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カイルの執務室中央に設置された卓で、男二人が向かい合う。
一人は部屋の主であるカイル、そしてもう一人は正装を纏った中年の男。
正装といっても、中年の彼は貴族ではないから紋章色の服を纏っているわけではなく、平民が貴族に会う際の装いに他ならない。それでも皴のない上着と丁寧に撫でつけられた髪は清潔感があり、整えられた口髭と上品な顔立ちが洗練された雰囲気を醸し出す。
男は、宝石職人であった。
気が早いながらも、カイルはエステルとの結婚指輪を作る準備に入っていた。――エステルとの結婚指輪、ゆえに、普段ならば来客室に職人を通すが、ユーフェミアとの結婚を諦めない父侯爵に邪魔されかねないと自身の執務室で話し合うこととした。
カイルにとって、ユーフェミアへの感情は地に堕ちたもの。もしかしたら、彼女は悪意なく父である王弟にカイルとの縁談をおねだりしたのかもしれない。しかし、彼女は権力者だ。後先を考えずに――自分の身分と権力を考えずに軽はずみな言動をとれば、その言葉がどのように波及して他者へと影響するのか考えねばならない立場である。
ユーフェミアは、世間知らずのお姫様だったのだ。彼女の小さなおねだりが、子爵家と男爵家に圧力をかけることに繋がり、挙句、子爵家は娘を強欲な伯爵家へと渡す羽目になった。
ユーフェミアにとってみれば、『そんなことは知らない、指示していない』ことなのだろう。だが、彼女は権力者として自身の影響を知らなければならなかった。
そんな娘を、カイルが愛せる筈もない。そもそも、カイルにとってこの世で”カイル”でいられるのは、エステルの前でだけ。ユーフェミアでなくとも、他の誰にも代わりはきかない。
王族の姫への復讐すら考えるカイルには、父侯爵の薦める縁談は失笑ものだ。もちろん父侯爵の前では、嗤うことなどしないが。
「カイル様、では、形はこのような感じでよろしいですか?」
職人の見せた指輪の図案に、カイルは満足げに頷く。
「ああ、それで頼む。――あとは、指輪の裏側に、文字を掘ってほしい」
「文字、ですか。それはどのような……?」
職人の問いに、はにかんで笑んだ。言葉にすることは、カイルにとって躊躇わずにいられないほど恥ずかしい。が、どうしてもエステルに伝えたい、いつまでも変わらぬ気持ちだと知っていてほしいから、囁くように言葉にした。
「永久に愛することを、誓う――と」
睫毛を伏せ、ここにはいない愛する人を想いながらの言葉は、睦言のように艶を含む。
カイルの言葉を図案の隅に書き留めながら、職人は優しく目を細めた。
「恋人を、溺愛してらっしゃるのですね」
カイルは、エステルの姿を脳裏に浮かべる。
どうしても泣いた姿しか思い出せないけれど、そんな姿も愛おしく、切なさに胸が苦しくなる。今にして思えば、あの時、抱きしめて慰められなかった自分が不思議だった。
「……彼女が、俺をこの世界に留めてくれた。俺が俺でいることを諦めずにいられたのは、彼女がいたからで――優しくしたい、笑みが見たいと思ったのも、彼女が唯一なんだ」
心を吐露する姿は、職人にとってみれば惚気のように聞こえるだろう。
しかし、カイルにとっては言葉にするほどに後悔が押し寄せた。
どうして彼女を手放してしまったのか。自分の狂気を向けてしまうことを恐れる感情はいまだあるが、それでも、話し合う余地も猶予も与えず、一方的に傷つけてしまった。
「……傷つけて、しまったから……今度こそ、大切にしたいんだ」
吐息のような言葉は、心からの真実。
*** *** ***
宝石職人が帰ると、執務室は静けさに満たされる。
まだ日中であるから邸内の使用人達は慌ただしく働いているだろうが、動き回る使用人と部屋に籠るカイルが顔を合わせることもそうない。
鈍った身体で伸びをする。
凝った身体を動かそうと、ハーシェル家に仕える騎士団のもとへ赴くことを考える。けれど、頭を振った。
団長は、カイルを気遣っている。恐らく、カイルの変化も察している。――だからこそ、これ以上心配をかけたくはなかった。
団長は、カイルを慮ってくれる。
しかしやはり彼も、カイルを次期ハーシェル侯爵と見ていた。
”次期侯爵として恥じぬよう”、そう団長がカイルに接することは決して間違ってはいない。が、カイルが押しつぶされそうになるハーシェル一族という繋がりの中で求めるのは、”カイル”を見てくれる存在だった。
ゆえに、カイルが団長に心を完全に許すことも、甘えることもない。
執務机の抽斗から、手紙の束を取り出す。それは、クラーク男爵邸に派遣した密偵からの手紙。
カイルはいまだ、男爵邸から密偵を引きあげさせてはいない。真実を知った後もそうしているのは、未練とエステルとの繋がりを持っていたいという気持ちからだ。
一番最近届いた二通の手紙を開く。
そこに書いてあるのは――。
一通目は、婚約破棄してから半年と少し、エステルは塞ぎ込み、人との接触を避けるように部屋から出なくなったこと。食事も避けるようになったが、マーサという年嵩の女中がなんとか食事をとるよう傍にいたこと。使用人間でのエステルに関する噂が、”不貞は嘘であった”という説が有力になりつつあること。その噂の発信源は不確かだが、”マーサ”という女中ではないかということ。
二通目は、エステルが長期に渡っての外出をしたこと。内密に後をつけたところ、道中で簡素な馬車に乗り換えており、行先はキング侯爵領であったこと。
以上が記されている。
便箋の文字を視線でなぞりながら、疑問に眉根を寄せる。
(……エステルは、どうしてキング侯爵領へ向かったんだ?)
カイルの知る限り、エステルとセシルは接触がない。密偵からも、そのような報告はなかった。では、どんな用事があるというのか。
エステルの考えが、意図がわからない。
さらに、エステルの行動をみるに、クラーク男爵令嬢としてセシルとの接触を図ってはいないようだ。彼女が男爵令嬢として接触を試みるならば、途中で貴族用の馬車から簡素な馬車に乗り換える必要などないし、令嬢らしく共に侍女の一人二人を連れていくはず。
カイルの眉宇が顰められる。(――どうして)といくら考えても、答えは見つからない。
確かに、カイルはエステルに憎まれてもおかしくないことをした。ゆえに、ハーシェル侯爵家の内情や弱点をキング侯爵家に教える、という仮説も立てたが、どうもしっくりこない。後ろ盾のなくなった男爵家が、ハーシェル侯爵家と同等の力を持つキング侯爵家に救いを求めた、という仮説も、エステルの行動からして正しいとは思えない。
ならば、なぜ――。
(嫌な、予感がする)
カイルは目を眇める。
もはや、胸に襲いくる不安は、”予感”ではない。
その正体は――予兆を確信したかのような、胸騒ぎ。
セシル・ラフェーエル・キング。
カイルと同い年であり、ハーシェル侯爵家の天敵とされるキング侯爵家の当主。王宮で同じ時期に従騎士として過ごした青年。
彼は、カイルと正反対の位置にいた。それでいて、酷似してもいた。
それを、カイルは誰より感じている。
だからこそ――セシルとエステルが接触する可能性に、心が大きく揺れる。
――手遅れに、なる前に。
カイルは次の一手として、セシルとエステルの間に何かが起こる前にと、自ら男爵邸へと足を運ぶことを決意した。
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