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侯爵様の好敵手  作者: えんとつ そーじ
五章 必死に、手を伸ばす
29/33

 5

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 静かな部屋に、紅茶がカップに注がれる音が響く。

 侍女はソファに座るカイルとエステルの前に紅茶を用意すると、一礼して部屋を辞した。


 少し香草が加えられているのか、紅茶は甘やかに香り高い。

 カイルはそれを口にし、久々の再会に歓喜する心と緊張とを落ち着かせようと試みた。

 温かい紅茶が喉を通っていく。わずかに心休まると、生まれた少しの余裕からエステルの様子を観察する。

 エステルは、金の毛並をしたクマのぬいぐるみを抱いていた。縫い込まれた翠の目も相まって、そのクマがセシルに似て見えてしまうのは、カイルのこじつけだろうか。

 どきりどきりと胸が動悸のような鼓動を刻む。

 知りたくて、しかし知りたくない現実を想えば、未来への恐怖と期待にもどかしさを覚えた。

 エステルのクマを撫でる素振りを見ないよう、睫毛を伏せる。

 そうして沈黙が続いたが、カイルはエステルからの視線を感じ、静かに深呼吸した。そして、口火を切る。

「ずっと、謝りたかった」

 ――エステルから、どのような言葉がもたらされるのか。

 彼女と復縁したいとばかり願い、この頃はそれしか見えてなかった。けれど、エステルを目の前にして、刻一刻と向かい合わなければならなかった現実が見えてくる。蓋をしてきた感情の封を解かねばならないのだと、覚悟せねばならないのだと肌で感じる。

 必死に行動していた時は鳴りを潜めていた恐怖心が蠢く気配がした。

 唾液を呑みこみ、エステルからの言葉を待つ。

 罵倒も覚悟の上だった。無実の彼女を責め立て、婚約破棄を願ったのはカイルに他ならない。どんなに責めてくれても構わない。だから――カイルの存在を無視することだけはしないでほしかった。どうか、彼女の世界にカイルの存在があることを許してほしい。

 ひたすらに、そう願う。

 ――エステルはきっと知らない。カイルにとって、カイルとエステルの世界に在るカイルだけが、本当のカイルなのだ。他はすべて、求められた姿を演じているに過ぎない。”カイル”ではなく、キング侯爵家にひけをとらないハーシェル次期侯爵を。

 やがて彼女は顔を上げた。

「……なにに対しての謝罪か、訊いてもいい?」

 その言葉に、カイルは瞳を揺らす。彼女の意図が、読み取れなかった。

 だから、淡々と謝罪までの経緯を言葉に連ねる。

「俺は、おまえの不貞を疑った」

「ええ」

「婚約を、一方的に破棄した」

「……」

「ずっと、ずっと謝りたかった。――エステル、傷つけて、本当に申し訳なかったと思ってる。すまない」

 カイルは頭を下げる。膝の上で握られた拳は、怯えるように、そしてやるせなさと悔いで人目にわからない程度に震えている。

 ――決して、これで許してもらえると思ってはいなかった。エステルが許してくれるまで――許してくれなかったとしても、傍にいることを認めてくれるまで、何度でも謝ろうと思っていた。

 けれど――エステルはほろ苦く笑った。

 エステルの反応に、カイルは唇を引き結ぶ。彼女の反応が慈悲のような優しさなのか、カイルを切り捨てたことによる拒絶なのか、わからない。

 握る手に汗が滲んだ。

 エステルは言葉を紡ぐ。

「不貞を疑ったことに関しては、謝罪を受けるわ。だから、顔をあげて」

 柔らかい声に、カイルは強張らせた心を解しながら伏せがちだった顔を上げた。その先にあったのは、エステルの紫の瞳。

 紫水晶より青みがかった瞳は、まっすぐにカイルを見つめていた。

 エステルは視線を逸らすことなく、言葉をつぐ。

「だけど――婚約に関して、謝罪はいらないの」

 カイルは拳に力を込める。

(やはり、エステルは……)

