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公爵領ハーシェル侯爵家別邸にて。
客用の一室は、しんと静まり返っていた。普段、カイルやハーシェル侯爵は侯爵領地の邸にいる為、この邸は社交の季節にしか使われない。
よって、カイルとエステルだけが滞在する今、使用人は必要最小限であり人の気配は少ない。カイルの両親は公爵の夜会が間近と迫った頃に来るだろう。
そうして、邪魔のされない空間で二人の時間を過ごす。
客用の部屋の中で最もカイルの私室と近いそこ。壁紙はゆったりと過ごせるよう淡い碧色に施され、大理石の卓と質の良い布で作られたソファ、部屋の隅には絹のシーツで整えられ天井からは紗幕の垂らされた寝台が設置されている。
睡眠導入剤によって眠るエステルは、その寝台に横たえられていた。
寝台の隅に座るのは、カイル。
カイルが窓へと視線をやれば、差し込む日差しは朱色に色づいていた。もう日が傾いているのだと気づく。
エステルの銅色の髪を梳きながら、目を細めて彼女を見下ろす。
――あまりに強引で卑劣な方法だった。自己嫌悪に陥るほどに。
あんなに権力に執着し、どんな手を使うことも厭わない父を嫌忌していたというのに、自分まで同じになってしまうとは、なんたる皮肉なことか。
――それでも、手に入れたかった。取り戻したかった。
一度手にしてしまった幸福。手にしたことがなければ知ることもないから、”満たされる”ということを知らなかったのに。知ってしまってからでは、どうしても手放すことができなくなった。
好きで、愛おしくてたまらない。胸苦しいほど。狂うほどに。
守りたいとずっと願い続けてきた彼女を、自分の手で傷つける恐怖から手放したというのに――そんな狂気から逃れることができると思って手放したというのに、一度満たされた心は喪失感に耐えられなかった。
大切にしたい。守りたい。優しくしたい。
そう思う片隅で、”自分のものにならないならば、傷ついてしまえばいい””誰のものにもならないよう閉じ込めてしまえばいい””共に死んでしまえばいい”という相反する感情がとぐろを巻いている。
馬車の中、目を閉じるエステルを抱きかかえながら、ずっと堂々巡りを繰り返してきた。けれども、別邸に着いた今でさえ気持ちに決着がつくことはなかった。
「エステル……好きなんだ――」
――どうしようもないくらい。どうしたらいいのかわからないほどに。
続く言葉は、薄闇の中に消えていく。
日が地平に隠れる程度沈んだ頃、空は藍色へと染まってゆく過程にあった。
まだ部屋は薄暗いくらいで、夜目をきかせれば大体物は把握できる。明かりを用意しようと思ったカイルが腰を浮かせると、エステルが身じろいだ。
気づいたカイルは再び腰を寝台へと沈めることにし、彼女が目覚めるのを待った。
不意に思い出したのは、幼い頃に子守唄代わりだった童話。深い森の中で眠るお姫様の童話は、王子の口づけによって目覚める。
もし、と思う。
もしエステルが童話のお姫様だったとするなら、一体誰からの口づけで目覚めるだろか。カイルか、セシルか、その他か――考えてみて、苦笑を零す。
(姫の王子は、悪役であってはならないだろう)
つまり、まるで悪役のごとくエステルを眠らせたカイルが王子役になるなど、どう逆立ちしてもあるまい。
――では、セシルだろうか。
彼ならば、容姿はまるで王子に合うだろう。
――けれど、カイルはそれを阻む。全身全霊でもって。
とするならば、王子のいない眠り姫は目覚めることができるだろうか――そんな杞憂が生まれた。
溜息を吐く。
(……馬鹿馬鹿しい。そも、非現実的だ)
眠るエステルの頬を撫で、彼女の体温に頬を緩めた。
(大丈夫、あと少しだ。あと少しで、エステルは俺のものになる)
心を安定させる為、呪文のように唱える。
打てる手はすべて打った。男爵を説得し了承させた。公爵家の夜会にはエステルと共に参加する旨を示した。あとは――エステルに、再びの婚約を申込み、諾をもらうだけ。そしてそれについても、きっと彼女は頷いてくれる。彼女は”男爵令嬢”という己の身分を弁えている筈だから。
あと少しで、エステルのすべてが手に入る。彼女の未来も、まだ見ぬ二人の子供も。
カイルは己の唇に指で触れ、いまだ残るエステルの唇の感触に睫毛を伏せる。彼女の熱と柔らかさを思い出せば、罪悪感が疼くと同時に胸が弾んだ。
――もう一度、と欲張りたくなる気持ちになんとか蓋をする。
ついで、自嘲気味に唇を歪め、エステルの震える睫毛を見つめた。
ゆっくりとエステルの目が開かれた。紫の瞳がのぞく。
夢の世界から覚めようと、エステルがぼんやり目を何度か瞬いている間に、カイルはランプを用意しようと席を立つ。
明かりを灯したランプを手に寝台横へと戻れば、エステルはだるそうに上体を起こしていた。まだ倦怠感が残っているのかもしれない。彼女は布団の上に腕を出し、どこか遠くを見つめていた。
