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侯爵様の好敵手  作者: えんとつ そーじ
六章 失ってしまった、大切なひと
31/33

エピローグ

.



 ゆらりと明かりが揺れ、影に強弱をつける。

 一層夜が深まり、窓から差し込むわずかな月の光は多少部屋を照らすが、心もとないものだった。

 後悔ばかりの――けれど、幸せに浸ることのできる残酷なきおくから覚めたカイルは、目をうっすらと開き、睫毛を伏せて切なく笑む。

 視界がぼやけ、涙の膜がじわりと目に張っていることに気づいて、目頭を押さえ零れぬように拭った。

 少しずつ霧が晴れるように思考が動き出す。そうして、どうやら執務室で眠ってしまったらしいことを把握した。

 手の中には、指輪の入った小瓶がある。執務机の上、小瓶を握りしめるように手を組む形で眠っていたらしく、手の中のそれは人肌に温まっていた。

 手のひらを開き、それを見下ろす。

 小瓶に入った、カイルの気持ちが刻まれた指輪。それはセシルと決闘した公爵の夜会後、カイルが領地へと戻って来た頃になってハーシェル侯爵邸に届けられた。

 もう二度と、エステルが指にはめることはないかもしれない。――用済みともいえる指輪だが、カイルはそれを手放すことができなかった。

 指輪を捨てることは、自分の気持ちの欠片まで捨てることのように思えたからだ。

 ――実際に、指輪を捨てることでエステルへの気持ちが断てるならば、それもよいのだと、第三者でありカイルを心配するジョエルならば言ったかもしれない。

 けれど、現実はそう甘くない。指輪を捨てたところで、カイルの気持ちはなんら変わらない。想う気持ちも、願いも、すべてにおいて。

 かつて、エステルを諦めようと婚約を破棄した。しかし、カイルはどうしてもエステルへの気持ちをなくすことはできなかった。つまり、指輪という形のあるものをいくら手放したとして、心までどうこうできないということであり、理屈で感情を左右することができなかったという答え。

 では、この指輪をどう扱うか。

 ――エステルと自身以外の誰にも触れさせたくはない。この指輪は、カイルの気持ちの欠片なのだ。

 ならば、と思う。

(紐や鎖に通して、首にかけようか)

 無くさず、肌身離さず持っていられる方法といえば、指にはめるか首からさげるかしか浮かばない。それでも、人目につけば憶測からどんな醜聞を生み出すかもわからず、出来る限り目に見えない場所につけておきたい。

 とすれば、なにかに通して首からさげておくのが一番に思えた。

 カイルは机の引き出しを開け、使えそうな物を探す。が、残念ながら使えそうなものは都合よく見つからなかった。

(……仕方ない。また使用人に用意させればいいか。……別に、特段急いでいるわけでもない)

 そう溜息を零し、小瓶をひと撫でしてから引き出しに仕舞った。名残り惜しむように、視線は小瓶の仕舞われた引き出しに落とされたまま。

 ――エステルを失ってから、気づいたことがある。

 それは彼女を失っても、彼女がこの世にいる限りカイルは”カイル”でいられるということ。皮肉にも、この事実はエステルを失ってみて初めて気がついた。

 エステルは決してこれまでのように、太陽の如くカイルを照らしてはくれない。けれども、星の輝きや月の光のように、カイルを照らし続けてくれる。そのことに、今更ながら気づいたのだ。



 扉が叩かれ、伏せていた目を上げる。

「入れ」

 短く告げれば、執事が盆にカップをのせて現れた。

 軽く目を丸くするカイルに、執事は柔らかく、そして目尻に皴を刻んで気づかわしげに微笑む。

「最近、眠りが浅いようでしたので……。ホットミルクをお持ち致しました。……出過ぎた真似をして、申し訳ありません」

 執事がミルクの入ったカップを執務机に置く。

「……いや、ありがとう」

 カイルは柔らかそうな湯気を見つめて、苦笑を零しながら礼を述べた。

 ――こうして、カイルを心配してくれる者はいる。

 カイルも、それはわかっている。ハーシェル侯爵家に仕える騎士団長や執事はいつだってカイルを見守ってくれているのだと。

 けれど、それは只の”カイル”を認めてそうしているわけではない。カイルがすべてを失い、只のカイルになったとして、彼らは同じ行動をとるだろうか。身分も権力も財力も失ったカイルに、手を差しのべてくれるだろうか。――カイルには”是”と思えない。