 ――許せないのだろう。

 エステルの気持ちをそう読み解く。それはそうだと、客観する冷静な自分が皮肉げに嗤う。縋った彼女に耳をかすこともせず、一方的に拒絶した。どんなにカイルがそれを後悔しようと、傷つけられたのはエステルであって、カイルではない。カイルは自らの手で傷ついただけ。他人事であったなら、同情するより先に呆れていたかもしれない。

 考えれば考えるほど後悔ばかりが押し寄せる戻らない過去に、顔を歪めて頷く。

「……エステル。そうか、そうだよな。許してもらえることじゃ、ないよな」

 精一杯声を振り絞って答えたが、なぜかエステルは首を横に振った。

 その理由が、カイルにはわからない。

「そうじゃ、ないの。――謝らなくていいの」

「エステル?」

 ――わからない。

 そう、わからないのだ。エステルがなにを感じ、どう考えているのか、なにも。

 不思議な喪失感を覚える。目の前にいるエステルが、自分の知るエステルではないような感覚。

 ――それでも。カイルがエステルに向ける恋情は揺らがなかった。好きでたまらない。手放すことはできない。その気持ちは一切薄れないし、かすまない。

 ただ、寂しくて、切ない。誰かに染められたのかと訊きたいけれど訊けない。そんな独占欲が渦巻いているだけ。

 眉宇を顰めているカイルに、エステルは澄んだ微笑みを浮かべた。

「もう、終わったことだし……婚約は、気持ちの問題だもの。誰が悪いとかじゃなくて、心が離れた。だから婚約が白紙になった。どんな恋人でも心が離れれば、婚約は解消される。それが私たちの身にも起きた。ただ、それだけのことだわ。だから、謝らないで」

 それはまるで、慈悲のように。

 だがその優しさこそに、カイルは焦燥感を抱く。茫然とエステルを見つめながら考えるのは、自分の存在がエステルにとって過去になっているのではないかという可能性。愛憎も愛情も、彼女にとっては心の傷が浅くなるまでに薄まっているのではないかという可能性。

 ――好きの反対は、嫌いではない。無関心だ。

 そんな存在になろうとしているのではないかという危機感。

 足場が揺らいだ気がした。自分の世界が崩壊する、そんな気が、した。

「カイル様、私はもう大丈夫。だから、気にしないで」

 茫然とした状態のカイルには、その言葉は空耳のように遠い。

 大切なものが、手のひらからすり抜けていってしまうような恐怖。彼女を物理的に捕えなければという焦り。カイルの世界は、エステルが支柱にあった。そのエステルがいなくなってしまったら――。

(胸騒ぎが、おさまらないんだ)

 痛いほどざわめく胸に顔をくしゃりと歪め、席を立つ。足早にエステルの隣に立ち、彼女を見下ろした。

(離れていかないでほしい)

 まるで幼子が駄々をこねるような。

(遠くへ行かないでほしい)

 世界から見放されるような。

 もう、矜持や外聞などどうでもよかった。どんなに格好つけたところで彼女が離れていってしまうなら、いっそ本当の気持ちを吐露してしまおうと、思った。

 彼女は誤解したままだ。カイルがカレンを信じた結果、エステルとの婚約を破棄したのだと。――そうではない。そんな理由ではなかったのに。きっとどんなに説明しても、エステルの心が理解することはない。彼女はそんな狂愛を知らないから。彼女の恋情は、そんな歪んだ形をしてはいないから。

「カイル様?」

 訝りながら名を呼ぶエステルの両肩を掴み、心の内をすべて言葉にした。

「エステル……心が離れたわけじゃ、ないんだ」

「……カイル様?」

「――幼い頃から、エステルのことが好きだった。だから、婚約した。その気持ちが変わったことなんてない。むしろ、大きくなるばかりだった」

 すべてをさらけ出すことは怖い。拒絶されることを恐れているから、怯えもする。それでも、ただ指を咥えて手放すことだけはできない。――例え、彼女の優しさや弱みにつけこんだとしても。

 一息吐き、囁く。

「婚約を破棄したのは……怖かったからだ」

「怖かった?」

 エステルが小首を傾げる。

 それにカイルは小さく頷いた。

「ずっと好きだった。守りたいと思う一方で、自分だけのものにしたかった。どこかに閉じ込めて、俺だけのものにしたいとすら思っていた。誰かに奪われるくらいなら、俺がエステルのすべてを奪って、俺も死のうと思うくらい……愛しいと思った」

