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侯爵様の好敵手  作者: えんとつ そーじ
五章 必死に、手を伸ばす
26/33

 2

.



 ――男爵は、すべてを知っていた。ユーフェミアに関すること以外、すべて。




 非礼とは承知の上で、焦燥からカイルは出立した。

 数日かけてクラーク男爵邸へと向かえば、出迎えた男爵邸の執事は驚愕を顔に浮かべていた。

 ――それもそうだろう。婚約破棄したというのに、その相手がなんの用あって現れたというのか。しかも、事前の連絡もないから、邸の誰もが心の準備をしていなかったのだろう。

 納得と共に苦笑しながら、カイルは言葉を紡ぐ。

「突然、すまない。クラーク男爵に話があって来たのだが……」

 申し訳なさそうに眉尻を下げながらいえば、年老いた執事は平静を装いながらも、緊張した面持で答えた。

「カイル様……かしこまりました。男爵にお伝え致しますので、少々お待ちくださ――」

「いや、俺が直接談判したい」

 もしカイルの来訪を男爵が知り、追い返されては意味がない。ならば、面と向かって話し合う時間をもらえるか交渉した方が、都合がよい。面会してすぐ追い返されたとしても、去り際に伝えたい言葉は告げられる。

 不意打ちという卑怯な形と重々理解していた。それでもカイルは、悪い結果になる前に手を打とうと必死だった。

「カイル様っ」

 執事をその場に残し、強引に男爵がいるだろう執務室へと歩を進める。

 正直、手段は選んでいられない。本当は、自分がどう動くべきか考える時間も、手紙のやりとりの時間すらもったいない。

 ――嫌悪するハーシェル家の権力を行使してでも、手に入れたいものがある。その為には、無礼だとしても、進む足を止めるつもりはない。

 足早な歩みを緩めることすらないカイルに、執事は諦めたかのように駆け寄り、すぐ傍を歩いた。

 執事は男爵が今どこにいるか一言も口にしない。それは無言の”招かざる客”という意思表示なのかもしれない。

 だが、カイルからすれば執事の助言がなくとも支障はなかった。日中であれば多くの当主は執務室で仕事をするし、部屋にいなければまた別室をあたれば良いだけのこと。

 見慣れた邸内の廊下。窓からは庭園が見える。季節は夏に近い春ということもあって、緑は色濃い。

(……そういえば、エステルは香草を育てていたか)

 彼女の痕跡が庭園のどこかにあるのだろうか。そう思えば、庭園を見渡そうと歩調も緩む。

 残念ながら、エステルの育てる香草が植えられた場所は見つけられないまま目的地の扉前に着いた。そう距離はないのだから、仕方がない。

 扉へと向いたカイル。

 すると、執事は我先にとカイルの隣に立ち、慌てた仕草で扉を叩く。己の職務を果たす為である。

「旦那様、お客様でございますっ」

 男爵へと呼びかける声は、焦りを含んでいた。

 カイルは苦い笑いを押し隠し、横目で執事の汗が伝う困った顔を見やる。招かざる客の来訪なのだ、仕方のないことだろう、と視線を正面に戻した。

  数秒の間の後。

「入れ」という声が部屋から聞こえた。しばらく聞いていなかった、少しだけ懐かしい声。

 執事はその声に従って扉を開くと、脇に控えてカイルへと道を譲った。

 カイルが促されるように部屋の敷居を跨ぐ。そうして視界に入った男爵は、執務机の椅子から驚愕と共に立ち上がり、ただただ茫然と立ち尽くしていた。

 カイルは今度こそ苦く笑み、ゆっくりと男爵との距離を縮める。その間も、男爵は一言も発さないまま、カイルの姿を見つめた。

 やがて男爵は、ようやっと覚醒したかのように「――カイル、殿」と名を呼ぶ。

 一年ぶりの再会。漂うよそよそしさを残念に思いながら、カイルは黒髪を揺らして懐かしむように微笑んだ。

「お久しぶりです。お元気そうでよかった」

 ついで、一切の笑みを廃す。

 ――本当はゆっくりと男爵と話し合いたい。だが、今は彼に考える間を与えず、勝負してしまいたい。

 相反する感情。

 しかし、優先したのは後者。そうしなければ――きっと、手遅れになってしまうから。

 心を決め、沈痛な面持ちでまっすぐ男爵を見つめて告げる。

「……今日は、男爵にお願いがあって参りました」

 男爵はなにかを察したかのように、瞳を揺らした。ごくり、と唾を嚥下したのが、喉の動きでわかる。

「……何用か、伺ってもよろしいですか?」

 男爵が発したのは、硬い声。

 それはそうだろう。男爵の娘との婚約は、カイルが一方的に破棄したのだ。婚約破棄に男爵の了承があったのだから、彼がカイルだけ責めることはできない。他方、エステルの不貞が事実であれば男爵に罪悪感もあっただろうが、疑惑は晴れた。とはいえ、気まずいに決まっている。