 ゆえに、次期ハーシェル侯爵としてのカイルを彼らは見ている、そういうことだろう、とカイルは判じている。

 ジョエルとて、今でこそ親友であるが、最初は多少なりとも利害があって接触を図ったのだろう。そしてそれは、カイルとて同じ。現在はジョエルという個人を見ているが、出逢いは公爵家の末子として接していた。

 ――ただ一人。出逢いも含め次期ハーシェル侯爵としてではないカイルを見てくれたのは、エステルだけだった。だから、依存と執着の対象は彼女に集中してしまった。カイルの世界の中心となってしまったのだ。

 久しくホットミルクを飲んでいなかったことを思い、懐かしむように目を細めながらそれを口にする。ほのかな甘さと身体に沁みわたる温かさに、心の波が凪いでいく気がした。

『休息を』――カイルの様子から察し、そう図った執事はできる人物だといえる。だが、今のカイルはその優しさや思慮を無下にしたとしても、いっぱいまで張った緊張感を解くつもりも安らぐつもりもなかった。

 油断するわけにはいかない。気を抜くわけにはいかない。失敗するわけにはいかない。

 ――まだ、やらなければならないことが、あるのだから。

 カイルは執務机に置かれた懐中時計を見やり、時刻を確認する。それから、控えていた執事に問うた。

「……父上は、まだ起きているか?」

「はい」

 頷いた執事。カイルの続く言葉を待つように、彼の視線はカイルに向けられたままを保つ。

 静かな視線を受け、カイルは言葉を紡いだ。

「では、これから会いに行くと伝えてくれ」

「……はい」

 退室の礼を執った執事の表情がどこか悲しさを含んでいるように見えたのは、カイルの気のせいだろうか。


 扉が閉まり、執事の廊下を歩く足音が遠のくのを待ってから、一気にミルクを仰ぐ。

 温かい液体を嚥下する。ついで、カップを机に置き、息を吐いた。

 どんなに身体が温まっても、心は凍え、痛い。――痛くてたまらない。深い傷が化膿するかの如く、いつまでも疼き続ける。

 過去と現在を想えば、いつだって後悔している。しかし、エステルとのことを忘れることはない。痛くて良いのだ。苦しくてかまわないのだ。

 どんな過去も、エステルと過ごした証としてカイルの心に刻まれるから。それがどんなに深い傷痕を残していても、彼女が傍にいた証拠なのだから、愛おしい。癒える必要など、ない。

「……エステル」

 呟く。ついで、過った苦々しい感情に顔を歪めた。

(……エステルは今、セシルといるだろうか)

 今日、エステルとセシルの結婚式だったことを考えれば、それが当然だろう。――当然だとしても、黒い感情が胸に渦巻く。

 ――エステルはどんなドレスを纏い、セシルに嫁いだのか。

 彼女は今宵きっと、カイルが目にしたことのない艶冶な姿をセシルにだけ見せるだろう。甘い声も、肌の感触も、セシルにだけ。

 それが――こんなにも憎らしい。愛しいのに、独占欲が彼女を血に染め上げ、自分だけのものにする為浚いたくなる。

 カイルの愛は、そんな狂気すら纏った形をしている。甘やかしたい、大切にしたい、守りたい――その裏で、独占したい、愛してほしい、抱いてしまいたいという欲求がいつだって共存する。

(……セシルの愛の形は、どんな形だろう)

 過った疑問に思考を巡らせてみた。

 セシルならば、カイルと同じことがあったとして、エステルを未来ごと信じきることができたのだろうか。

 そんな尽きない問いに、答えてくれる者はいない。


 もう一度、長く息を吐いてから立ち上がる。父の執務室へ行く為に。




***   ***   ***




 廊下を歩きながら、未来を考える。――それは、エステルを失ってからずっと考えていたこと。

 カイルは、セシルとの決闘に敗れた。つまり、誘拐するように力づくでエステルを取り戻したとして、決闘には公爵が立ち合いしたのだから、簡単に約束を反故にできない。

 ならば、カイルがエステルの傍にいる為になにができるのか。どうしたら近づくことができるのか。――そう、いつだって熟考する。

 もう二度と、諦めない。自ら手放さない。その為に、どう動くべきか。

 そして、思考するのはそれだけではない。

 ――最後の復讐についても、ずっと考えていた。

 エステルとカイルを罠にはめたカレン。カレンを伯爵に差し出したメイナード子爵。王弟から指示を受け、メイナード子爵家とクラーク男爵家に圧力をかけたウィクリフ伯爵。そして――己の権力を使ってカイルを手に入れようとし、カイルの夢が崩壊する元凶をつくったユーフェミアと、彼女のわがままをきいた王弟。