 きっと、彼女は知らない。予想にもしていなかっただろう。こんな醜いほどにどろどろとした、カイルの切望を。本当は、知らないままで二人幸せになりたかった。エステルには世界の綺麗な部分だけを見てほしかったから、カイルは彼女の前で負の感情を一切見せたくはなかった。

 カイルの顔は涙を堪えるように歪む。

「守りたい。優しくしたい。――そう思うのに、独占欲と狂気が渦巻いた。だから、傷つける前に――いつか裏切られるのなら、その前に自分から信じる事をやめようと思ったんだ。そうすれば、すべて解決すると、思ってた……」

「カイル様」

「俺は、両親から愛されたことがなかった。侯爵家の嫡男としてしか、視界に入れてもらえなかった。心が渇望している時、エステルと出逢った。求めるものを与えてくれた。俺の存在を、許してくれた。――恋に落ちるのに、時間はいらなかった。婚約してからは……愛されたいと願うのに、愛されることが怖くなった。手に入れてから失うのが、怖くて怖くてたまらなかった」

 エステルは確かに、カイルに愛情を示してくれた。

 でもきっと。

(エステルが俺を想うよりももっと、何倍何十倍数えきれないほどに、俺の方がエステルを求めていた)

 エステルはカイルがいなくても”エステル”として生きていけるだろうが、カイルはエステルがいなくては”カイル”として生きてはいけない。

 その歪みに、過去のカイルは耐えられなくなったのだ。

 迷子になった幼子のようなカイルに、エステルは表情を緩める。陽だまりのような温かさがそこにある。

「カイル様、もう終わったことだわ。これからは幼馴染として支えるし、話も聞く。弱いところをたくさん吐き出して、また前を向けばいい。だから」

 エステルはそう言った。

 けれど。『もう終わったこと』――カイルはその言葉こそ一番聞きたくなかったのだ。

「……好きなんだ」と呟く。

 エステルがカイルの名を呼ぶが、かまわず彼女の頬を手のひらで包み、無理やり視線を合わさせる。紫の瞳に自分の姿が映っていることに安堵して、カイルは言葉を連ねた。

「エステルのことが、好きなんだ。婚約を破棄したのは俺だ。それでも……ずっと、好きだったんだ。狂おしい気持ちから逃れられると思ったのに、ずっとエステルの泣いた顔が頭から離れなかった。悔やんで悔やんで悔やみ続けて……すべてがカレンの罠だったって知った時……怒りで目の前が真っ赤に染まった。エステルを信じきれなかった自分に憤ったし、どうして信じきれなかったのか、自問した。――結局、一つの答えに帰結するんだ。裏切られることが怖いのも、失うのが怖いのも、狂おしい感情も、すべて。エステルのことが、好きだから」

 気持ちのすべては無理だとしても、その十分の一でも伝わってほしい――そう願って一心に紫の瞳を見つめる。

 息を呑んだエステルに、懇願するように掠れた声で乞い願った。

「エステル、もう一度、婚約してくれ」

 エステルの目が見開かれる。

 今度は彼女が呆けるように眉根を寄せた。

「……なに、言ってるの?」

 その反応は仕方のないことだろう、とカイルの理性は理解している。――彼女は結論しか知らない。言葉でどんなにカイルが婚約破棄をした理由を語ったとして、一方的に破棄された立場のエステルにとっては都合がよいとしか思えない筈。

 心苦しさと自己嫌悪に、彼女の視線から目を逸らす。

「……今さらだって、わかってる。それでも――もう一度、機会を与えてほしい。何があっても、もう放したりしない。むしろ、俺が放せない。だから――」

 カイルが再び目を合わせると、エステルの視線とかち合った。

「ごめんなさい」

 短い答え。

 けれど、そこにはカイルの望みや願いへの拒絶がすべて凝縮される。

(……どうしたら、いい)