 だがカイルが心に引っ掛かったのは、男爵の他人行儀さだった。かつても次期ハーシェル侯爵として一線を引いてはいたが、今は見えない壁が立ちはだかっている。

 一抹の寂しさに、首を横に振る。

「男爵、以前のようにお話ください。あなたは俺を幼い頃から知っている。父のような存在だ――いえ、一時は義父ちちでした」

 心の壁を少しでも壊したい。図々しいと承知で言ったが、やはり男爵の返答は苦いものだった。

「ですが……今は、違いますので……」

「お願いします」

 言葉を重ねる。

 すると、男爵は「わ、わかった」と折れた。

(変わらないな)

 押しの弱さと情。カイルの父とは真逆の性質。それに幼い頃は救われた。そして、変わらぬ存在に安堵する。

 しかし、安心してばかりもいられない。今のカイルには、目的とせねばならないことがある。その為に、男爵邸に来たのだ。

 緊張を深呼吸することで鎮め、握った拳に力を込める。ついで、真摯な瞳で男爵を見据えた。

 瞬時に、部屋は緊張感で張り詰める。

「エステル……いえ、エステル嬢に会わせていただきたいのです」

 ――エステルが男爵邸にいないことは知っていた。知っていて、こう言葉にした。

 というのも、男爵やエステルが男爵邸に密偵が潜んでいると知って、良い気がするわけもない。どの道、カイルが現在エステルのいる場所まで行ったとして、都合良く会えるとも限らない。

 ならば、”男爵令嬢”として男爵邸でエステルを待ち構える方が良策だろう。

 そう考え、もう一度、言い方を変えて告げる。

「エステルに、会いに来ました」

 途端、男爵はカイルの真っ直ぐな視線から逃れるように、視線を彷徨わせ始めた。嘘がつけない――そんな男爵に微笑ましさすら感じてしまう。思えば、エステルも嘘が上手ではなかった。遺伝、かもしれない。

 婚約者であった娘を想いながら男爵を見つめていると。

 彼は、気まずそうにしどろもどろに答えた。

「その、だな……エステルはちょっと落ち込んでいてな……。気分転換に空気のきれいなところへ行かせたのだ」

 ははは、と誤魔化すように笑う男爵。しかしその笑いこそが怪しまれる原因なのだと、彼自身は気づいていない。さらに、彼は達成感に満たされたかのごとく安堵して相好を和ませている。

 カイルにとっては、真実を知っているからこそ、それがおかしくてたまらなかった。緊張していた筈が、肩の力も抜けそうになる。これがわざとだったとするなら、彼は相当に策士だ。――素だと知っているけれど。

 だが、男爵の空気に呑まれてはいけない、とカイルは気を引き締めた。まだカイルは目的を遂げてはいないから。

 押されると弱い男爵ゆえに、強い口調で願う。

「では、俺がそこまで行きます。場所を教えてください」

「え!? いや、それは――」

 男爵は焦ったように口ごもった。

(もうひと押しか)

 そう判じ、カイルは「お願いします!」と頭を下げた。

 そこで、少しの間が生まれる。

 前方から歩む音がカイルに近づく。頭を下げた形のカイルの視界に、男爵の下半身が見えた時、肩に温かい手が置かれた。頭を上げるよう促され、従う。

 視線を上げたカイルの目の前には、躊躇うような、困り果てた顔をする男爵がいた。

「カイル殿……エステルに会って、どうするつもりだい?」

(――どうするつもり、か)