 カイルの灰青の瞳に、剣呑な光がよぎる。憎悪も恨みも嫌悪も、負の感情すべてをその瞳に宿して。

 最初はカイルに恋した、ユーフェミアの小さなわがままだったのかもしれない。かわいい娘のそんなわがままを、王弟はきいただけなのかもしれない。

 だがそのわがままによって、多くの者が不幸になった。カイルにとっても、夢破れるきっかけとなった。――それが、どうしても許せなかった。

 だから、復讐するのだ。徹底的に。

 空洞の空いた心は氷で覆われ、そこに甘さがつけ入る隙など一切ない。どこまでも冷徹に、冷酷に。憎悪は時間に癒され絆されることなく、傷痕と共に深く刻み込まれる。

 考えて、考えて、考えた。ユーフェミアがどうしたら苦しむのか。娘を溺愛する王弟と共に。そうして考えた結果、結論は案外簡単に見つかった。

 カイルの口元が嗤うように歪む。

(この復讐に、父上は喜ぶかもしれない)

 ――カイルの復讐は、ユーフェミアと父が望む通りにすることだから。

 彼女が望む通り、カイルとユーフェミアが結婚したとする。けれど、カイルは彼女を抱くつもりなど塵ほどもない。可能性すら。

 しかし、次期ハーシェル家当主として、子は必要だ。

 カイルにとって、父は復讐の対象ではない。父はエステルを個人ではなく男爵令嬢としてしか見なかったが、カイルが説き伏せてからはユーフェミアとの縁談話をちらつかせることはあれど、エステルとの結婚の邪魔はしなかった。彼は約束を違えてはいないのだ。嫌っていても、そこをカイルは評価しているし、だからカイルも父との約束を破るわけにはいかない。

 ゆえに、父の望み通り子はなす――ハーシェル家の血をひく子は。ただ、それはカイルとユーフェミアとの間の子ではないというだけ。

 カイルはこれから父に、これまで拒んできたユーフェミアとの縁談を了承する旨を伝えるつもりだ。――さらに、己が生殖において不能であるという嘘も。

 決して、その事実はない。けれど、心の底から嫌悪する娘を前に感情が昂るとも思えないから、完全な嘘というわけではないかもしれない。

 とにかく、好色な父に伝えることで、彼がユーフェミアを抱くよう話を持っていけばよい。父とユーフェミアの間に子ができれば、一族の血は保たれる。戸籍上はカイルの子とすればよい。ただそれだけのこと。

 カイルは確信している。きっと父は了承するだろうと。ユーフェミアは事実を知れば拒むだろうが、初夜に暗闇に紛れていれば相手が父とわかりはしないかもしれない。一度父とユーフェミアが関係をもってしまえば、彼女とて外聞と保身の為、むやみやたらと口外するわけにもいかないだろう。父と関係をもって不利になるのはどちらか、離縁し不利になるのはどちらか。そこまでわからない娘ではないと思いたい。

 そんな娘を見て、王弟はどのような様子を見せるだろうか。日に日に穢れていく娘を目の当りにして、気づかずにいるのか、それとも縁談をすすめたことに胸を痛めるか。

 ――それこそが、カイルの復讐。

(権力で欲を満たそうとする傲慢な者には、それがふさわしい)

 そして、(もしかしたら)とカイルは少しだけ期待していることがある。

 父の種で孕ませた子を、キング侯爵家に近づけさせれば、エステルとも近づけるかもしれない、と。王族の血と権力を利用すれば、或は――。

 ――欲しいものがある。その為に、あったら良いもの、なければならないものがある。嫌忌していたことだった。軽蔑し、傍観してきた道だった。

 けれど。どうしても欲しいものがあるのだ。その為ならば、カイルは手段を選ぶつもりもない。

 カイルは喉の奥で嗤い、それをおさめると低く呟く。

「――汚らわしい」

 ユーフェミアも、王弟も、現在のカイルを取り巻くすべてのものが。

 ――しかし、この世で最も汚らわしいのは。

(俺、なのだろう)

 心の中で独り言つ。

 そうして、覚悟を決めるように前を見据え、廊下を進んだ。



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