それは、幼い約束。
ゆえに、大人たちの誰一人として気づかなかったのだ。
ただの子どもの口約束が――実はカイルにとって、すべてを懸けた誓いであることに。