 素直に答えるならば――取り戻したい。また、元の二人に戻りたい。エステルと、逢いたい。

 心の渇望が水を求めるように手を伸ばす。しかし、そのすべてを言うことは躊躇われた。どうしたら、男爵の心に届くだろうか――男爵の心に届く言葉を、探す。

 そうして、見つけた言葉はなによりもの本心だった。

 切ない。痛い。苦しい。その理由は――すべて、これに帰結するから。

「エステルが、好きなんです」

 一言では――言葉では言い表せないくらい。この先の人生すべてをかけても、伝えきれないくらい。

 その気持ちは、男爵に伝わっただろうか。

「……それで?」と問う男爵。彼は彼で、傷ついた娘を守ろうと必死なのかもしれない。

 彼女は、婚約破棄されてからしばらく、食事すら喉を通らないほどに弱ったのだ。心の傷が簡単に癒える筈はない。冤罪であったのならば、なおさらに。

 エステルを信じられなかったからこそ、信じられなかった者らは『今度こそは守ろう』と誓うのだ。それは、カイルとて同じ。

 罪悪感と願いがせめぎ合う。

 それでも。――カイルがカイルでいる為に。今度こそ、エステルを自分の手で幸せにする為に。

 ――彼女が幸せならそれでいい。そう思えたら、どんなに良かったか。

 カイルはそんな善人にはなれなかった。愛おしいから、彼女に関することで揺らぐ。彼女のすべてを自分のものにしたいという独占欲が渦巻く。他の誰かのものになるならば、彼女を殺して自分も死のうと願ってしまう。

 そんな狂気も、カイルのすべてはエステルによって支えられているからエステルに向けられるのであって。彼女こそが、カイルの世界の柱であり、世界とカイルを繋いでいる唯一。

 カイルは奥歯に力をこめ、男爵を正面から見据えた。

 男爵は金縛りにあったかのように、カイルの迫力に呑みこまれた。

「もう一度、婚約を申し込みます」

 決意を秘めて。震えることなく、心を告げる。

 だが、男爵はカイルの肩に置いた手を宙に浮かせた。切なく顔を歪め、唇を引き結ぶ姿は、どこか泣きそうにも、嘆いているようにも見える。そこから見えるのは、後悔、だった。

 それは、なにに対しての後悔か。――カイルも抱いている後悔、なのかもしれない。

 そう思いながら、カイルは言葉を続けた。

「エステルに非はありませんでした。――俺は、彼女を信じ切れなかった。……彼女を、好きだったから。信じて裏切られてしまったら、俺は彼女を殺して自分も死ぬ事を選ぶでしょう。だから……手放せる内に手放そうと、思いました。信じて裏切られる前に、俺が信じる事をやめようと……」

 そうして、自嘲した。

「でも、もう手遅れでした。婚約を破棄すれば、エステルへの執着は消えると、思っていた」

「カイル殿」

「なにをしていても、エステルのことが頭から離れないんです。それなのに、最後に見た苦しそうな泣き顔と悲痛な声しか思い出せない」

 思い出したエステルの泣き顔。もう、その姿しかどうしても思い出せない。かつての彼女は、喜怒哀楽を表に出す、ころころと表情の変わる娘だったのに。

 思い出せば、胸が苦しくてたまらない。後悔が押し寄せる。どうして――という自責と共に。

「苦しい時に思い出せば、いつも彼女の存在に癒された。騎士になるために王宮で過ごした長い時間も、彼女を妻とするためにがんばれた。それなのに。今、思いだせる彼女は辛そうな姿ばかりなんです」

 男爵とカイルの記憶に残る、初めて見たエステルの泣き崩れる姿。「信じて」と叫ぶ声は悲愴の色が浮かび、涙でこもっていた。

 ――カイルがどうして、婚約破棄したのか。

 それは。

「……俺は、カレンの言葉でエステルへの気持ちが揺れました。それは、愛情がぶれたのではありません。恋情が欠片でも失われたのではありません。カレンの言葉を信じて婚約を破棄したのではない――こう言ったなら、男爵は信じてくれますか?」

「……え?」

 男爵は訝るように、自身より身長の高いカイルを見上げた。その顔には、わからない、という気持ちがありありと浮かんでいる。それはきっと、男爵はカレンの言葉を信じてカイルが願う婚約破棄に応じてしまったから。

 カイルは切なく目を細める。答え合わせをするように、緩やかな微笑を刻みながら。

「俺は、カレンの言葉に、揺れたのです。――もし。もし、いつかエステルが不貞を犯したなら、と。人は変わる生き物です。良くも悪くも。俺は、カレンの言葉で、いつかエステルが俺の両親のようになったなら……と、妄想逞しくも想像しました。馬鹿馬鹿しいと思うのに……もし、という仮定の話が頭から離れなくなった。そして気づいたのは、自分の狂うほどの恋情です」

