2 (2010.9.7)
その日のことを、カイルは今でも鮮明におぼえている。
それは、カイルが六歳になった年のことだった。
カタン、カタン、と馬車が揺れる。
どうやら舗装されていない道を走っているらしい。
外の景色を遮断する幕を開け、カイルは窓の向こうへと視線を向けた。
――そこに広がるのは、見た事もない白と緑の世界。
驚き、よく見れば、地面が白詰草に覆われているのだとわかった。
初めて目にする光景に目を丸くするカイルの隣で、母が珍しく目許を和ませる。
「きれいね。ふふ、いつになくカイルが嬉しそうだわ。早く外へ出たいの?」
「――はい。とてもたのしみです」
カイルは笑った。その場に相応しい笑みで。
今、望まれている存在は、歳相応の無邪気な息子。遊ぶことが楽しくてたまらない、子どもらしい少年。
知っていた。だから、期待に応えるように笑っただけだ。
「……カイル、わかっているだろうが、今日は顔合わせだ」
向かい席に座る父が、眉間に皺を寄せて言葉を紡いだ。不機嫌そうな声に母が小さく溜息をつく。
カイルは少しだけ落ち込んだ顔を見せた。
「はい、父上」
父へは、この反応が正しいのだと知っている。笑って答えれば苛立つだろうし、重度の落ち込みを見せれば溜息をつく。そういう人間なのだ。ゆえに、カイルは少しだけ落ち込んで見せた。「はい、わかっています」「あなたの望みにこたえます」と伝えるために。
正直なところ、この頃には片親と顔をあわせるだけでもうんざりしていた。それにも関わらず、両親と馬車に同乗して遠出をするなど、「窒息死しろ」と告げられていると言っても過言ではない気分だ。
「メイナード子爵令嬢はカレン、クラーク男爵令嬢はエステルだ。おぼえておきなさい。……双方ハーシェル家と繋がりが深い。もし反旗を翻されたら厄介だ。特に、エステル嬢は一人娘だからな。夫をとり、跡を継ぐ可能性が高い」
そう言葉をつぐ父に、内心では鼻白みながらも、表面では真剣な顔で頷いた。
*** *** ***
馬車がとまる。
扉が開かれ、カイルはやっと重たい空気がたちこめる場所から解放された。
白詰草を踏むのは忍びなかったが、他に足をおろす場所がないため、仕方なく地に足をつけた。
サク、サク、と数歩進み、目を閉じて深呼吸する。草特有の爽やかな匂いが身体に満ちた。
「気持ちいい」
不意に出た言葉は、久しぶりの本音。
「お久しぶりです、侯爵様」
近づいてくる足音と共に声がふってきた。
カイルが顔をあげると、目の前に二人の父と同世代と思しき男、そして二人の少女がいた。
目上の者に対する礼をとった二人の男に、父が軽く挨拶を交わす。
「ああ、久しぶりだな。メイナード子爵もクラーク男爵も元気そうだ」
父がカイルに合図をした。挨拶しろ、と命じていることを察したカイルは、子爵と男爵、そして二人の令嬢に微笑む。
「はじめまして。カイル・セドリック・ハーシェルです。以後お見知りおきください」
礼儀作法の家庭教師に習ったまま礼をとると、例のごとく二人の男は「おお。これは聡明なご嫡男ですな」「将来が楽しみです」と口々に言った。
(……嫡男、ね)
その言葉に、心が冷めていく気配がした。結局、彼らもカイルのことを次期侯爵としか見ていないのだ。
”カイル”など、必要でないと告げられている錯覚に陥りそうだった。
家族も、使用人も、他人も、誰一人としてカイルを”カイル”として見ていないのなら、誰が見てくれるというのだろう?
ずっと抱いていた疑問だった。
そして、”カイル”という人格の崩壊が間近まで迫った気がした。
その時。
突然、右手がつかまれる。
咄嗟に反応が遅れたが、カイルが正面へと目を向けると――そこにいたのは、自分より年下の銅色の髪の少女だった。
へらっとした笑みを浮かべ、なぜかカイルと握手している。
(なんで、あくしゅ?)
普通の貴族同士の挨拶ならば、ここは礼をとるはずだ。
頭で考えつつも、現実のカイルは、はじめて見る衒いのない笑みに、言葉も失って瞠目していた。
今までにないくらい、胸の鼓動が大きくはね、速くなる。顔が、赤くなるのを感じる。
すると、少女はにこやかに自己紹介をはじめた。
「はじめまして。わたし、エステルっていうの。よろしくね。カイル」
「え、エステルっ! 呼びすてにしちゃだめよ! いい、エステル。カイルさまは次の侯爵さまなのよ? とってもえらいの。だから、カイルさまってお呼びしなくちゃだめ!」
隣にいた紅の髪の少女がエステルを諌める。
紅の髪の少女は、エステルと違いを見せつけるように裾をつまんで膝を折った。
「はじめまして。メイナード子爵の娘、カレン・ローナ・メイナードと申します。よろしくくださいませ、カイルさま」
貴族の令嬢として恥じぬ挨拶。だが、同時に”カイル”を次期侯爵として見ているのだとも言えた。
それが、正しいのだろう。貴族の付き合いとは、そういうものだ。
――しかし。
カイルが今、求め、一縷の望みをかけていたのは――。
右手を包む、温かい感触。目の前にある、純心な笑み。カイルのご機嫌を伺うような敬語ではなく、素の言葉。飾り気のないすべて。
(――みつけた)
そう、思った。
やっと……やっと、次期侯爵ではなく、”カイル”を見てくれる存在に出逢えたと。
彼女にとってはわからない。でも、カイルにとってはそれが運命だった。
「カイルさま? ぼーっとしてどうしたの?」
首を傾げて銅色の髪を揺らすエステルに、カイルは顔を歪めながらも、なんとか笑みを作った。それが、父の……貴族たちの望むものだったから。自分の役目。それでも、これまでのようにうまくいかなかったのは――心の箍が外れたからだ。
渇望していた心が潤うように、涙が溢れそうになった。けれど、初対面の挨拶で涙を流すのはおかしい。
必死に心を押し隠し、カイルは目を細めた。
「――よろしく。カレン……エステル」
ようやく紡いだ言葉は、喉に感じた鈍い痛みを堪えたせいで震えてしまった。