エステルがカイルの気配に気づいたのか、カイルへと視線を向ける。
カイルは、ランプを寝台横の机に置きながら言葉を紡いだ。
「エステル……目がさめたのか。――よかった」
静かに眠るエステルにわずかな不安を抱いていたから、安堵の息が出る。
そんなカイルに、エステルは不思議そうな顔をして呟いた。
「……カイル様」
恐らく、彼女は現状を把握できてはいないのだろう。睡眠導入剤を使って、浚うようにハーシェル侯爵家別邸に連れてきてしまったのだから、当然といえば当然である。
カイルが状況をどう説明すべきか思考を巡らしていると、エステルの反応が先になった。
彼女は次第に表情を訝かしげなものに変え、カイルに尋ねる。
「カイル様、ここはどこ? なんで私はここにいるの?」
もう一度寝台の端に座ったカイルは、エステルの手に自分のものを重ねる。ふり払われるのでは――と一抹の不安が過ったが、彼女がそうすることはなかった。
そんな些細なことに安心して、彼女の質問に答える。
「……ここは公爵領にあるハーシェル家の別邸だ。俺が連れてきた」
カイルがゆっくりと、穏やかに告げる。
すると、エステルは眉宇を顰めた。
彼女にとっては寝耳に水ともいえる事態なのだろう。目を閉じ思案するように思考に沈んだエステルは、やがてなにかを思い出したかのように目を開いた。
カイルを見つめてくるエステルの瞳。心落ち着かないのは、彼女に恋慕しているからか、それとも罪の意識か。それでも、あと少しでエステルが手に入る――そう思うことで余裕をつくる。
そんな様々な感情を渦巻かせたまま、カイルは彼女に触れたくて手を伸ばす。
エステルの額を手で覆い、即興の言い訳を口にした。
「よかった、熱はない」
相好を崩す。熱がないことなど百も承知だ。彼女が眠っている間も、熱はなかった。カイルが持つ睡眠導入剤にそのような副作用もない。
エステルを落ち着かせるように、昔のように接そうと心がける。けれど、エステルの表情が綻ぶことはなかった。
彼女は額からカイルの手が離れると、二、三回頭を振ってからカイルを見据える。――嫌な予感がした。
彼女の真っ直ぐな瞳はカイルを拒絶する色を秘めて見えた。カイルを拒絶する理由は、婚約破棄に関するいざこざだけが理由ではない。彼女は婚約破棄に関して謝罪はいらないと言ったし、不貞を疑ったことについての謝罪は既に受け入れた。
――では、なぜカイルを拒絶するのか。
脳裏に過る、好敵手の姿。努力型のカイルとは異なり、天才肌の青年。だが、好敵手がきっと求めるものを、当時のカイルは有していた。今は失ってしまったけれど。
――胸騒ぎが、する。
エステルが真摯な表情で言葉を紡ぐ前に、カイルは言葉を遮るようにして問うた。
「――セシルか?」
本当は、名前を出すことすら躊躇われた。本当は、答えがほしくなくて動悸のように胸が大きく鼓動を刻んでいる。
しかしエステルは、動揺するように息を止め、震える声で答えた。
「なんの、こと?」
残酷なことに、カイルにとって言葉よりもそれこそが答えになった。彼女は肯定していない。でも、はっきりと動揺を露わにしたのだ。
嘘を吐けない彼女。昔から変わらない。そのことを嬉しく思う一方で、苦しくなる。――こんな時は、嘘が上手であってほしかったと都合よく考える自分に苦く自嘲した。
「変わってないな。嘘が下手なところ」
「……嘘なんて」
エステルがなんと答えようと、今更だ。彼女がこれ以上嘘をつかなくても良いように、カイルは自身の知るエステルとセシルの繋がりを話す。
「エステルの迎えの馬車が、キング侯爵領へ向かっただろう? 馬車はキング侯爵邸の近くの店に待機させていた。つまり、お前はセシルと関わっていた可能性がある。違うか?」
エステルは目を泳がせる。
(ああ、やはり)という苦い感情を押し込め、言葉をつぐ。
「……悪いが、情報を集めさせてもらった。エステルが男爵家を出て関わった貴族は、セシルくらいだった筈だ。だったら……お前が好きだという男は、セシルでほぼ間違いない」
言い訳、してほしかった。否定の言葉を聞きたかった。嘘でもよかったから――そうしたら、彼女の言葉を信じるよう努力できたのに。
だが、エステルはなにも答えない。やや俯き、唇を噛んで唇を引き結んだ。
――なんて残酷なのだろう、と思う。こんな時、嘘が上手なことこそが優しさになるのに。
それでも、そんなエステルだからこそ、カイルは恋したのだ。あまりに矛盾した感情に、幼子のように泣きたくなる。愛しさが募って、たまらなくなる。
カイルはエステルの頬に手を伸ばし、包み込む。
――離れていかないでほしい、と縋れれば、どんなにいいだろう。縋れば彼女が離れていかないならば、矜持などかなぐり捨ててできてしまうだろう。
だが、カイルは知っている。彼女は優しいけれど、流される人ではない。”自分”を持っているから、カイルの嫌う汚れた世界に染まらない。皮肉にも、カイルの愛するきっかけになった部分こそが、カイルの恋を妨げる。