 考える。

 ――どうしたら、彼女の心を再び取り戻せるのだろう。

 考えども、答えは見つからない。どうしたらよいのかもわからない。

 傍に居続ければ、ほだされてくれるだろうか。傍にいたい。その権利が欲しい。

 ――他になにもいらない。なにかを差し出せというのなら、彼女以外のなんだって差し出すことができる。

 溢れ出る激情に、エステルの腰をさらうように引き寄せ、強くかき抱いた。拍子に、クマのぬいぐるみが床に落ちる音がした。

「どうして」

 エステルの耳元で呟く。答えなど聞きたくなかったけれど、彼女は言葉を紡いだ。

「――好きなひとが、いるの。だから、ごめんなさい」

 瞬時に、カイルの脳裏に過ったセシルの姿。金の髪を持つ、美しい同期。

(だから、逢わせたくなかった)

 予想、していたのだ。カイルとセシルはよく似ている――そう自覚していたから。

 悔しくて切なくて悲しくて、エステルを抱きしめる腕の力を強める。

(やはり、胸騒ぎの正体は正しかった)

「カイル様、放して」というエステルの拒絶。カイルはそれを無視する。

「エステル、好きなんだ! エステル――っ」

「カイル様、放して!」

 押し問答が繰り返された。

(どうしたらいい。どうしたら――)

 手を放せば、もう二度と彼女はカイルのもとに戻ってこない。きっと、セシルも彼女に惹かれる。もしかしたら、既に惹かれているかもしれない。

(セシルは、俺とどこまでも似ている)

 だが。

 ――セシルは、エステルがいなくても”セシル”という存在を失うわけではない。カイルとは、そこが徹底的に違う。

(守りたい、大切にしたい、優しくしたい――本当は、エステルの願いをなんだって叶えたい)

 それでも。今、彼女の望みを叶えることはできなかった。

(エステルを、失いたくない)

 そう強く願った時、閃いたのは上着のポケットに入れていた睡眠導入剤。

 卑劣な手だと、わかっていた。わかっていたけれど、悪魔の甘美な囁きに耳をかしてしまった。

 カイルの片手がエステルの身体から離れ、ポケットの中から硝子の小瓶を取り出す。

 片腕一本でも、エステルを自分の首筋に顔を押し付け、身体をおさえつけることなど容易い。そこには男女の力の差があるのだ。

 首筋にエステルの吐息を感じながら、小瓶の蓋を親指で開ける。ついで、すぐさまそれを呷った。

 口内に流れ込む液体は、薬独特の臭いがした。

 そして。

 困惑と驚きで身じろぎするエステルの両手首を押さえつけ、彼女の身体を卓に押し倒した。

「カイ……っ」

 エステルの言葉を遮り、カイルは彼女に口づける。唇や舌が噛まれぬよう、噛みつくように深く。カイルの口内にあった睡眠導入剤は、重力と舌の動きによってエステルの口内へと運ばれた。


 ――これがカイルにとって、エステルとの最初で最後の口づけ。


 カイルはエステルを感じようと目を瞑る。

 温かい唇は、しっとりとしていた。彼女の拒むように逃げる舌に自分のものを絡ませ、心地よさに浸る。

 必死に抵抗を試みるエステルの動きをすべて封じ、彼女が薬を嚥下するまで唇を重ねた。

 薬に耐性のない彼女の身体は、カイルから逃れようと必死にもがいたせいもあり、すんなり薬が効きつつあるようだ。次第に抵抗する力が弱まり、涙の零れた目が少しずつ閉ざされていく。

 その姿を確認してから、名残りを惜しむようにカイルは唇をはなした。

「カイル……さ、ま?」

 うとうとと揺蕩いながら、舌足らずに呟くエステル。

 カイルは、妖艶に笑った。そうして、愛しむように彼女の頭を撫でる。

「毒じゃないから安心しろ。即効性の睡眠導入剤だ」

 すでに目を開けていることもままならないエステルを、カイルは抱き上げた。

「長旅で疲れただろ? しばらく眠っているといい」

 甘く、囁く。それまでカイルの耳元で甘言を囁いていた悪魔が、彼に乗り移ったかのように。

 エステルが完全に目を閉ざしてから、カイルは仕込んでいた中和剤を口にし、その部屋を後にした。



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