「狂うほど……」

 呟いた男爵に、カイルは苦笑した。

「俺は、エステルに裏切られたなら、きっと彼女を殺して自分も死ぬことを願うでしょう。その気持ちに……狂愛に気づいた時、思ったのです。彼女に裏切られる前に、自分が裏切らなければ、何を引き換えにしても守りたいと願うエステルを壊してしまうのではないかと。恐怖したのです。押し潰されそうなほどに、怖かった。だから、婚約を破棄しました。エステルの言葉に耳を塞ぎました。……それでこの狂おしい恋情から、解放されると、思っていた。願って、いたのです。」

 ――けれど。

「けれど――婚約が白紙になっても、俺の心が軽くなることはありませんでした。なにをしていても、エステルのことが心にあって……どうしようもなかった。なにをしていても、彼女を忘れることなどできなくて、心が彼女を求めて震えた。だから……エステルの不貞について、調べました。……結果は、彼女の無実を示すものでした」

「……カイル殿」

「本当は、もっと早くにこうしなければならなかったのです」

 もう、エステルはカイルを信頼することはないだろう。後悔するには遅すぎた。

 それでもエステルを諦めきれなかった。だから。

 カイルは懇願するように、顔を歪めて男爵に願う。

「お願いします。エステルに会わせてください」

 強い願いを込めて、かつて義父ちちになる筈だった男爵へと。

 けれど、男爵は振り絞るような弱弱しい声音で拒絶する。

「カイル殿……。娘は、あなたに会うことをきっと拒む。私はもうこれ以上、あの娘を傷つけたくないんだ。……カイル殿、わかってくれ」

「男爵……」

 男爵は、今度こそ娘を守ろうとしているのだ。それが、カイルにはよくわかる。カイルとて、今度こそ――という願いのもとこの場にいる。轍は、踏まない――と。

 しかし、カイルは引くわけにはいかない。もう一度、エステルに会いたかった。――どんなことをしてでも。

 男爵への理解も、エステルへの思慮も、封じ込めるように目を瞑る。

 ――偽善を廃し、傲慢なほどに自分の願いだけを見つめて。

 男爵を見下ろす。優位に立とうと、威圧感をもって。

「カイル……殿?」

 戸惑ように、男爵が目を丸くする。

 カイルは目にかかった前髪を掻き上げた。そして発した声は、思いのほか冷たく低いものになった。

「男爵、俺とエステルの幼い頃の約束が正式な婚約になったのは――うちが男爵家に資金援助することが条件でしたね」

「……」

「手段を選ぶつもりはありません。――使えるものは、なんでも使います。例え父でも」

 男爵の瞳に、動揺の色が過る。

 甘さを捨てたカイルを、彼は今まで見たことがなかったからだろう。自分の正義を信じ、権力に頼ることを嫌う姿しか見せてはこなかった。――それでも、他に手段がない。使えるものは、なんでも使ってみせる。

「カイル、殿……」

 躊躇いまじりの男爵の言葉を遮るように続けた。

「別にお金を返せといいたいわけではありません。――男爵、あなたは知っていますか?」

「なにを、だね?」

「カレンが伯爵と結婚したと」

 刹那、男爵の目が見開かれる。

 それを見たカイルは、会心の笑みを浮かべた。

「相手は中年の色ボケ伯爵です。……メイナード家は、相当お金に困っているようですね。娘をあんな伯爵に娶らせるとは。でも――かの伯爵家の権力は結構なものです。そう、一つの男爵家など簡単に追い詰められるほどに」

「――!?」

 男爵は顔を蒼白にさせた。彼は一言一句違うことなく、カイルの言いたいことを読み取ったのだ。

 かつて資金援助を必要とした、爵位も高くない男爵家に圧力をかけるなど、簡単なことだと。そして、カイルの実家である侯爵家が圧力をかけなかったとしても――なぜかエステルを目の敵のように追い込んだカレンが、伯爵の力を利用すれば、没落に追い込むことなどわけないと。

「カイル殿、君は――……」

 悲哀を宿した男爵の声。それは、なにに対してなのか。

 心が男爵の気持ちを読み取る前に、遮断する。今は、甘さも弱さも情さえも、切り捨てなければ欲しいものは手に入らない。義父と慕った男爵だとしても――実の父すら切り捨てたカイルにとっては、苦痛であってもできないことではない。

 けれど、ずっと哀愁帯びた男爵の姿を見ていることもできず、灰青の瞳を逸らして踵を返した。

 扉を開き、歩をとめる。

「……男爵、では、よろしくお願いします」

 ――願わくは、どこまでも非道な姿に男爵の目には映るように。

 カイルはその場を後にした。



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