――どうしたら、傍にいてくれるだろう。
その答えを、カイルは知っている。まさにハーシェル侯爵家のやり方であり、カイルがずっと厭うてきた方法。まるでこれまでの自分を否定してしまうような、そんな心の揺らぎ。それでも、幾度となく葛藤した結果、天秤は彼女を手に入れることを優先させた。
”男爵令嬢”としてのエステル。彼女の弱みは、そこだ。
「エステル……伯爵家が手をまわせば、男爵家の存続は危うい」
「……だから、カイル様と婚約しろっていうの?」
エステルに睨まれ、カイルは痛みをこらえるように笑んだ。
(どんなに嫌われても、手段は選んでいられない)
だから、続ける。やるせない気持ちは、握りしめた拳に込めて。
「――セシルに頼るか? 頼ったところで、伯爵が手をまわす。一時の資金援助では無駄だ。継続的な資金援助であるか、男爵家が伯爵家とは無関係な、新たな伝手を探さない限り」
エステルの瞳を、カイルは射貫くように見つめる。
「エステルは、好きな男を利用できるか?」
この言葉に、エステルは顔を上げた。彼女の中で、セシルへの恋と男爵令嬢としての責務と義務が天秤にかけられているのだろう。そしてセシルが好きだからこそ、利用できないと思っているのだろう。
――セシルに迷惑をかけたくないと思うほど、彼女は彼を愛しているということか。
(……痛い、な)
心が、胸が、締めつけられる。壊れてしまったガラス細工が二度ともとに戻らないように、カイルとエステルの恋も、そうなのだろうか。そんなことを考える。
――どうか、もう一度好きになってほしい。
願うように、カイルは唇を噛むエステルを抱きしめた。
裏腹に、言葉は「――エステル、俺を利用すればいい」という脅すものを囁いて。
「――急がない。待つから。いつか……俺を、好きになって」
どれだけでも待つ。
「……気持ちを焦らすつもりはない。まずは、形だけで構わないから」
だから、傍にいさせてほしかった。
*** *** ***
深い夢から覚めるまでの過程で、いつだって揺蕩うように思考する。
(どこで間違えてしまったのだろう)と。
夢を辿りながら常に答えを求めた。
時機の見定めがいけなかったのか、エステルの合意なしにすべてを進めたことがいけなかったのか。
好きすぎて壊してしまいそうになる。彼女しか見えなくなってしまう。恋に盲目になってしまう。そんなカイルの愛し方がいけなかったのか。
どうして、カイルとエステルの間にばかり、邪魔が入るのか。どうしてそれらにいち早く気づき、対処できなかったのか。
後悔はたくさんある。考えれば考えるほど、溢れるように見つかる。
エステルの存在をどうしてユーフェミアに示唆してしまったのか。カレンの異変に気付けなかったのか。エステルの未来ごと信じぬかなかったのか。
一つ歯車が乱れた時、カレンの人生も、ウォルターの人生も、カイルの人生も変わってしまった。恐らく、その一つによってセシルやエステルの人生も変わった。エステルにとって、それが幸か不幸かわからない。だが、間違いなくカレンやカイルにとっては不幸でしかなかった。
――どうしても、今のカイルには許せなかった。カイルとエステルの歯車を狂わせた存在が。
だから、カレンがエステルを憎む理由となった存在を追い込んだ。カレンを売るように手放したメイナード子爵家、カレンを娼婦のように扱うことでエステルへ羨望と妬み、そして自分の境遇との差に憎悪を抱かせたウィクリフ伯爵家。
もちろん、エステルとカイルの幸せを阻んだカレン自身も、伯爵家や子爵家と運命を共にしてもらおうと決め、実行した。
しかし、それでもまだ、カイルの復讐は終わらない。
(俺からすべてを奪ったやつらを、俺は許すことができない)
”許さない”ではないのだ。”許せない”のだ。自分の気持ちに言い聞かせているのではなく、本能がそう叫ぶ。
――まだ、復讐の対象は残っている。
カイルの灰青の瞳に、剣呑な光が過る。
――この復讐は、終わらないだろう。カイルがエステルを想い続ける限り、ずっと。
後悔が、とまらない。苦しくて切なくてたまらない。
それでも、この心に深く刻まれた傷すら愛おしい。深ければ深いほど、彼女と過ごしたわずかな時すら忘れなくて済む。思い出せば苦しいけれど、その痛みこそが彼女が傍にいた証となる。
――渡すことのなくなってしまった、結婚指輪。そこに刻まれた、『永久に愛することを、誓う』という言葉。
きっともう、二度と彼女にそう誓うことはできないだろう。
彼女は、セシルと結婚してしまうのだから。公爵立ち合いのもと、決闘までしたのだから、敗者はこの気持ちを堂々と表に出すことは許されない。
けれどもこの恋は、きっといつまでも続くのだろう。
カイルはそう確信している。
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